Learning Tomato (旧「eラーニングかもしれないBlog」)

大学教育を中心に不定期に書いています。

vol.485:アラサー教員奮戦記 第21回「「面白い」の持つ魔力と怖さについて」

2013年08月11日 | アラサー教員奮戦記


夏です。真夏です。ここ数年は、「立秋」とかそういったものは、ほとんど
実態を表さなくなりました。どうしようもないくらい暑いのです。夜中で30
度を超えるというのは尋常ではありませんね。さて、そんな真夏の中、大学
は前期が終了しました。終わってみれば、あっという間ですが、途中は息切
れを起こしそうになるものです。今日は、ちょっと真面目に授業設計につい
てお届けします。

何らかの教育を提供する時に、受講者の興味関心を引くことはとても大切な
事です。やりたくないと言われれば、それでおしまいだからです。ID(イン
ストラクショナルデザイン)という分野においては、ARCSモデルという授業
設計のノウハウがあります。その中では、まずはARCSのA=Attention(関心)
を獲得することが大切だと言われています。

Attentionの獲得の仕方については、様々な方法があります。その一つに、
受講生の「面白い」とか「面白そう」と感じる分野にターゲットをあてて、
それをきっかけに授業を展開しようという方法があります。これは確かに力
強い方法です。しかし、その副作用も強いのです。特に最近は、知識を得る
だけではなく、何らかのアクションを求める事が多くなっています。PBL
(プロジェクトベースドラーニング)とかSL(サービスラーニング)という
ものを代表的に、ただ知識を得るだけではなく、アクションを行う事自体が
学びの一部というものです。様々な形で「何か(自分で)やること」、
「体験すること」が重視されてきていると言えるでしょう。

アクションを起こすには、知識習得するだけ以上の動機付けが必要です。手
っ取り早く動かすためには、「楽しい」とか「楽しそう」に合わせていくこ
とは動機付けのための方法としてはオーソドックスでしょう。しかし、それ
は学生の「現時点での楽しさ」に頼るという悪魔のささやきと隣り合わせな
のです。

現時点での楽しさというのは、その人の過去の経験に起因してきます。たく
さんの経験をしてきた人であれば、当然「面白い」と思う範囲も広くなると
思いますが、経験が浅い場合には面白いという範囲も狭くなってくる訳です。
現時点での楽しさに頼るというのは、この過去の経験が起因するという面が
一つの問題点だと考えます。

故に、初めの段階で「面白い」と思えないものは参加しないという事になっ
てしまいます。参加してみた結果、新たな視点に気付くという事は多分にあ
ると思うのですが、初めの段階でシャットアウトしてしまうのです。「これ
だから最近の学生は」という事につながる事が多いのですが、一方、授業設
計の立場からは「楽しい」で釣ろうとしたら、そういう反応になるだろうと
いう事も思います。たくさん集まって人気があるように思えるのですが、一
方参加者は非常に偏っていたりするのです。そして、良くあるのが参加して
欲しいと思う人達や、参加したら良いだろうなと思う人が参加しないという
事態です。

また、別の観点では、「面白い」の裏での安易な自己責任への転嫁や授業設
計の怠慢がある事です。例えば、自転車に乗るという事を例に取ってみまし
ょう。まずは、自転車に乗って颯爽と走っている姿を見せ、「楽しそう」と
思わせます。自転車のスピード感だとか、遠くに行ける感覚を見せるわけで
す。その次には、補助輪を付けて乗せて(そして、そのことは伝えずに)乗
れた気にさせるのです。本人は自転車にのれると思っているが、結局は自転
車に乗れずじまいです。しかし、後は知らないよと。

当然、自転車に乗るためには、何度転んでも練習し続けるという経験が必要
ですし、もう少し細かい事を言えば、補助輪を付けて走っている姿を観察し
て、タイミングを見計らって補助輪を外すという事が必要です。しかし、手
間が掛かりますし、そして何よりこの瞬間「楽しくない」のです。転ぶと痛
いですから。楽しくない事をやらせるのは大変ですから、楽しいだけですむ
ようにしてしまえという悪魔のささやきが聞こえてくるのでしょう。悪魔の
声に耳を貸せば、「楽しいけれど、なにも残らない」という、そもそもとし
て教育としての何かを捨ててしまう結果になってしまいます。

また、最後には個人的な思いがあります。これは、自分が天の邪鬼だからと
いう事かも知れませんが、誰かが「これ、楽しいだろう」と提供するものに
対して、何となくの嫌悪感を感じています。それは、誰か他人が発する
「楽しさ」というのは作られた「楽しさ」であり、いうなれば「こうすると
楽しいだろ?」という意図を感じるのです。極めて偏った言い方をすれば、
「楽しまされている」とでも言うのでしょうか。極端に言えば、そこには
「自由」とは対極のものを感じます。

以上のように、私は「面白い」と言うことに対して、ネガティブな思いをも
っています。もちろん、楽しいが悪い訳ではありません。しかし、「楽し
い」とくに「現時点での楽しい」だけを評価軸にするのは間違っているのだ
と思います。

できることならば、「楽しいとは思っていなかったが、やり終わったら面白
くなった」とか、「途中で色々と出来る事が増えてきて面白くなった」とい
う事を目指していきたいなと思っている次第です。ただ、これは茨の道でも
ある訳です。
<文責 ハシモト>

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