黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

森の中の大前田英五郎の墓(大前田紀行2)

2021-01-18 15:00:36 | 群馬県・旧勢多郡

真っ白な朝でした。

何もかも凍っているという感じです

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

獅子くん、「凍てつく大地を踏みしめて」です。

赤城の地蔵岳は、降ってますね。

週末には、突き当たり左のミニカーのサーキット場目指して、他県ナンバーの車が行きます。

ひめちゃんたちは、左折して堀之内の北を廻って帰ります。

籾殻の山は白かったけれど、凍ってません

籾殻は、こんなに寒くても、凍らないんだねえ

帰り道、諏訪神社の枝カットされた桜の向こうに、浅間山が見えました。

 

 

 

 

186番・大前田地蔵菩薩石像の南に、187番大前田英五郎の墓があります。

行ってみましょう

 

「大前田英五郎の墓→」の案内に随って到着です。

森の中です。

石造物もあります。

向こうに、説明板らしい後ろ姿が見えます。

さらに奥に進んで、到着です。

とりあえず合掌

江戸末期、国定忠治とならび上州の侠客として知られる大前田英五郎は。寛政五(1793)年、旧大前田村田の田島家の次男として生まれました。

父久五郎は大前田を縄張りの中心とする博徒であり、兄要吉も「大前田の盲親分」と称され、英五郎も小さい頃から父の血を受け、少年時代は「火の玉小僧」と呼ばれていた。若い頃は、博徒の縄張り争いから各地を転々とし、「天下の和合人」と呼ばれる博徒の大親分となって、上州一国のみならず関東、東海、甲州といった県外にも知られ、全国に二百二十四箇所の縄張りを持っていたとされます。

 

名前は知っていました。

でも、そんなにすごい大親分とは知りませんでした

 

この北側のさらにうっそうとした空間にも、いくつか墓石があります。

ひっつき草の前に退却です

 

南側は、歩けそうです

権大僧都の文字が見えます

転がっている僧形の墓石にも、権大僧都の文字があります

もしかして、小さなお寺があった?

 

権大僧都というと、天保3年(1832)に「山上城家臣団の一覧」を創作した、「権大僧都鏑木武七正保」さんが思い浮かびます。

彼は、200年近く経っても、ある種の人々を熱狂させる法力をもった修験者なのです

 

ここは、たぶん修験系の小さなお寺でしょう。

 

入り口付近にあった小さなお地蔵様、もしかして幼くして逝った子どもの墓標かな?

合掌

七海ママの墓標も、石屋さんに依頼しました

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