黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

旧来迎寺跡地の宝篋印塔(中世中江田の記憶)

2020-09-19 22:38:17 | 群馬県・東毛

今朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出てお散歩です。

あれ、刈り取りのおわった田んぼに白鷺(しらさぎ)です。

ひめちゃんと白鷺の初めてのコラボです

サギさん、刈り取られた田んぼの淵で何思う?

ひめちゃんたちは、字・天神の田んぼを廻って帰ります。

庚申塚古墳の前を通ります。

あれ、双体道祖神のお隣は馬頭観音ですか

馬頭観世音の文字がはっきりと見えます。

 

 

来迎寺から、県道を東に少し行くと「山茶花」というお食事所があります。

そこから南に下ります。

まっすぐ行くと右手にあるはずです。

かなり下りました。

心細くなったころ、やっと右手に墓地が見えます。

もうここはまもなく国道17号線(上武道路)と合流しそうな所です。

あそこに見えるのは、17号線です。

 

路上駐車で、ちょっと失礼します。

案内板もあります。

 

来迎寺はここにあったんですね

明治元年の火災の時、阿弥陀如来坐像の仏頭だけ引き抜かれて救出されたという事でした。

その仏頭の写真は、『太田市の文化財』(太田市教育委員会・平成28年)にあります。

「鎌倉時代後半から終末に製作されたと推定されます。」とあります。

大事な中世の記憶ですね。

 

さて、宝篋印塔の説明板です。

応安三年(1370)の銘があるのです。

この宝篋印塔は、650年もの間、ここで世の移り変わりを見てきたのです。

 

史跡めぐりのスタンプボックスがあります。

スタンプもあります。

新田町の時代のものでしょう。

太田市になってから、おおたんのスタンプラリーの会場にはなってないようです

 

さて、宝篋印塔とご対面です。

文字がはっきり分かります。

650年立っても、しっかり残ってるって、すごい

 

北側はちょっと見にくいです。

台石は、古い石造物のパーツを使ってるような感じです。

 

中江田(なかえだ)は、中世の記憶がいっぱいあるようです

『新田町誌基礎資料台8号・村々の沿革と絵図』(平成3年)にも、次のようにあります。

江田郷は新田荘に属し、新田氏支族・世良田系江田氏の所領で、世良田頼氏の一子・満氏および世良田義有の一子・行義が江田氏を名乗った。確かな年代は不明だが数代が中江田に住んだと伝承し、新田義貞と鎌倉攻めを共にした。江田三郎行義の館跡と伝える所が字本郷にある。

 

そういえば、2年前に金山城ガイダンス施設で「江田館跡はどこに?」という企画展をやってました。

普通は、新田荘遺跡の江田城が、中世江田氏の居館と考えられています。

「江田館跡を整備するための発掘で、館が形成されるはるか昔のムラや、戦国時代のものと考えられる建物跡が多数確認されています。」とあります。

つまり中世の遺構はなかったということになります

それでは、「中世この地を支配した江田氏の江田館はどこにあったのだろうか?」ということになります。

中江田はその一つの候補になるですね

 

 

 

 

 

 

 

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