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日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

姥ざかり 花の旅笠 -小田宅子の「東路日記」 田辺聖子著

2007-03-02 08:03:15 | 私の雑感あれこれ
たらたらと読んでいる途中です。
江戸1840年代の、筑前の商家のおかみさん4人連れのお伊勢参り・善光寺参りの実際に彼女らが綴った旅の歌(和歌)日記を、田辺聖子さんが諸調査をした上で、読み解きながら私たち読み手に、書き下ろしてくださっている。
おかみさんたちの年代は50歳、52歳とか。商家を切り盛りしてきた一仕事を終わり、ご隠居を楽しめて、かつ体力もある年頃です。
道中の危険防止と荷物持ちに下男3人を連れての旅ですから、当時としては超贅沢なものでしょう。
次々と出会う風物を歌に詠みながら、取り交わすやり取りに、江戸後記の成熟した文化を九州筑前にも行き渡っていたのだと思いながら楽しんでいたのですが…。
(真似をして、歌を作ろうと思ったり(笑い))

伊勢参りを過ぎて、善光寺に向かう、木曾街道あたりで、
         -以下引用-

ー松風の声をともにと住むやらん あわれましらに似たるおもかげー  宅子
ゆたかな筑前の国ひとから見れば猿としか思えぬ人々のたたずまい。
 
         -以上引用-
「ましら」は猿の意とはじめて学習しました。
田辺聖子さんは、この一首から関連して、江戸末期に日本を訪れた、イギリス婦人が日本各地を回って記した書物の話を語っています。
本居宣長の、弟子のまた弟子の教え子、である宅子さんたちは、雅やかな言葉を駆使することも知っている、文化の恩恵に浴している側だけれど、貧の極みで生きている人たち、これもその時代の現実だったということ。
私も50代、宅子さんたちも50代。
いろいろ思うところもあるだろうな、と、そう勝手に思いを馳せながら読みすすめている。

少し、末尾に書くとすれば、
格差が広がったと、最近よく耳にするけれど、どの時代と比べてのことだろうか。
格差のない時代を知らない。
最低限の生活保障は必要だけれど、かつての本当にこの国が貧しかった頃よりも、充分豊かだと思う。
必要なのは、「機会が閉ざされないこと」だと思う。
制度とか、身分とかが前面に出て、機会を奪われてしまうこと、これはあってはならないと思う。