桜子でーす

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今日と言う日

2013年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
6月23日(日)

今日も晴れ。富士山世界遺産登録に喜びを寄せる人たちの動きは、益々、本格的となる。世界遺産を守ると言う形で進んで欲しいと思う。

明日から富士山一合目の家へ行くが、週日でも大勢の人が富士山に訪れるのでは無いかと思う。出来るだけ、観光客が使う道路は避ける事にしたい。
我が家は鳴沢村字富士山と言う住所が正式だが、この住所で郵便物が来るかどうかは、全く自信が無い。
郵便物を配達する方側も、山の中で迷ってしまうのでは無かろうか。だから、ここに住む人たちは管理事務所にポストを持っている。

夏の夜、富士山に灯りがまるでネオンの様に灯っている時がある。クルマのライトかと思ったが、御来光を拝む為に夜間登山をしている人たちの灯りらしい。今年は、益々、大変かな?

私は富士山へは五合目までしか行った事が無い。山登りは苦手な方だから、楽をして行ける所までしか登らない怠け者である。
山登りが好きで無いのは、下山をする時に、自信が持てないからだ。

兎に角、今日は、富士山の話題が彼方此方のテレビで大きく取り上げられている。お陰で、富士山付近に住む人達の歴史も知る事が出来た。
スーパーで売られている牛乳の種類は他の土地より多いのでは無いかと思う。私は河口湖のスーパーへ行くと、大抵、富士山麓の酪農家が出荷している牛乳や加工された肉の食品を買う。新鮮で美味しいから、多少、値段が高くても、富士山の大自然を味わう感じで、美味しい。

そうした酪農に従事する人達の話が『小さな旅』で語られていた。今では、富士山の西麓の広々とした緑の草地で乳牛を飼っている。
太平洋戦争に破れ、長野県等の開拓団の人々が入植した。引揚者や農家の次男、三男等の人が集まって、富士山の麓の溶岩流の高原で、しかも高冷地、更に水の足りない荒れ地を開墾して、牛を飼い始めたのが最初だと言う。

私は何時も「この牛乳は他より高いけれど、美味しい」と言いながら飲んでいたが、酪農家の人々の大変な労苦の結果であった事を改めて知った。
今でこそ、平和で豊かに見える人々の生活の中には、後から訪れた人間には想像もつかない苦労や悲しみがあったことを知り、大切にしなければならないと思った。

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『沖縄慰霊の日』の祭典で、小学校一年生の男の子が詩を読んだ。あんなに長い詩をよく作ったと思うが、「平和って何かな?この平和がずっと続いて欲しい」と締めくくっている。私は「本当だ、本当だ」とつぶやいた。

68年前の沖縄戦では軍人だけでなく、一般市民も多数、亡くなった。
特に、三つの女学校の生徒達が自決した悲劇は今も語り継がれている。

『ひめゆりの塔』の悲劇は、私にとって、非常に身近に感じられる。
それは、もしも、私が、当時、沖縄に住んでいたら、犠牲になっていたかも知れないと、何時も思うからだ。
『奇麗な服も身につけられなかった、美味しい物も食べられなかった、いや、それどころかまともな食べ物や水も、一切、口に入らなかったのだ。そして、傷ついた人たちの看護をし、敵襲の恐怖から逃れる事も出来ずに死んで行ったのだ。

私と、ほぼ同年齢の人たちが、この無謀で無慈悲な戦争に引きずり込まれて死んで行ったのだ。毎年、この沖縄のニュースを聴く度に、沖縄の人たちを始め、終戦当時の様々な悲惨な事件を思い出してしまう。

「平和って良いな!平和って何だろう?あなた方も生きていて欲しかった!」と、私は言う。

沖縄が、本当に平和な土地になって欲しいと、切に願う。










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