桜子でーす

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1944年10月25日とは……

2014年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
10月25日(土)

最近、かつては重大な秘密になっていた様なニュースが続出して、戦時中を体験している私でも初耳が多い。

今朝も『神風特攻隊』の話題が出た。
残念ながら、当時の報道しか知らされなかった我々国民は、今、初めて深刻で非情な事実を知る事になる。
確かに『特別攻撃隊』の悲話は今までにも太平洋戦争の歴史の一部として、私達にも理解出来たが、これはほんの話の一部に過ぎないと知る様になった。

それ程、当時は重大な軍事秘密として、一般の国民には分からない事が多過ぎた。
若し、敢えて知ろうとすると、必ず厳しく制止される。
子供心に疑問を感じても、
「そんな事を言うと、憲兵隊に捕まるよ」と母親から言われた言葉を思い出す。
国民は全く、蚊帳の外だったのだ。

その後、終戦を迎えると、日本はGHQの下に言論の自由は朿縛されていたし、戦時中の事を深く語り合う時期でもなく、敢えて、戦時中の話題を持ち出す人も少なかった。
人々は荒れ果てた戦後の郷土で、何とか立ち直ろうと必死な努力をした。
人間らしい生活を求める事自体が贅沢そのものだったのだ。
だから、戦時中の悲しい話題は敢えて避けたい思いで『自由』に憧れたものだ。


そうした中で、シベリア抑留で帰還した人々の悲惨な体験談や幾多の苦難を乗り越えて引き揚げて来た人々の話、そして、残留孤児の話題等等がニュースとなった。
国内でも、広島・長崎の原爆被災の問題や空爆等による災害、戦争で受けた国民の生活の苦しみもあった。
しかも、
こうした問題は、現在も北朝鮮の拉致問題に続いている。戦後は未だに続いていると言いたくなるぐらいだ。


戦後のフィリピンで三年間を暮らした私は、日本で得た情報以上に、更に厳しく悲しい出来事が現実に理解出来る様になる。
その中に、戦時中、既に敗戦の色濃いフィリピン在住の日本人達が、戦争の被害から逃れる為に、ルソン島北部のバギオへ向けて必死の山中逃避行を続けた話も、在留日本人のしるした一冊の本から得る事が出来た。
徹夜で読み続けた後の私は、眼を真っ赤にはらしながら勤務へ向かった事を、未だにはっきりと覚えている。

観光地と有名なバギオもに、この様な悲話があったかと思うと、単なる避暑地とは思えなかったし、その後はバギオに対する感情も変化した。

フィリピンは太平洋戦争末期の激しい闘いで終わった。
フィリピンの各地では、彼方此方に戦跡があり、未だに観光の目玉になっている。
これについては、自分が日本人である事で、その一方的な説明に反発したくなる事も多かった。
「そんな事は無い。日本の軍隊も勇敢に戦った!」と言う私の言葉に、友人(勿論、日本人)が慌てて制止する場面さえあったのだ。


ところで、本日、2014年10月25日は『神風特攻隊』出撃の七十年目に当たると聞いた。
全く、知らなかった。神風特別攻撃隊の悲話は何度と無く聞いているが、その元となる特攻機がフィリピンのルソン島にあるマバラカット飛行場から飛び立って行ったとは全く知らなかった。

戦況が悪く、既に物資不足の影響は戦争に使う油等にも不足し始めた。その結果、特攻機による敵艦への体当たり飛行で攻撃しなければならないとの結論に至ったと言う。
上官の命令に従うしかなかった若い部下達の心境を考えると、悲しいと言うより、悲壮感を持つ。
事実、素直な心を書き残した若者の言葉が胸を打つ。
本当は『死にたくない』気持だったのでは……

思えば、今、この人達が命を永らえていれば『後期高齢者』の仲間に入る歳になる。
私より少しばかり歳上で、若しかすると『赤い糸』で結ばれようとした人かも知れない。
どんなに歳をとって、体に変調があっても、生きながらえて、おおいに戦後復興に尽力したであろうこれらの人々に、自らの人生を強く生き永らえる機会を与えて上げたかったのにと、つくづく残念に思う。


フィリピンに三年間も滞在しながら、この飛行場のことを知らなかったのは、私の無知のせいだろうか?
いや、誰も敢えて語ろうとはしなかったのではないか?
本当に残念である。一度は訪れたかったのに……

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