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キザで女たらしの玉置浩二ファンになってしまった「メロディ」という曲

2021-11-09 17:51:29 | 日記

2009年6月に記述した記事を掲出する。今度、玉置浩二とオーケストラのコラボコンサートについて書いて見ようと思ったからである。

今、大盛況でチケット完売だそうである。

で19年前に書いたこの記事、今も同じ感慨である。

 

キザで女たらしの玉置浩二ファンになってしまった「メロディ」という曲  

www.youtube.com/watch?v=8xE-NgQMalg

玉置浩二を見たのは1980年頃であった。バブルの絶頂期の時代、珍しく自宅で歌番組を見ていた。安全地帯というグループが、当時の流行ファッションのテクノポップ風の格好でロボットのような無表情の(私にはそう見えた)くせになぜか叙情的で湿っぽい音調の「ワイン・レッドの心」を艶やかに歌っていた。「ワイン・レッドの心」はマイナーコードで、歌謡曲にしては音階の変化が細かく難しい曲なのだが、かすれ声に技巧をこらした歌い方が印象に残り、若いのに哀調表現の巧い歌手だなと思った。ほとんどテレビを見ないのだが昨年、ラーメン屋のテレビでグループではなくソロとして路上ライブや地味なコンサート・ツアーで活動していることを知った。いわゆるシンガー・ソングライターの格好、でイメージが変わり好感をもった。そのときにメロディーという曲を聴いていい曲だなーと感じた。その後、ラジオでなん回か聴いて、自分でもギターで歌ってみたいなーと感じていた。
山本潤子の「海を見ていた午後」のついでに見て、あっこの曲だと、繰り返し聴いた。

スタンダードとして歌い継がれる予感がする。

スタンダードナンバーは時代を越えて、歌詞とメロディーがつねにリアリティーをもって心情に染み込んでくることが重要である。もちろん、歌詞に作意が見えすぎる曲でも、旋律が優れていれば、スタンダードナンバーとして、生き残る例も多い。しかし詞との一体感があるほうが、共感する部分でより多くの人の心をつかみやすい。この曲の歌詞には作意がない。しかし情景が自然に見えてくる。

ここではあえて3フレーズにしぼり、ハ長調で解説、

・サビの「メロディー」の部分、ドドラーと歌い上げる。タイトルそのものと創作のコンセプトがマッチしている。ぐーんと高温に引っ張りあげ、言葉の最後を裏声にしている。これは技巧かもしれない、感情が高まり切なさが声として裏替えったのかもしれない。なぜ技巧と感じたのかといえば、すぐに続く歌詞。「泣かないでー」シソラソドー(1オクターブ上)の最後は裏声の音と同じ高温なのに地声で振り絞るように歌う。高まる感情を地声で力強く伸び放つ。だから心の奥底まで響いてくる。歌いこみ仕上げた裏声なのだろう。
・「あのころはーなにもなくて」ドレミソラーラソミレミー「それなりに楽しくやったよー」ドレミソレーミレドレミファソラこのフレーズは同じような音階を繰り返すのだが少しずつ変化させながら、上記のサビに期待をもたせるように持続していく。
ノスタルジー、郷愁はある状況の自分に出会うことで、胸がつまる。
この誰にでもあてはまる思いが、なじみやすい旋律となり耳に入る。歌っていると過去の自分がおぼろに浮かんでくる。曲と歌詞の一致。「なにもなくてー、それなりにー」レミファソラとさがりながら、ここで音階として一息つきながらの「間」、になって「楽しくやったよー」に切り変わり、共感に結びつきながらサビの「メロディー」につながる。全てはメロディーである。いい曲さえあれば何もいらないとの曲のコンセプトを強く印象付ける。
2番の歌詞もいい。サビにはいるまえに「みんな集まって泣いて歌ったねーは」酒を飲みながら次から次えとメドレーで歌っているうちに、泣いた日を蘇らせ「いつのまにー大切なものなくした」と感慨が湧き上がる、そしてウーとつぶやきに収束していく。
間奏にはいるとその感慨が心と体をかけ巡り、ほろ苦く揺れる。リフレインの歌詞は再び、あの頃はーのサビには入り、「遠い空ーながされてもー」と自分を振り返る心にとけ込み、「君のこと忘れないよーと」初恋のほろ苦さにもどり、「あの歌は聞こえてるよ」ー。とメロディーの楽曲コンセプトを歌う。そして、うー、のハミングで締めくくる。このハミングでこみ上げてくる。玉置浩二は涙ぐんで歌っている。

ボブ・ディランこそヒント

毀誉褒貶かしましい最近の玉置浩二について、この日記を中途でやめようかと思ったが、何度聴いても泣けてくる魅力に、書き、更に追加した。ミスチルの桜井との対談で「一気に書けた(他の曲も含めて)、今は何も書けなくなった」と語っている。シンガー・ソング・ライターになったからであろう。路上ライブの映像で自分のために歌うと述べている。自分のために書いた玉置浩二にとって、快心の作品群は、シンプルでいて音階が優しさに満ち溢れている。クラプトンを想起させる作品も多い。そして書けなくなった。すべてをひねりだしたから。長いスランプ、安藤さちこの影響から脱却することも創作のエキスを仕込むうえでは仕方がなかったのではないか。
壁を越えよ、バラードは良いがチャレンジしていない世界がある。メッセージ・ソングである。清志郎のような反骨が作品として出てこない。いまこそ、時代はロックの批判精神を必要としているのに。
この未開拓な分野の壁を乗り越えて取り組めば、創造性は高まるのに。ボブ・ディランに迫れ。

私は今はエンターティナーで良いと思っている。もともとプロテストソングを創るシンガーソングライターではないからだ。

玉置浩二よりはるかに声量があり、日本史上最高のエンタティナの尾崎紀世彦とは別だが政治は抜きにして歌手として我々を楽しませてくれれば良い。