私は小欄で60年代から70年代にかけての次代について郷愁とともに民主主義、チェックアンドバランスの機能について引き合いに出して記述している。
ノスタルジックに語るとアイビー文化を我々が作ったという自負、自分たちの日常を歌にしたフォークソング(マイク真木のバラが咲いた)からプロテストソング、学生文化を中心とした日本社会の高揚を支えた羽仁五郎の「都市の論理」。
実はすべてにおいて成長していた、日本の国力が急激に伸びて経済力も、国際社会におけるプレゼンスも、文化的発信力もすべてがた。
この時期、政権にとっては戦後で最も統治しづらい状況にあった。六〇年代から七〇年代にかけて、「一億総中流」が達成されて、市民の暮らしが年々豊かになってきた時期に、日本は最も革命的であった。市民運動も労働運動も学生運動も、まさにこの時期にその絶頂期を迎た。革新自治体が日本中にできた。「走れコウタロー」での美濃部都知事のアイドル化が大衆社会に受け入れられていた。
政権が国民をコントロールができなくなった時代、それが日本の高度成長期である。
内田樹氏も以下のように記している。
国民が豊かになり、より多くの自由を求め、権利意識に目覚めると、統治コストは嵩む。社会的流動性が高まると、国民を管理することはむずかしくなるpy2exe
1966年から70年、全国学園紛争の頃ですね。日本中の大学がバリケードで封鎖され、授業がなくなり、69年には安田講堂が「陥落」して、東大の入試が中止になった。70年の11月には三島由紀夫が個人的な「クーデタ」を画策して、割腹自殺をした。その5年間の経済成長率は10・9%。戦後最高なんです。皮肉なものです。
政治的騒乱がそのピークに達していた時に、日本人は同時にものすごい勢いで経済活動を行っていた。それはこの時期に十代二十代を過ごしていた人間としてよくわかります。人々が政治的に熱くなっている時に、人々は同時に経済的にも、文化的にも熱くなる。日本中の大学が「ほとんど無法状態」であった時に、日本の経済はとんでもない角度で急成長していたのです。この事実から何らかの法則性を引き出そうとした人がいたかどうか、僕は知りません。管見の及ぶ限りはいないようです。でも、「市民的自由が謳歌されている社会は、統治者にとっては管理しにくいものだろうが、市民にとってはたいへん暮らしやすいものである」ということがわれわれの世代は実感として身に浸みている。
統治コストが高い社会は活動的であり、統治コストが低い社会は非活動的である。そんなのは考えれば当たり前のことなんですけれども、組織管理コストを削減することが「絶対善」だと信じ切っているシンプルな人たちにはそれが理解できない。「角を矯めて牛を殺す」ということわざに言う通りです。わずかな欠点を補正しようとして、本体を殺してしまう。
権力は巧妙に着実に統治の障害を排除する。以前から述べている総評の解体、日教組の弱体化、青法協の弾圧、日銀の独立性、内閣法制局長官人事、ジャーナリズムの懐柔、チェックアンドバランスを見事に崩壊させた。我々が、まだまだ日本は民主主義が機能していると、70年代が継続しているような呑気な庶民でいたことにより、いつのまに茹でガエル状態になっていたわけだ。声をあげなければ、市民的自由は抹殺され中国や北朝鮮のような統治者の巨大化に潰されてしまうだろう。