コロナ禍における心理を研究している、臨床心理学が専門の筑波大学の原田隆之教授は「オリンピックの開催で、コロナを軽くみてしまう『楽観バイアス』が強まり、緊急事態宣言が意味をなさなくなってきている」として、具体的な対策の必要性を指摘しいる。
小欄はあえてコロナ厄の感染者の拡大は政権、メディアの翼賛体制による殺人であると厳しく批判している。
1,検査と隔離の基本政策を無視。あえて検査でも見逃すこともあるという否定的意見をメディアは紹介する。
2,ワクチン接種が広く行き届いてきたという報道をどんどん垂れ流す。検査しなくてもワクチン接種が進むから大丈夫というムードを煽る。
海外に比べて「さざ波」発言を擁護する評論家、それを報道するメディア。
3,コロナ情報を消すオリンピックのメダル獲得の大放映。
第5波で感染者だけでなく致死率物足りない上がっている事実を客観的に報道しないメディア。
これらの楽観的空気をつくりだしてオリンピックを強行する政権。犯罪的行為にほかならない。
以下の記事を紹介する。
原田教授は「もともと選手のことは応援したい反面、感染拡大への危機感から五輪に反対するという、相反する気持ちを抱えていたことや、コロナ禍で長い間我慢し、外出もできず、うっ屈した感情がたまっていたこともあり、日本選手の活躍という明るいニュースに触れることで、五輪に熱狂するようになっても、自然な人間の心理だと思う」と現状を分析しています。
そのうえで「五輪のお祭りムードが徐々に醸成され、一方で緊急事態宣言という矛盾する2つのメッセージが出ている。人間の心理としては、自分が聞きたいほうだけを取り入れてしまうのは、非常に自然で、大会の開催で世界中から人が来ても大丈夫なのだととらえてしまい『コロナはたいしたことがない』と軽くみてしまう『楽観バイアス』が強まる。緊急事態宣言も、最初は身構えたが、慣れてしまう『順化』の状況にあり、効果がなくなっている一方で、オリンピックという新しい刺激がある中、緊急事態宣言が意味をなさなくなってきている」と話しています。
「感染症だけでなく 人間の心理と行動を加味した対策が重要」
必要な対策としては「今は『楽観バイアス』があり、コロナの怖さを訴えても不安を持たなくなっていて、自粛してくださいとことばでメッセージを出し続けても効果がない。休業などの対策にインセンティブを与えたり、行動を物理的に制限したりと、長期戦を見据えて、感染症の問題だけでなく、人間の心理と行動の傾向を加味した対策がより重要になってくる」と指摘しています。
私は今すぐオリンピックを中止すべきだと声を大きくして主張したい。
第5波はまだ初期なのである。これからが感染拡大期である。これ以上の犠牲者を出さないために。
これほど悲しいオリンピックショーはない!
アスリートは「体育会バカ」である。多くの人は心の中の30%程度はみんな思っている。私自身、自虐ネタで大学では稽古だけで根性だけは成長して学問は天ぷら学生(衣ばかりで中身が薄い)ですと笑いを取っていた。それほど運動ばかりやっている連中はフレームを通して見られている。
今回のオリンピックでメディアに登場するアスリートに対して半分白けて見ている人が多いのは、コロナで人が死に生活が困窮している状況で「がんばれ日本」をやっているアスリートに対して潜在意識の体育会バカの印象がどうしても湧き上がってくるからである。
60%の人々が反対している中での強行、そして電通の佐々木、小山田などの人権侵害、従軍慰安婦は捏造といいはる杉山の起用など相変わらずの右翼人脈の醜聞でさらに祭典に亀裂が入り初めている。
メディアはメダル争いを放映しているが、アスリートの努力、勝利、嬉し涙に同調できない冷めた目がその姿を見ていることに気がつかない。
政権の支持率アップに利用されている哀しい雰囲気が取り付いているからである。
アスリートの中で不参加をきちんと表明した錦織選手だけだったのも日本のアスリート達の知的レベルが計れて悲しい限りである。
正義感に則されて言わざるを得なかった。という問題意識をもつ人々がどんどん減った。肩書も権力も名声もない人が述べた正論に、バツの悪い顔をして下を向いたり苦笑いをしたりする光景があった。
ところが、正論を無視して固まる連中や、論点をすり替えながら逆襲する連中が軽薄に連帯する時代、それが1980年代である。
そして2000年代からは権力者の言説が正論となり、批判者はあぶり出されて攻撃されるネット右翼の天下となった。
私はこの1980年代が嫌いである。私自身が広告クリエイターとしてバブルの時代の波に乗っていた。当時の文化がそれまでの文化のパクリやアレンジで、独創性がかけていると感じていたので、時代の小説、映画、音楽のカルチャーとは距離を置いていた。私はクラシック、ジャズに埋没していた。せいぜい聞いていたのはビリー・ジョエルであった。
仕事にのめり込んで24時間働いていた私はリベラルではあったが、正義感を抑えていた。多くのサラリーマンと同じように忙しく、深くじっくり思索する時間がなかった。
それでも歴史修正主義者の都合の良い歴史感を撒き散らす無知な若者達は徹底的に論破した。
この軽チャー時代を象徴するミュージシャン小沢健二の楽曲を最近聴いてみるとクラシック音楽パクリが目についた。アレンジ、編曲は録音環境の革新により、ちょっとした実験的な印象を感じさせることに才能を発揮していた。しかし本質的な自分の心から湧き出た楽曲とは感じられない。
高田渡の「自転車に乗って」の亜流「カローラ2に乗って」は高田の曲より遥かにヒットしたが、今ではどこにも流れていない。しかし、高田の曲はしぶとく耳にする。貧者、弱者に寄り添うプロテスト・ソングのシンガーは時代を超えて歌ってくれる。あの時代のコマーシャル・ソングの軽さ、まさにオザケンは時代の寵児であったが何も残していない。
そのカルチャーを継承して新自由主義経済の終焉を示唆したのが今回の利権オリンピックである。
佐々木宏氏、小山田圭吾氏、のぶみ氏に共通する人権感覚の欠如は新自由主義とともに成長した連中の軽薄さへの正義のしっぺ返しである。面白ければいい、金が儲けられればいい、そのためーには人をふみつけにしてもいい。そういう文化の残症がこの顛末である。
正義感についてTBILABOというサイトが以下のように記していた。
正義感の強い人は、決められたルールや一般常識、マナーを守ることを強く意識しています。ルールは規模の大小に関わらず、友達との約束など、小さなルールでさえ破ることはありません。一度、みんなで決定した事柄が彼らにとっての正義となるのです。
ルールが守られている環境が当たり前でり、ルールを破る人に対しては厳しく接します。ときにコミュニティの中で鬱陶しく思われてしまうこともありますが、コミュニティ内の風紀を守るために必要な存在となっていることが多いでしょう。
まさにこの考え方が今日まで続いている正義や人権について勇気を出して述べる人に対する攻撃や反発の心情であろう。
つまりうざい奴らだという思いが顕著な記述である。
不条理なことに勇気を出して意見を言う人間が活躍する時代である。
声をあげよう!権力の傲慢さと不正に対して!
正直者をイージーなヒューマニズムと愚弄する連中の自壊がはじまった。
オリンピックの音楽総合プロデューサー小山田氏が高校時代に行なったいじめを音楽雑誌で自慢げに語った行為について大騒ぎになり本人が辞任した。
このことについて爆笑問題の田中が擁護したとかで田中が批判にさらされて以下の釈明をしていた。
「いじめ行為ではなくて、クイック・ジャパン誌のあの記事が当時出て。多少の問題にもなったという人もいるけど、問題にもならずクイック・ジャパンがいまだに雑誌として続いてるということ。それは社会があれを許容した局面は俺はあったんだと申し訳ないけど思ってるんですよ」と私見を述べた。
いじめ行為は許せないとしたうえで「その周辺ではああいうことを語ること、それが許容される場があったんじゃないかということ。周りの状況を考えないと今、小山田圭吾一人に攻撃が集中しているけど。あの小山田圭吾の存在の仕方を許した環境も含めて考えないと
上記の分析は日本がバブル社会に突入した時代の社会風潮を指摘している。正義とか人権について議論するリベラルな人々をパッシングする兆候はそれ以前から見えだしていた。
ビートたけしが毒ガスギャグで受けだした時、弱者を揶揄するギャグについて私は青いと思われる真正直な人権感覚からして、「俺は笑わないよ!」と言ったものだ。事実、面白いとは思わなかった。
戦後民主主義社会とともに生まれた多くの中産階級を俎上に平和ボケだとか、ちっとも前に進まないとかの意図的な世論誘導をはかってきた保守陣営の工作が浸透しだした。どぎつい表現やあざといギャグで中庸の幸福を貶し、国威発揚の喚起を仕掛けだした。
その誘導が強者を是とする弱肉強食社会、つまりグローバル資本主義経済に染まった社会を生み、弱者救済は怠け者を増長させる制度として冷笑されたものである。
そうした社会のマジョリティはいじめに対して見て見ぬふりをする、いじめられキャラのいじめに対する迎合、それらの空気が世に蔓延した。しごくまっとうにいじめを批判するものはダサくてうざいと無視されていた。
小山田が高校時代の1980年代である。私は彼らの凄惨ないじめの内容はネットで大炎上しているので触れるつもりはない。
また、因果応報。多分、社会的制裁に彼は奈落の底に落とされているであろう。しかし、彼個人だけでなく同じ空気を普通に吸っていた日本人が多くいたのである。
教育基本法の改正、教科書検定の文科省の介入、そして歴史修正、いきすぎた個人主義という軽薄極まる言説を流布したメディア。いつの間にか集団の空気を読む同調主義者達を輩出してきた。
小山田のいじめについてインタビューした雑誌編集者、ライター達は言ういじめはエンターテインメントだと、そして「イージーなヒューマニズム」でいじめを糾弾するなという。
このイージーなヒューマニズムという言葉を持ち出しておぞましいいじめを露悪的に見せつける。ヒューマニズム、正義感、人権を揶揄して自分達の気持ちの悪いリアリズム表現の正当化する。それがかっこいいシュールだと言わんばかりに。
今、政権が行っている言い訳、すり替えの端緒があの時代に垣間見えるではないか。杜撰な論法、弱者への視点の欠如、権力の驕り、あちこちから邪悪な血が滴り出している。
自殺した赤木さんのファイルの文を捏造して、死者に鞭打つ安倍前首相、彼は盟友の籠池氏を詐欺師として人身御供にする卑怯な言い逃れを国会で連発。そしてそれを支持するネット右翼達の高揚。
今、1980年代から育ってきた優生思想論者達の傲慢さがあちこちの手抜き工事綻びから瓦解して顕になってきた。
正直者をイージーなヒューマニズムと愚弄する連中の自壊がはじまった。