gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

山下達郎と竹内マリアの炎上問題を考える。

2023-07-26 19:08:10 | 日記

竹内まりやの「人生の扉」という歌を聴いたときにうまくまとめた楽曲だなーと感じた。使いふるされた音階を誰にでもなんとなく馴染めるメロディーにして、抑揚なく平易にまとめる。それが老年期には心地よい。

♪君のデニムの青が褪せてゆくほど味わい増すように♪

この曲が発売された時期にこの歌詞は共感をよんでいた。

しかし皮肉にも味わいが軽薄さでこすれおちてださくなってしまった。

竹内まりやと山下達郎、仲良く似た者夫婦だなーと感じている。この夫婦が今、話題となっているのはジャニーズ事務所に批判的な作詞家から決別されたことである。山下が恩義を感じるジャニー喜多川への思いと、批判する者は自分の音楽を聴かなくてもかまわないと述べたことで炎上したようだ。

この二人とユーミンは豊かなノンポリで、弱者への配慮というものが一欠片も細胞に存在しない。「何が悪いの?」、そう権威に憤ったり、泣いたりしている人々にに対する想像力がない。豊かなノンポリは山下達郎のように自分の音楽に縁のないひとについて切って捨てることができる。
被害を受けている人をみて抗議の声を上げないのは消極的な加担である。今や時代はレイプに加担しなくても見て見ぬふりをするものに責任を問う。
私何度も記述している、ワグナーがナチスであろうと、その曲を聴く、その音階とワグナーの罪を聴き想像する。ユーミンが安倍総理の友達であっても「卒業写真」を聴く。

ただし、今回の山下達郎はジャニーズ事務所について黙して語らないフジテレビのような商売という営利が覗ける。山下達郎の計算した楽曲が耳に残らないのは魂を感じることができないぁらである。

 

 

 


せめて弁護士の立ち会いを!

2023-07-03 16:27:15 | 日記

自民党を支持し司法を信頼し、冤罪を争う被疑者にも何らかの落ち度があると思っているあなたにも運が悪ければまったく青天の霹靂、逮捕、拘束という苦渋を飲まされるかもしれない。
サリン事件で犯人としてマスコミが報道した河野さん、厚生省の村木さんなど降ってわいた嫌疑によって苦しい戦いを強いられた。
以下のひどい事件。

軍事転用が可能な機器を無許可で輸出したとして逮捕、起訴され、その後に起訴が取り消された「大川原化工機」(横浜市)の社長らが、国と東京都に約5億7千万円の損害賠償を求めた訴訟で、捜査を担当した警視庁の警察官4人に対する尋問が30日、東京地裁であった。今も同庁公安部に所属する男性警部補は事件を「捏造(ねつぞう)」と証言し、別の1人も見立てに合わない証拠を捜査幹部が軽視したと述べた。

 捜査の違法性が問われた裁判で、現役の警察官が自ら捜査を「捏造」と呼ぶのは極めて異例だ。

どれだけ長期間拘束され犯人扱いされたか、怒りで震えるだろう、私ならば。普通の人々が突然、居丈高な尋問を受ける。

そして以下は
免田栄 さんについて
見込み捜査、自白強制、物証の軽視、1986年泥縄式捜査と最高検の報告書  検証不可能
上記は警察官の捏造により人生を獄門で過ごした人についての例である。

奈落の底に落とされても全うに人権を大切にした被疑者扱いがあればまだ光明がある。ところが日本の人質司法は欧米先進国で批判されていてもいまだに改善されていない。取り調べにおける弁護士の立ち会いなど、国民はもっと声をあげるべきだ。

取調の弁護士立会

日本の人権は虹みたい。遠くから見えるが近づくと消える。
一人の警察官の事件処理は最高裁判決に類する

これらの言葉の嘆きは我々のそばで浮遊しているが、みんな他人事である。

冤罪が起こるのは国民の多数の意識と無縁ではない。

イギリス 1997年 誤判冤罪事件を受けて政府から独立した機関 刑事事件再審委員会が設置。なぜ日本は見習わないのか?


あの高野氏と共に1995年、取り調べへの弁護人立ち会いや黙秘権の行使を求めるミランダの会を設立した神山氏は「原則黙秘が基本になってきた」と評価した上で、取り調べ拒に向けても若手弁護士が全国津々浦々で実践していくことに意味があると指摘した。

以上の問題点を列記した。思い起こせばカルロスゴーン氏を弁護していた高野弁護士を叩く連中が多く、冤罪に立ち向かう弁護士であることを知ろうともしない。高野氏が検察に提案したGPSの装着などの意義を認めようとせずひたすら誹謗、中傷した連中がいる。、今、やっと制度化されようとしているが、そうした優れた弁護士を高額の報酬目当てと決めつける書き込みをされた。そうした批判が若い人材を萎縮させると述べておいたら、なぜそうなるかがまったく理解できない単純化した批判を再び書き込みされた。
しかし上記のように被疑者の人権を守るための制度化は我々が全うな裁判を受ける権利としてほんの1ミリの進歩であってもありがたいことである。

我々が司法の時代錯誤の制度改革に興味を持ちながら絶えず冤罪を見張ることがさらなる前進につながる。権力に寄り添って安心していても運命はわからないのだ。