里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

厳島合戦跡

2009年02月13日 | 野外講座
今月の山野草講座は“安芸の宮島”。

嘗て、毛利元就はこの島に宮尾城を築いて当時周防の大内義隆を討って実権を握っ
ていた陶晴賢をおびき出し、僅か四千の軍勢で見事勝利し中国地方制覇への道を開
いたのだそうだ。
(厳島合戦の布陣)
1555年、2万余の軍勢を率いた陶晴賢は塔の岡付近に布陣し300余の毛利勢が守る宮尾城を攻撃。
城兵はよくもちこたえ、やがて包ヶ浦に上陸し山越えした毛利本隊が背後から急襲するのに呼応して陶軍を壊滅状態に陥らせた。
陶晴賢の重臣・弘中隆包父子は晴賢を西方の大元浦に引かせ、瀧小路を背にして吉川元春(元就の次男)に対峙するも防ぎきれず、民家に火を放って大聖院から駒ヶ林に退却。
この時、吉川元春は「弘中は逃がしても神殿を焼かすな!」と、命じたという。

当時の武士は神仏への信仰が篤く、元就は戦後血で汚れた厳島神社の社殿を洗い清
めさせたり、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたほどという。

ともあれそういう訳で厳島神社は守られ、今では日本三景の一つに数えられ世界遺
産にもなった。 清盛様、毛利様、様だ!

(千畳閣の下から見た大鳥居→厳島神社)
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(人力車)

(多宝塔から見た大鳥居→厳島神社とその後方の千畳閣、五重塔)
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一方、1553年に主君大内義隆を討ち周防の実権を握った陶晴賢、
弘中隆包の「厳島は平地が少なく大軍を擁しての戦いは危険」と諌めるのを無視し
て合戦に及んだ挙句、実権を握った2年後には自刃の憂き目にあってしまった。

何を惜しみ 何を恨みんもとよりも この有様の定まれる身に」の辞世を残した
そうだが、現代の政治家や経営者の中にも部下の進言を聞かずに大失敗をしでかす
輩が多く、人間というのはあまり進歩しないらしい! 残念な事だ!


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