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里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

辻 堂

2008年01月05日 | 神 仏
昔から町内の至る所にあるこの辻堂。
予てから何の為に建てられたのか気になっていたが、今月の福山市の広報誌を見て
ようやく納得した。 60年の胸のつかえが取れた思いだ。

何でも、昔トコトコ歩いて旅をしていた時代に休憩をしたり、或いは仏像をお祀り
して日夜礼拝する為に建てられたものらしい。

しかし、昔は主要道の傍にあり人通りも多かったのだが、今やすっかり裏通りにな
ってしまい、しかも車社会となっては休憩する人とて無い。
まして仏様を拝む人など殆ど居ないので、辻堂もすっかり傷んでしまっている。

ホリエモンや村上ファンド、ミートホープや赤福、石油投機に走る守銭奴、或いは
深夜までこき使われる若者達、そんなに急いで(急がされて)どこへ行ってしまう
のだろう?

辻堂ででもノンビリ考えて、もう少しスローライフに切り替えたらどうだろうか?


(広報誌からの引用)
「嘗て、村々を結ぶ道路の辻や峠に建てられた小さな建物で、柱のみで壁は無く床
 は板張りの構造になっていて誰でも自由に利用でき、“休み堂”とも呼ばれた」
「又、仏像をお祀りした事から“地蔵堂”、“大師堂”、“観音堂”などとも呼ば
 れ、地名や建立者の名前で呼ばれる事もあった」
「こうした辻堂は広く中国・四国地方に見られ、県内では備後と安芸東部に集中し
 ている」
「福山では、初代藩主の水野勝成が若い頃に勘当されて中国地方や九州を放浪した
 際、その便利さを身を持って経験した事から、藩内の村々へ建てさせたと伝えら
 れている」 

(水野勝成)
父の水野忠重は三河国刈谷城主で、忠重の姉の於大の方は徳川家康の生母である。
従って、水野勝成は徳川家康の従弟に当たる。
1619年に備後福山藩(10万石)の初代藩主となり、3年の歳月をかけて福山
城を築城し、西国への備えと監視に努めた。
又、城下町の建設を初め治水や新田開発を行って、それまで湿地であった現在の福
山市の礎を築いた。



富士山噴火を鎮める神社

2008年01月03日 | 神 仏
元日には、バスで北側スバルライン5合目の小御岳神社へ参拝する予定だったのだ
が、2合目から上は雪で不通との事で、急遽富士山の東北東にある北口本宮冨士浅
間神社に参拝した。

主祭神は木花開耶姫命だが、父の大山祗神と夫の彦火之瓊瓊杵命も祀られており、
酒造、山火鎮護、五穀豊穣、養蚕、縁結び、子授け、安産などの御利益があると言う。
入り口の鳥居参道と赤鳥居
(嘗ては赤鳥居越しに見えた)ご神体の富士山拝殿とご神木の“冨士太郎杉”

しかし、神話を読むと
「高天原から高千穂に降臨した瓊瓊杵命が木花開耶姫命に一目惚れし、父親の大山
 祗神に結婚を申し込んだところ、喜んで姉の磐長姫と共に献上した。
 ところが、瓊瓊杵命は醜い磐長姫は親元へ送り返し、美しい木花開耶姫命と一夜
 を共にするが、それだけで身籠った妻の貞節を疑ってしまう。
 そこで木花開耶姫命は、
 “瓊瓊杵命の子で無ければ無事に産まれない”と宣言し、産屋に火をつけて出産
 に臨んだところ、無事に海幸彦、山幸彦(孫は神武天皇)などの子を産み、確か
 に瓊瓊杵命の子である事を証明した」
と言う。

どうも、神話の世界は何だか怪し気な話が多い。
私などは、女房の浮気臭いが「放火して死ぬ!」と言うので、仕方なしに認可した
と言う話の方が分かりやすく、こんな神達では余りご利益があるとは思えない!

だが昔の人達は、木花開耶姫命を火中出産の神話から火の神と考えたり、或いは本
来は水の神で噴火を鎮めてくれると考えていたらしく、お祀りする事により富士山
の噴火から免れようとしたらしい。
マア、何時の時代も「叶わぬ時の神頼み」と言う事だ!

(北口本宮冨士浅間神社の由来と祭神)
富士山の大噴火を恐れる人達の心を静める為に、垂仁天皇の命で木花開耶姫を祀っ
たのが始まりで、1615年に建立された本殿には、木花開耶姫命、彦火之瓊瓊杵命、
大山祗神の三神が祀られている。木花開耶姫は浅間大神と呼ばれ富士山はご神体。
木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)は、大山祗神(おおやまづみのか
み)の娘で彦火之瓊瓊杵命(ひこほのににぎのみこと)の皇后。

(現在の富士山周辺の地図)


(現在の富士山が出来るまでの大きな噴火)
・70~20万年前、小御岳火山の活動が始まり、噴火を繰り返しながら大きくな
          って、最終的には標高が約2400mとなった。
          現在の北側スバルライン終点、小御岳神社近くが頂上だった
          と思われている。
・約10万年前、 小御岳火山の南側で何度も噴火が起き、小御岳火山に重なっ
          て、現在の富士山の原形となる標高約2700mの古富士山を形
          成した。  
          この時の火山灰が関東地方に降り積もって関東ローム層にな
          った。
・約1万年前、  古富士火山が噴火し、流れ出た多量の溶岩が小御岳火山と
          古富士火山を幾重にも覆い、標高3776mの現在の富士山が出
          来上がった。
・1707年(宝永4年)、富士山南東側5合目付近から噴火し、宝永火山が出来た。


川鳥八幡神社

2007年12月04日 | 神 仏
一等磁気点の見学を終えて、直ぐ前にある川鳥八幡神社を参拝したが、
“神社の由緒”を見ると、
この神社には嘗て五十石の社領があったが、福島正則に没収されたと言う。
しかし、その地は今も“五十石”と言う地名だけが残り、“神田”と称して不浄を
禁じているそうだ。
何と先ほど見た一等磁気点があった場所がそうで、のっけから
「立ち○○○などしなくて良かったァ!」と冷や汗を掻かされた。

ところで神社だが、
失礼ながら「どうせ田舎の神社なので、痛んでしまっているのでは…」と思ったが
思いがけずこざっぱりした立派な神社であった。

(神社紹介)
(最初の鳥居)

画像には写っていないが、鳥居の前に二宮尊徳像がある。
今時珍しい。
(2番目の鳥居)

神社の由緒が書いてあった。
「この地はかつて砂鉄の郷と呼ばれ、神社の裏山に山の神を祀っていた。
その後、1352年に宇佐八幡宮より分霊。
周辺八個村の氏神とされ、社領も五十石あったと言う。」
(参道の千年杉)

先年の台風で倒壊したらしいが、大杉があったそうだ。
現在でも社叢には杉の巨木が林立していて神社の歴史が窺える。
温暖化で巨大台風が来ないように祈りたい思いがする。
(随神門)

銅板葺きのしっかりした門だ。
本殿も同様に銅板葺きだが、近年酸性雨が多いので腐食が心配になる。
(本殿、正面)

四十数年前に火災がありその時に立て替えられたそうだが、余程氏子にお金持ちが多かったらしく、銅板葺きのしっかりしたつくりだ。
神社の建屋や参道も良く整備され、しかも清掃も良く行き届いている。
神主さんの人柄が窺える。
(本殿、側面)

ご本家の宇佐八幡宮は大分県宇佐市にある全国4万社の総本宮。
主祭神は誉田別尊(別名:品陀和気命)=応神天皇で、八幡大神と呼ばれるそうだ。
(大仙神社)

八幡神社横に小さな祠があった。
大山の大神山神社から分祀して大国主命を祀っている。
大国主命は牛馬の守護神として敬われ、中国地方一円にわたって信仰されているそうだ。
(大仙神社に奉納された牛の像)

かつてはどこの農家にも使役用に牛馬を飼っていたので、その安全には特に気を配ったらしい。
又、死んだ牛馬もこの神社で供養したらしいが、今や牛馬を飼っている農家は殆どない。



限界集落の村祭り (2) 岩谷神社

2007年12月02日 | 神 仏
舅の町の北、金平山の山頂に岩谷神社があり、毎年11月23日がお祭りだ。
東には田原ダムが眼下に見え、北には備中町で一番高い天神山(標高:777.6m)
が同じ高さに見えるほどの高台だ。

この神社のお祭りも、昔は周辺の村々から行列が出来るほど参拝客が詣で、それを
目当てに多くの屋台もやって来ていたらしい。
ところが最近は過疎化の為に参拝客が少なく、私達が少し遅れて行った時には既に
お祭りも終わっていて、屋台も店じまいをしている有様だった。

この神社の奥の院は、ここからダムの方へ約800mも下った所にあり、小さな祠の
上には大きな岩が屋根のように覆い被さっていて、祠から見ると岩を流れる水がま
るで簾のように見え“岩谷の滝”として名高い(但し、近年枯渇気味らしい)。

もう一つ有名なのは、ご神体だ。
元は木造だったものを近年石像に作り替えたのだそうで、下の病気、縁結び、安産、
育児にご利益があるそうだが、いやはやとても写真は載せられない!

奥の院への案内鳥 居
拝 殿拝殿横のご神体



限界集落の村祭り (1)  鋤崎八幡神社

2007年12月01日 | 神 仏
舅の町では毎年11月3日に村祭りがある。

今年は孫の満1歳の誕生日会をすると言うので行けなかったが、今年はバス3台を
連ねて120人ものカメラマンが余計にやって来たらしい。
毎年、ローカルTV局やマニアのカメラマンなどが20~30人は来るが、今年は
カメラ倶楽部の団体が来て大盛況だったそうだ。

それに引き替え、肝心な村の連中。 すっかり過疎化してしまい、太鼓を叩く役目
の子供は少なく、神輿の担ぎ手は爺さんばかりで足元が覚束ない有様だ。

頭にインディアンのような飾りをつけて太鼓を打ち鳴らす子供達や、朝鮮人に似た
装束の大人達が繰り広げるイベントは、まるで昔へタイムスリップしたような錯覚
に陥ってしまうほどだ。
カメラマン達もそれが面白いのでやってくるのだろうが、さて何時まで続けて行く
事が出来るのだろう? 心許ない話だ!

(H17年のお祭り風景)
午前中は猿田彦を先頭に、拍子木に合わせて
鐘や太鼓を打ち鳴らしながら集落を回る。

「これから、お祭りが始まるよ!」
と言う合図らしい。
午後は各集落から集まった神輿を中心に神社
の麓を練り歩く。

先ず先導するのは猿田彦。

剽軽な仕種をしたり、赤ちゃんを脅したりする
人気者だ。
次は拍子木を打つ人。

後に続く鐘や太鼓の拍子をとるのだが、
既にアルコールが回っていてリズムが
怪しい。
鐘を叩く爺さん達に続いて子供達の
太鼓がやって来る。
主役の神輿。

年寄りが多い上に相当お神酒も入っている!
大丈夫かァ!?
そして行列は通り過ぎて行く。

真ん中に大きな日傘を差しかけられた神主
を挟み、まるでタイムスリップして昔に帰っ
て行くようだ!。
ご苦労さん!

本来なら出番の無い高校生。
小中学生が少ない為に駆り出されたらしい。

疲れと馬鹿馬鹿しいと言う思いと、そして
カメラに対する照れで余計に困っている。




一宮さん

2007年11月25日 | 神 仏
昨日は、備後一宮吉備津神社へお参りして来た。
主祭神は大吉備津彦命で、岡山市にある吉備津神社から分祀された神社だ。
鳥 居山 門
<>
寒桜(→花)拝 殿

境内にはその他にも、小さい神社ながらも多くの神々が祀られている。 顧客のニ
ーズに応えていたら多くなってしまったと言う事か?


中でも特異なのは疱瘡神社。

少彦名神を祀ってあり、古くから皮膚病や伝染病の神様として信仰されており、
今日ではアレルギーの神としても崇拝されているそうだ。
アレルギー性鼻炎を持つ私は入念に参拝した。

この備後一宮吉備津神社は、昔から一宮(いっきゅう)さんと呼ばれて親しまれ、
子供達は門前に立つ市でお菓子などを買って貰うのを楽しみに、親達の
「田植えや稲刈りの手伝いが良く出来たら、一宮さんへ連れて行ってやる」
の言葉につい踊らされたものだ。しかし、ついぞ連れて行って貰った記憶が無い!

その後、結婚して以来毎年参拝して来たが近年段々参拝客が減り、それに伴って屋
台や見世物小屋が減って来ている。
昔は、サーカスもやって来て、文字通り門前市となす状態で、一寸刻みでなければ
歩けないほどであった。 今は見る影も無く残念だ!

屋 台見世物小屋

備後一宮吉備津神社
一宮(いちのみや)は、奈良時代に中央から各国に派遣された国司が一番最初に参
拝した神社で、当然社格が最も高い神社とされたそうだ。
従って、備後一宮と言うのは備後の国で一番社格が高い神社と言う事になる。
祭神は大吉備津彦命(孝霊天皇の皇子で山陽道を制した四道将軍の一人)。

大吉備津彦命は元々吉備国一宮の祭神であったが、律令制の成立に伴い吉備国が分
割された際、各国の一宮の祭神として分祀された。
因みに、
元の吉備国一宮は備中一宮吉備津神社となり、直ぐ近くに備前の一宮吉備津彦神社
が建立されている。



川越、喜多院(2)

2007年11月10日 | 神 仏
喜多院の隣には“仙波東照宮”と言う神社もあった。


現在は、明治維新の神仏分離令以来別に管理されているが、嘗てはこれも喜多院の
一部だったそうだ。
この神社、日本の三大東照宮の一つで、仙波と言う地名をつけて“仙波東照宮”と
呼ばれている。

本場の日光東照宮や、一旦葬られた静岡県の久能山東照宮の事は知っていたが、こ
の仙波東照宮については初めて知った。
由来を読んで見ると、家康の遺言に基づき遺骸を久能山から日光に移す際、喜多院
に於いて天海僧正が4日間の法要を営み、その縁で家康公の像を祀ったのが始まり
とか。 
後には神社の社領として200石を貰ったそうで、この点からも江戸との繋がりが
相当強かった事が窺われる。
仙波東照宮山門近くを循環する観光バス

喜多院で面白かったのは五百羅漢だ。
釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩の他に十大弟子、十六羅漢
を含め538体が祀られている。

みな個性的というよりも、むしろ面白い顔をしている。  
印象的なのは、
・一番男前の石像。       台座がグラついていて尻軽なのだそうだ。
・法螺が壊れている石像。   嘘がつけない正直者と言う事か?
・十二支の動物を抱えた石像。 自分の干支の石像を拝むのだそうで、私も羊の
                   石像をしっかり拝んだ。
石像群の一部男 前
正直者?羊を抱えた石像



川越、喜多院(1)

2007年11月09日 | 神 仏
(11月5日)
新潟からの帰りに、久しぶりに上尾に住む義妹の家に泊まり、川越の市内観光に連
れて行って貰った。

観光案内を見ると先ず目に付くのが太田道灌の文字だ。
関東管領扇谷上杉持朝の家臣だったそうで、1457年に川越城を築いたと言う。
現在でも人気が高いらしく、市役所前には太田道灌像が建てられ、北の方には道灌
橋まで造られている。 その他にも氷川神社の例祭に太田道灌の山車が登場するが
29台ある内で最も大きいと言う。  残念ながら今回は全てパスした。

次に目に付いたのが“小江戸川越”。
何て事は無い、日本の各地にある“小京都”の江戸バージョンと言う事らしい。
その由来は、徳川家康が江戸の北を守る重要地として位置づけ、親藩や譜代の有力
大名を配置して来た事からも窺える。

例えば喜多院。

天台宗の寺院で、1599年に27世を継いだ天海僧正が徳川家康の厚い信任を得
ていた事から大いに栄え、1638年の火災(山門以外は全部消失)に際しては、
家光の命を受け江戸城の別殿を移築して、書院、庫裏に当てたほどだと言う。
因みに、家光誕生の間を客殿に、春日局化粧の間を書院に当てたそうだが、いずれ
も撮影禁止だった。

ここでは珍しい出会い(?)があった。客殿に面した庭の作者が小堀遠州だと言う。
この小堀遠州、備中松山城主(現在の岡山県高梁市)だった人で城下にある頼久寺
や岡山県矢掛町の大通寺の庭園を作った事は知っていたが、大名茶人にして徳川将
軍家の茶道指南役であると共に、桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築
や造園を手がけた大物とは知らなかった。
山門拝殿
拝殿(左)から客殿などへの渡り廊下小堀遠州作「曲水の庭」



弥彦神社参拝

2007年11月07日 | 神 仏
11月4日。
ホテルで「近場で紅葉の綺麗な所は無いですか?」と尋ねた所、
「弥彦神社くらいですかネ?」と言う答えが帰って来たので、早速行って見た。

(弥彦神社の位置と概要)


越後線から見た弥彦山新潟駅から越後線を南下すると、
やがて弥彦神社の背後にある弥彦山と
双耳峰の多宝山が見えて来る。
越後線から見た鳥居更に南下すると大鳥居が見えて来る。

上越新幹線開通を記念して昭和57年に立てられた鳥居で、高さは30m、上の額の大きさは畳12枚分もあると言う。
弥彦駅(JR弥彦線弥彦駅)

駅舎は弥彦神社をイメージして建てられている。

駅長さんは女性だそうだ。
神社通り神社前の鳥居が見えるこの通りは
“神社通り”で、土産物屋やホテルが軒を連ねている。
芸妓踊り今日は菊祭りも開かれ観光客も多い。

神社通りでは芸妓さんの踊りや若者達の
“ヨサコイ”なども特別に披露されていた。
門前町だというのに、艶かしい風景だ。
参道例年秋には菊花展が開かれ、これを目当ての観光客も多いそうだ。
随神門この山門は随神門と言い、例年二百数十万人もの観光客や登山客がこの下をくぐるそうだ。
拝殿(拝殿)
弥彦神社は越後一宮(つまり越後で一番社格の高い神社)と呼ばれる。
祭神は天照大神のひ孫に当たる
天香山命(アメノカゴヤマノミコト)で、
神武天皇から越後地方開拓の勅命を受け、稲作や製塩、漁労などの産業を興したと伝えられている。
奥の院(奥の院)
弥彦神社の背後にある弥彦山は全体
が神域で、山頂には奥の院が祀られている。

眼下には、西に日本海に浮かぶ佐渡島、東には広大な越後平野が見渡せる。
私の住む瀬戸内海地方など比べようも無い程の広さだ!



神社の祭り

2007年10月24日 | 神 仏
私の町は、1100年以上も昔には京都の上賀茂神社の荘園だったらしい。
その縁で、上賀茂神社から分祀すると共に、地名も京都を模して加茂川、芦原、貴
船などと名づけられている。

と言えばカッコが良いが、上賀茂神社の荘園は全国で2000箇所以上もあったそ
うで、わが町はその中でもかなり下のランクらしく、神社も町の佇まいもかなり
ショボイ!

実は、先週末にその分家の神社のお祭りがあったのだが、生活様式が変わってしま
い神輿の担ぎ手にも事欠く有様だ。
ここ何年かは何とか伝統を残そうと言う事で、若い衆に無理を頼んで少しだけ神輿
を担いで貰っているのだが、殆ど神輿はトラックに乗せ笙や篳篥はテープレコーダ
ーで済ませている状態だ。

若者達も酔っ払って、
「娘ェェー喜べェー今度の婿は」「ヨイヨイ」「仕事ーはァ嫌いでチョイト○○が好き」
と半ば自棄で囃しながら、車の通行だけは熱心に妨げるのだが、イマイチ神輿に迫
力が無い。
マァ これも歴史の流れで仕方が無いか…?
神 社神 輿