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里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

備中国総社宮参拝

2008年03月19日 | 神 仏
アズマイチゲを見に行ったついでに(失礼!)、予てから行ってみようと思ってい
た備中国総社宮に立ち寄った。

興味を持った理由は、
嘗て祭祀と政治が一体化して行われた律令制の下では、国司は国内の神社を巡拝す
る事が慣わしだったが、それが大変だという事でその後平安末期に至り、夫々の国
内に神社を分祀・総合した総社を国府近くに造る事により、巡拝の手抜きをしたと
聞いたからだ。

訪ねて見ると、先ず造りが立派だった。
鳥居を潜ると三島式庭園があり、拝殿の両脇には長い回廊が伸び、本殿も思ったほ
ど大きくはないもののしっかりした造りであった。
由緒を見ると、
2柱の祭神に加え、国内大小の神社324社と8柱大神を祀ってあるのだそうだ。

「成る程、こんなに沢山の神社を巡拝するのはたいへんだ!」 
訪れる前は、国司が横着を決め込んだものかと思っていたが、これでは政治をする
暇もない。  総社を造った事も納得した!

備後国では、府中市元町の小野神社境内に 総社神社があり、その近くに国府跡ら
しい遺跡があると言う。  折を見て訪ねて見るとしよう。


備中国総社宮
平安末期の創建で備中国の総社。
祭神は、大名持命(大国主命)と須世理姫命のご夫妻で、
その他にも高御産霊神・神産霊神・魂留産霊神・生産霊神・足産霊神・大宮売神・
     事代主神・御膳神の八柱神、備中国内の大小324社が祀られている。
現在の総社の地名も、この総社宮の名前に由来する。


陰陽師、安倍清明

2008年03月06日 | 神 仏
京の都に跋扈する鬼を、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」なる呪文を唱え
て追い払う、あのカッコ良い安倍清明の縁りの地が神辺町三谷にもあるという。

一昨年の3月、(遥照山の北東にある)阿部山の山頂に“安倍清明縁りの地”を訪
ねてTVで見た陰陽師が意外にも近い所で活躍していた事を知り、興味を持ってい
ただけに足を伸ばして訪ねてみた。

ところが、山腹に赤い鳥居が見えるのだが参道が見当たらない!
麓に何軒かある安倍さんの家を訪ねても全部留守で、途方にくれていると丁度折り
よく通りかかった婦人が丁寧に教えて下さった。

登って行くとそこには石塔と小さな祠があったが、石塔の文字は判読出来ず、由緒
なども書かれていなかったので、少し釈然としない思いがした。
近くには何軒かの安倍さんが住んで居られるようなので、その人達の氏神様ではな
いかと思うが、或いはその人達のご先祖が安倍清明に縁りがあるのかも知れない?
安倍清明は平安中期に実在したそうだが、この三谷の地に何を残したのだろうか?
興味は尽きない!
清明霊社の遠景鳥 居
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清明塚と清明霊社清明塚(→清明霊社)

陰陽師(おんみょうじ)
古代の中国から渡来した陰陽五行説を元に、神道・道教・仏教などを取り入れなが
ら日本固有の発展をした自然科学や呪術の体系を陰陽道と言い、陰陽道に携わる者
を陰陽師と呼んだ。

陰陽師は、
律令制がしかれた時代には、朝廷の下で天文観察や暦の作成、吉凶の判断などの仕
事に携わったが、律令制が緩んで来るに従って呪術をもって災厄を逃れる仕事もす
るようになった。
平安中期頃には、天文に携わる安倍清明と暦に携わる賀茂氏が陰陽道を独占するよ
うになり、平安時代以降には安倍氏の力が増し、陰陽頭(陰陽を司る部門の長官)
を世襲するほど有力になった。

その後、民衆の間でも陰陽道が浸透して各地に占い師や祈祷師などが現れるように
なり、明治以後迷信だとして禁止された後も暦や方角の吉凶などを見る時に相変わ
らず用いられている。



西中条の八幡神社 & 道祖神(どうそじん)

2008年03月05日 | 神 仏
昨日は神辺町西中条の八幡神社へ行って来た。

祭神は、誉田別尊・息長足姫命・三女神で、こざっぱりした神社だ。
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しかし、今回はこの神社を参拝するのが目的ではなく、この神社を建立する時に
土中から出て来たと言われる陰陽石だ。 
何でも、五穀豊穣や子孫繁栄を願う古い時代の信仰の象徴で、男女のそれをかたど
ったものだと言う。
 
備中町の岩谷神社を参拝した時にも同様な物があっただけに気になっていたので
行って見たのだが、祠の中には陰陽の木彫りが奉納してあり、祠の裏と横手には
土中から出て来たと言われる陰陽太神の石塔と、陰陽一対の石が祀られていた。
陰陽の木にしろ、石にしろ、何ともストレートな形をしていて気恥ずかしい!

明治政府が文明開化を進める際、このような神を祀る風習を外国人に非難される事
を嫌い全国的に破棄させたらしいが、今では全国で沢山祀られていて、奇祭が行わ
れる所も多いと言う。 
この道は権力をもってしても止められないという事で、良縁・下の病・子宝・安産
子育てなどのご利益を求めて参拝する人も多いと言う。
陰陽石霊神の祠陰陽太神
陰陽石


道祖神
古くは、五穀豊穣や子孫繁栄を願う信仰で、男女の性器をかたどった陰陽石や大き
な石柱が祀られていた。
その後、日本の神話や中国の道教、或いは仏教などの影響により、
悪霊や疾病を防ぎ、交通の安全を守る神としても信仰され、村境や峠や辻などの道
端に石碑や石像を祀られるようになった。
現在でも各地に、自然石・陰陽石・男女2体の石像・文字を彫った石などが祀られ、
賽(さい)の神、障(さえ=遮るの意)の神、岐(ふなど)の神、道の神、峠の神、
道祖神などの様々な名前で呼ばれている。

(神話の影響)
 死んだ妻の伊弉冉尊を黄泉の国に訪れた伊弉諾尊が、妻の余りにも醜い姿に驚き
 逃げ帰る時、追っかけて来た妻を妨害しようとして持っていた杖を投げつけると、
 その杖から(賽の神・障の神などと呼ばれる)神が生まれた。
 その事から、この神を悪霊や疾病を防ぐ神として村境などに祀るようになった。

 又、岐の神(=猿田彦神)とも習合し、道の神・交通安全・災厄よけの神として
 祀られるようになった。

(中国の道教の影響)
 道教は、仏教や儒教と同じ頃に中国から渡来した宗教で、その中に交通の安全を
 守る道祖神があり、それをそのまま導入した。

 道教信仰で日本に定着したものには、他にも次のような庚申信仰がある。
 「人の身体の中には3匹の虫が棲んで居り、庚申(かのえさる)の夜の人が眠っ
  ている間に天に昇り、上帝にその人間の罪を告げるので、虫が天に上ると寿命
  が縮まると考えられ、
  その為に、その夜には人々は一軒の家に集まり、眠らないように徹夜をする
  庚申講・庚申待などと称する行事をした」
 「本来はこのように長寿を願って行われたが、その後五穀豊穣や辻の守り神の役
  目も担うようになった。
  庚申塔も、初期は文字を刻んだものだったが、江戸時代には像を刻んだものが
  つくられるようになった」
  


道通さん

2008年02月29日 | 神 仏
正戸山の近くに“道通神社”という小さな祠があった。


昔から、

「あの人は用心した方が良いよ!」
「“道通さん”を祀っているから、
 機嫌を損ねさせると道通さんの
 祟りがあるよ!」
などとよく悪口の引き合いに出される神だ。


何の事か分からずどうも気になったので調べて見ると、笠岡市の横島にある道通神社から
分祀したものらしい事が分かったので、早速ご本家を訪問して詳しく調べてみた。 
場所は、先日通ったカブトガニ博物館の直ぐ北にある丘の上で、昔は文字通り島だ
ったらしい。  

鳥居をくぐると拝殿が見えてくる。
鳥 居拝殿

更に進むと、左手には社務所の前に神馬がいて、拝殿の後ろには本殿が続く。 
いずれも立派な造りで、掃除も行き届いていて気持ちが良い神社だ。

祭神は猿田彦命と応神天皇で交通安全・開運授福・諸願成就のご利益があり、特に
猿田彦命については西日本一由緒深い神社とされ、交通安全・開運授福・船玉の神
として敬われ、遠くからの参拝客も多いという。
社務所奥拝殿と本殿

本殿の左横に回ると“道通様の幸福の神使”2体の他、蛇を祀った小さな瓦製の祠
がたくさん並んでいた。

“道通様”というのは“トウビョウ”と呼ばれる小さなヘビで、人に憑いたり祟っ
たりするので恐れられ、これを鎮める為に祀られているのだそうだ。
道通信仰(蛇神信仰)は中四国の瀬戸内海地方にみられ、各地に“道通様”が祀ら
れているがほとんどがこの横島の道通神社からの分社で、金運・腹痛・神経痛・受
験などにご利益があると言われているとか。

古来、蛇は簡単には死なずしかも身体を絡ませて長時間交尾する事から、人間は脅
威と逞しい生命力を感じ、世界中で神として信仰されて来たという。
人に憑いたり祟ったりするという考えも、そういった恐れから生まれたらしい。
(これでようやく疑問が解消した!)

また、鏡餅は蛇がとぐろを巻いた姿を表し、注連縄は蛇が絡まって交尾をしている
姿を表していて、共に蛇神信仰の名残りだとする説もあるという。
果たして真相はどうなのであろうか?

 

蔵王山の神社

2008年02月04日 | 神 仏
昨日は蔵王山で“森林整備講習会”が行われる予定だったが、予報どおり雪が1cm
積もり、延期されてしまった。

さては、先日下見に行った時にお参りした“高龗神社”のご利益(?)があったらしい。
この神社、水や雨を司る神(龍)を祀ってあり、その昔、旱魃の時には福山藩水野
家も雨乞いをしたと言う。 「ムベなるかな」だ!
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高龗神社鳥居(憩いの森駐車場脇にある)高龗神社拝殿(→本殿)

もう一つ“猿田彦神社”と言うのがあった。こちらは猿田彦大神を祀ってあると言う。
村の八幡神社の祭りで、天狗の面を被って先導しているのがこの神らしいが、国土
の守護や五穀豊穣などまで担当しているとは知らなかった。
猿田彦神社鳥居(南麓にある)猿田彦神社(南東中腹にある)

いずれにしても、昔の人は至る所へ神々を祀ったものだ。
多くは火や水を鎮め五穀豊穣を願うもので、嘗て自然災害に苦しんだ事が窺える。

昨今では、嘗ての戦争や自然災害に加え、市場原理主義に基づく行き過ぎた競争が
至る所で問題を起こし、庶民の暮らしに大きな影響を与えている!
ひょっとして、昔から居る神々ではカバーできない問題なのかも知れない。
困った事だ!

高龗神社
祭神は闇淤加美神、くらおかみのかみ(高龗神、たかおかみのかみ)で、伊邪那岐
神が迦具土神を斬り殺した際に生まれた神とされている。
“闇”は谷を“高”は山の上を意味し、“淤加美”と“龗”は龍を意味しており、山に
あって龍(神)が水や雨を司り、穀物を豊かに稔らせてくれるとして信仰されている。
蔵王山の一角にあるこの神社は“蔵王権現”とも呼ばれ、その場所を阿弥陀峰と言
うそうだ。

猿田彦神社
伊勢の猿田彦神社から分祀された神社で、猿田彦大神が祀られている。
猿田彦大神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から降臨(天孫降臨)した時
に道案内をした神で、その後伊勢の五十鈴の川上で広く国土開拓の指導をしたと言う。
道開きの神として、交通安全、海路・国土の守護、五穀豊穣、商売繁盛、厄除け、
安産、長寿などにご利益がある。


天當さん

2008年01月29日 | 神 仏
昨日に続き今日も雪、10cm余りも積もってしまった。
お陰で外にも出られず、暇なので先日行った験潮場の傍にあった天當神社について
調べてみた。
この神社、入り江の出口の丘の上に建っていて、昔から“天當さん”と呼ばれて親
しまれ、私などは昔ここから遊漁船を仕立てていたので懐かしい名前だ。

この神社の建っている丘は天当山(手城山)と言い、昔は海に浮かぶ小島だったそ
うで、福山藩水野氏の時代に海沿いの干潟を埋め立てて農地を造成する事業が頻繁
に行われ、この一帯でも
 ・正保4年(1647年) :王子端から梶島山にかけて(現在の国道2号に)千間
               土手が築かれ、北に深津沖新田が造成されたのに続き
 ・寛文6年(1666年)~:沖潮止堤(東西1318間)を築き、手城新開を造成した
               結果、ほぼ現在の地形になったと言われているそうだ。
    


神社の由来を読むと、
「元禄7年(1694年)福山藩の発起により、沖浦(天当山の東)から勧請し、手城
 山天当大明神(祭神:大巳貴神=大国主神)を建立した」
「この潮止堤が自然災害により度々決壊するので、山の上から荒神社を移転」
「その後、消失した通安寺より天神社(祭神:菅原道真)を移設」
「以来、併せて3社をお祀りしている」
と書かれていた。

神社が建立された時代には、この南(現在の入江より南の新浜町以南)は一面の海
で、台風がやって来た時など潮止堤は一溜まりもなく破壊され、その修復に莫大な
費用と人夫がかかったらしく、神頼みの気持ちが良く伝わって来る。

福山藩は、潮止堤の修復に努めると共に、人心を鎮める為に神社を建立したらしい
が、同時に神社に、当時福山城の外堀まで続いていた瀬戸内海を守る要塞としての
役目も負わせていたらしい。
いずれにしても、重機の無い300年以上も前に大工事をやったものだと感心させ
られる!
天當さんの遠景天当大明神
荒神社と天神社恵比寿神社



金毘羅さん

2008年01月25日 | 神 仏
先日、服部大池へ歩いて行く途中の道路脇に“金毘羅大権現”と彫られた大きな石
燈籠があった。 自宅の近くにも“金毘羅宮”と彫られた大きな石灯籠がある。

どちらも四国の金刀比羅宮の事らしいが、燈籠の近くには神社らしき物は何も無い
のに不思議な事だと思って調べてみた。 
すると、金刀比羅宮に詣でる旅路の安全を祈って献灯したものとか、祭神の大物主
神が農業殖産の神でもある事から、それを願って献灯したなどと書かれていた。

今や燈籠としての役目は無く、まして信仰の対象など思いも寄らない時代で、全く
無用の長物になってしまった感があるが、町を彩るオブジェだと思えば結構サマに
なっている。

金刀比羅宮
古くは、大物主神を祀り“琴平神社”と称した。
その後、仏教の影響を受け、大物主神はインドで仏法を守る宮毘羅(くびら)大将が
姿を変えて現れた神だとして“金毘羅大権現”と改称され、相殿に崇徳天皇を合祀。
明治元年に神仏混淆が廃止されて元の神社にかえり、“金刀比羅宮”と改称。
全国の金毘羅神社(金刀比羅神社・琴平神社)の総本社で、香川県仲多度郡琴平町
の象頭山中腹に鎮座する。
江戸時代後期には、伊勢参りと共に金毘羅参りが盛んになった。

大物主神
天照大御神の弟、建速素盞嗚命の子、大国主神の和魂神で漁業航海、農業殖産、
医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様。

金毘羅大権現
権現とは、仏様が日本の神様として姿を変えて現れたものを言い、金毘羅大権現は、
薬師如来を守護する“十二神将”の内の筆頭の仏である宮毘羅(くびら)大将が姿を変
えて現れたと言われている。
元は、ヒンドゥー教のガンジス川の神クンビーラが仏教に取り入れられて宮毘羅大将
となったとされており、元来がインドのガンジス川に住む鰐が神格化され水神だけに水
運の神とされている。
 
(道路脇の燈籠)
金毘羅大権現金毘羅宮

余談だが、自宅近くの燈籠には子供の頃の強烈な記憶がある。
その後ろに、燈籠の名前に因んで名づけた“金毘羅屋”と言う駄菓子屋があり、そ
このお婆さんが凄かった。

何しろ、タバコは吸うやら、関西弁でまくし立てるやらで、お爺さん連中より怖い
くらいだった。
おまけにこのお婆さん、店を出て道路端に足を開いて立ち、石垣下の田に背を向け
ておもむろに着物の腰の辺りを少し手繰りあげたかと思いきや、腰を90度前に屈
めて放尿するのだ。 誰が見ていてもだ!

最初にそれを見た時には、女性にも立ち○○○がある事を知り、あっけにとられて
思わず見とれてしまったが、ひょっとしてこれはセクハラだったのだろうか?  
長閑な時代の話だが、今やこんな豪傑は居ないだろう!


お糸さん

2008年01月20日 | 神 仏
昨日は、家内に内緒でお糸さんに逢いに行って来た。
お糸さんは16歳。 隣町の服部大池に住んでいる。

(服部大池)
土手の外側土手の内側
池の上流に見える蛇円山平成時代に改修された取水塔

実は、このお糸さんの事、残念ながら浮いた話ではない。
今から365年前に、かんがい用に服部川を堰き止めて服部大池を造る際、土手の
決壊を恐れた人々のせいで人柱にされ、土手の奥底に眠っている。

恋人も後を追って自殺したと言い、それを哀れんだ人々が二人の霊を慰める為に、
池の傍の丘の上に水天宮を祀りその下に松と槙を植えたと言うが、木は昭和50年
代に2本とも落雷で枯れ、今はその木をご神体に「お糸大明神」として祀られている。
お堂の脇には、“お糸嬢碑”が建てられていて、
碑文には「松と槙 しかとむすびて とこしえに みどりいろこく 天をつくまで
と書かれているが、切り株だけとあってはいかにも虚しい思いがする!
松と槙が生えていた場所に建てられた祠
傍の丘に祀られている水天宮傍の丘に祀られているお月大師

土手には、昔は無かった“人柱 お糸の像”なるものが建てられ、毎年11月3日には
お糸を偲んで慰霊祭が開かれているらしい。
像には、手に千搗棒(石垣の間へ入れた小石を搗き固める棒)を持ったお糸、天空
霊界からやって来た天女と天童達、蛇円山八大龍王の使神(龍)などが彫られてい
て、いかにもこれから天界に迎えられると言う趣だ。

現代人でもそのように考えたい気持ちは分かるが、私などは、本当のところは病気
の母親を持った貧乏人の娘に因果を含めて人柱になる事を引き受けさせたのでない
かと考えてしまい、綺麗ごとに仕立てるのはあまり感心しない。


土手の下流は都市化が進み、今では田畑が少なくなってしまい灌漑用水の必要性は
余り無くなってしまった。
しかし、下流には細い水路しか無い為に、これから先も少なくとも治水ダムとして
の役目は大いに果たしてくれる事は間違いない。
お糸さんのお陰でこれからも安心して暮らせると考えたい!


服部大池
春日池、瀬戸池などと共に、江戸時代にかんがい用に造られ「備後三大池」と呼ば
れている。
服部大池は、福山初代藩主・水野勝成の命により、領内240ヶ所の農民を動員し
て2年の歳月をかけ、服部川を堰き止めて造られた周囲約4kmの灌漑用の貯水池
で、嘗ては20ヶ村の田畑を潤した。
堤高 15m、堤頂長 190m、堤体積17000㎥、総貯水容量 65万トン。

お糸伝説
貯め池の築造は大変な難工事で、当時の習しで水神様に「人柱」を捧げて末代まで
の土手の安全を祈願する事になった。
ところが、当然人選が非常に難しく、「着物に横継ぎが当たっていて、未婚の娘」
を人柱にする事に決まり、病気の母親に代わって夫役に出ていた16歳のお糸さん
がその条件に当てはまり、人柱にされる事が決まった。
やがて、お糸さんは土手の底深くに生き埋めにされ、これを嘆いたお糸さんの恋人
も後を追って池に身を投げて死んだと言う。

それを哀れんだ人々は、お糸さんと恋人の霊を慰める為に、池のほとりの丘の上に
弁財天を祀り、丘の下には松と槙を植えたところ、2本の木は根と根が絡み合い、
枝と枝がもつれ合って大きくなり、“比翼の松”或いは“お糸の松”と呼ばれ、
「人柱お糸」の話と共に語り伝えられている。


荒神社

2008年01月19日 | 神 仏
散歩していると、田畑の間や大きな木の根元などに荒神社と言う祠が目につく。
各集落毎にあり、小さなものは犬小屋程度で大きいものは辻堂くらいの大きさだ。

荒神を祀ってあるものだが、日本古来の荒神(かまどの神、個人や地域の守護神)
に、仏教の三寶荒神(仏、法、僧を守っている神)などが習合したものらしい。

岡山県から広島県にかけては、産土(うぶすな)荒神、へそのお荒神と呼ばれ、土
地の守り神、先祖神として信仰され、子供が産まれた時には氏神へお参りすると共
にへそのお荒神にもお参りする。  荒神は“あらぶる神”とされ、疫病や凶作、
災害などがあると、この神のたたりと信じられ、その怒りを鎮める為の神事が
“荒神神楽”の始まりと言う。

私の子供の頃は、この荒神社の前でよく神楽が舞われたものだが遥か昔の話で、今
や祠すらも痛みが酷い。
そのせいでも無いだろうが、昨今世界中で“あらぶる神”のたたりが激しい。
果たして“荒神神楽”を舞ったとしても鎮まるであろうか、気になって仕方が無い!


地神(じしん、じじん)

2008年01月18日 | 神 仏
どうも愛犬が亡くなって運動不足であったが、熱田・伊勢神宮を走破したTさんに
刺激されて近所を少し散歩した。

すると、人通りの少ない昔の道路の脇で“堅牢地神”や“五穀神”と彫った自然石
の大きな石塔が立っているのを見つけた。

良くは分からないが、いずれも地神塔と言い、農民が豊作を祈願するために地神
(畑の神、農業の神)を祀っているもので、元禄時代に始まり瀬戸内海沿岸に多く
分布している。 雨の少ない地方なるがゆえの凶作が多かった事も影響しているら
しい。

何でも昔は、社日(春秋の彼岸に最も近い戊の日)に鍬で土を掘ると地神さんを傷
つけるので、この日は鍬を使った仕事をしてはいけない事とされ、集落の人が集ま
り“地神講”とか“社日講”と呼ばれる地神の祭りを開きご馳走を食べたりしたそ
うだ。

そう言えば 「怠け者の節句働き」と言う言葉がある。
平素は怠けているのに、人々が休む節句にことさら忙しそうに働くと言う意味なの
だが、「社日に仕事をするな!」と言うタブーから来た言葉なのだろうか?
堅牢地神五穀神


もう一つ、神社の境内で5角柱の石塔を見つけた。
やはり、豊作を願って建てたもので、5神名が彫られている。
神様にしてみれば、「自分だけでも願いを叶えてやるのに…」といささかお冠かも知れない!


(神 名)
天照皇大神、大己貴命、少名彦命、稲倉魂命、埴山媛命