goo blog サービス終了のお知らせ 

里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

因島、白滝山の六地蔵と五百羅漢

2008年05月24日 | 神 仏


下界の瀬戸内海の景色を見ながらノンビリ登って行くと、いきなりこんな案内板に出くわした。

何でも、柏原伝六という人が山上の観音堂に籠り、儒教・仏教・神道の三大宗教に当時禁制のキリスト教を加えた新宗教“一観教”を開いたのだと言う。

伝六さんは、布教に努めると共にこの白滝山に、五百羅漢や三尊像など約700体の石像を造ったが、お役人に一揆の疑いをかけられ、挙句の果てに怪死したらしい。  多分お役人に殺されたのだろう?

こうなったのも元はと言えば母親の不用意な(?)発言だったのかもしれない!
良きにつけ悪しきにつけ、母親の影響力が極めて大きいと言う事だろう!

山門をくぐると、先ず六地蔵が立っており、次に五百羅漢、山頂には釈迦如来・文
殊菩薩・普賢菩薩の三尊像が立っていた。
この他にも伝六さんと奥さんの石像もあったらしいが、何しろ山登りが専門のグル
ープなので石像などに余り興味は無いらしく、置いて行かれそうになったので分か
らずじまいに終わった。
>
山 門六地蔵(→)
五百羅漢普賢菩薩、釈迦如来、文殊菩薩

白瀧山
白瀧山は重井町善興寺の奥の院で、古くは瀧山と称し古代から霊山として頂上の岩
場を“盤境”と伝えている。
盤境(いわさか)とは神を迎え祭儀を行う場所或いは神が天から降臨される場所の
事で、そこにある大きな岩や土地、ご神木を磐座(いわくら)と呼ぶ。

六地蔵
人は死後、生前の行いを閻魔大王を筆頭にした十王によって裁かれ、49日目にこ
の世の六つの世界の内のどの世界に生まれ変わるか判決を受けるとされている。
六つの世界とは、悪行の結果として行く三悪道(地獄、餓鬼、畜生)と、善行の結
果として行く三善道(阿修羅、人、天)を言う。

六地蔵とは、この六つの世界の夫々にあって衆生の苦悩を救済する地蔵菩薩の事で、
釈迦の死後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、六道を彷徨う人々を
救済する為に自身が仏になる事を延期したとされている。
“地蔵尊”とも呼ばれ、他の菩薩が天界で救済活動をするのに対して、六道で自ら
が救済に当たる事が庶民の共感を得、地蔵信仰として広く民間で広まり、子育て地
蔵や延命地蔵などの現世利益に結びついたものもつくられ、道端などにも石像がま
つられるようになった。
石像の形は、古くは菩薩の姿をしていたが、後に頭髪を剃って墨染めの法衣を着た
僧の形で表される事が多くなった。

五百羅漢
羅漢(阿羅漢=あらはんの略)は、“修行を完成して尊敬するに値する人”を指す。
釈迦の弟子で特に優れた16人を“十六羅漢”と呼び、釈迦の死後その教えを後世
に伝える為に、初めての経典編集に集まった弟子達を“五百羅漢”と呼んだ。

因みに、最近スーパーなどで売られている羅漢果は、中国の医師の名前“羅漢”か
ら名づけられたもので仏教とは無関係。
こちらは、中国の桂林周辺にしか生育しないウリ科のつる性植物の果実で、一見
キウィのような形をしている。
味は黒砂糖に似ていて、糖度は砂糖の300倍~400倍あるが腸から吸収されずに排泄
されてしまうので、糖尿病やダイエットに役立つとされている。
その上に、活性酸素を除去する成分やビタミンE、鉄、リン、マグネシウム、カル
シウムなども豊富に含んでいるそうだ。


仏の位

2008年05月03日 | 神 仏
一定の悟りを開いた人を“仏”と言い、その到達したレベルによって次のような
“位”があり、夫々に複数の仏様が居て色々な役目を負い人々を教え導いている
のだと言う。

仏像の種類(「仏像と仏師の世界」から引用)

・如来:「真実から来た者」という意味。最高の境地に達した存在で最高位。
・菩薩:「悟りを求める者」という意味。仏陀となることを目標に修行に励んでい
    る修行者。いわば如来の候補生。
・明王:如来の教えに従わない救いがたい人間や生き物を調伏、救済する為に如来
    の命を受けて怒りの形相(忿怒相)になって現れた仏。
・天部:仏教に帰依した神々で、仏教を信ずる心を妨げる外敵から人々を護る、い
    わば仏法のボディーガードなどの役割。

私などは、浅はかにも仏と言えばお釈迦様の事だと思っていて、まさか仏様にも位
があるとは思いもよらなかった。
今度お寺を訪ねた時には、山下清画伯の口癖「兵隊の位で言えば…?」を真似て、
「仏様の位でいえば…?」と尋ねてみる事にしよう!

ところで、世界の仏教徒は約3億7000万人だそうで、これを仏様たちが面倒を見る
わけで大変ご苦労な事だと思ったが、上には上があるもので、
キリスト教徒は約21億人、イスラム教徒は約12億8000万人、ヒンズー教徒は
約8億5000万人居るという。
世界中で悩み苦しんでいる人々が多いという事であろう。 世界の神仏も大変だ!


メーデー! メーデー!

2008年05月02日 | 神 仏
昨日(5/1)は、大腸内視鏡検査を受けに行った。

検査そのものは、麻酔をかけておくので何ら痛痒は感じないが、下剤のクエンサン
マグネシウムには毎度の事ながら閉口する。 僅かに嘔吐感を催すのを無理して呑
むと、やがて激しい腹痛と膨満感に襲われ、後はもう地獄だ!
しかし、幸いな事に検査結果には異常が無く、「メーデー! メーデー!」と発信
せずに済んだ。 「もう少し生きておけ」という事だろう?  

ところで話は変わるが、先日従兄が亡くなり葬儀に出席したが、
「浄土真宗では死ねば皆極楽浄土へ行けるので、本当は中陰の法要は必要が無い」
のだと言う。  私のような科学者の端くれで全く宗教心の無い者には、何の事か
サッパリ分からないので少し調べてみた。

すると、宗派により違いがあるが一般的には、
「仏教の世界観では、人は死んだのち生前の行いにより裁かれ、
 この世の六つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)の何処
 かへ生まれ変わっては生きて行く事になっている。
 釈迦は、こうした六道輪廻では永遠に苦しみから逃れる事が出来ないと考え、
 浄土(輪廻を超越した極楽世界)を考えた」
とされているそうだ。

つまり、
人が死に次の生を受けるまでの49日間(中陰と言う)、7日ごとに裁判が開かれ
て生前犯した罪の重さにより来世どの世界に生まれ変わるかが決められる。
その裁判の間、家族は罪を軽くして貰って死者が浄土へ行けるように追善供養
(中陰の法要)をする。 まあ要するに減刑嘆願をするわけだ。

すると、49日目(満中陰と言う)最後の審判が下るのだが、昨今どの死者も悪事
を重ねており、家族の法要も念仏もおざなりに行われがちだ。
いかなお釈迦様でも浄土真宗の阿弥陀如来でも、“浄土”というわけには行かず、
最終判決も厳しいものにならざるを得ないのではなかろうか?
ひょっとして、日本の若者の人口が減っているのは、先人達が自分の悪業で畜生に
でもさせられてしまったせいなのだろうか?

…と、つい考えてしまった。 どうも、私には宗教もよく分からない存在だ!

極楽浄土
仏が住む清浄な所を“浄土”と言い、仏の数だけたくさんあるが、有名なのは
阿弥陀如来の極楽浄土。 場所は、西の十万億の仏国土を過ぎた所にあり、
「池には色々な色の蓮の花が咲いて良い香を放ち、池の底は黄金の砂で覆われ、
 自然や建物は黄金や七宝で出来ていて、妙なる音楽が流れ、色々な鳥が美しい
 声で鳴いている。 鳥のさえずりや、水や風の音はそのまま説法となり、極楽の
人々はそれを聞いて仏を念じる」
と言う。


インドのサンスクリット語のブッダが、中国で仏陀と音写され、それが略されて仏
になった。 「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」等を意味し、悟りの最高の
位である「仏の悟り」を開いた人の事を言う。

阿弥陀如来
元は釈迦と同様インドの王子で、48の大願を立てて修業した後に如来(※)にな
ったと言われ、西方にある極楽浄土という仏国土を持ち、現世と来世をよりよいも
のとするように導いてくれる仏。
48の大願の中に、「念仏を行う者は必ず極楽浄土へ行ける」と説いて、これが支
持され阿弥陀信仰が盛んになった。
 ※如来は、サンスクリット語で「真実から来た者」と言う意味の言葉の和訳。
  仏教界で「修行完成者」「完全な人格者」を意味し、最高の境地に達した存在
  で最高の位。 釈迦の異名は「如来」なので単に「如来」と言えば釈迦を表す。

輪廻転生と裁判、法要
仏教では、人は死んだのち生前の行いにより、次の6種類の内のどれか一つの生き
物として、この世に生まれ変わって来るとされ、この事を“六道輪廻”と呼ぶ。

・地獄:非道が多く、怒ってばかりいる者が生まれ変わる場所で、数々の恐ろしい
    責め苦を味わう世界。
・餓鬼:非常に醜い姿で、何か食物を得ても決して満足を得られない生存状態。
・畜生:鳥獣虫魚などの動物。
・修羅:持てる力は「天」に近いのに、常に「天」と争う好戦的な存在。
・人 :言うまでも無く人間の事。
・天 :人より格段に優れた力があり安楽も多い存在。

死者の生前の行いは、7日ごとに閻魔大王を筆頭にした十王によって裁かれるが、
遺族が供養する事によって善行を積み重ねるとその善行が故人にも及ぶと言う考え
から、極楽浄土に行けるようにという願いを込めて七日ごとに法要が行われる。
 
(裁判官によって裁かれる罪)   
初七日 秦広王(不動明王の化身)により生前の行状が裁かれる書類審査  
二七日 初江王(釈迦如来の化身)により三途の川を渡るところで裁かれる
三七日 宋帝王(文殊菩薩の化身)により生前の邪淫の罪が裁かれる
四七日 五官王(普賢菩薩の化身)により秤を持って生前の罪の重さが決められる
五七日 閻魔王(地蔵菩薩の化身)により水晶の鎧に生前の行状が映し出される
六七日 変成王(弥勒菩薩の化身)により五官王の秤と閻魔王の鑑で再吟味する
七七日 太山王(薬師如来の化身)により最後の審判が下され、行き先が決まる


稲生神社の裸祭り

2008年05月01日 | 神 仏

その昔、
杭木を持ち寄って神殿(稲生神社)を造ったという古事より“杭の庄”の名が生ま
れ、これが現在の“久井”の地名になったそうだが、田舎の神社には珍しく社務所
には2~3人の人影も見える。 造りも、杭など以ての外のなかなかどうして立派
なものだ。
鳥居(右後方は神楽殿)拝 殿
社務所神楽殿

ところで、この神社では毎年寒中に裸祭りが行われる事で有名だ。

褌一丁になった男達は、先ずお酒を飲んで勢いをつけ、御調川へ飛び込んで身を
清めた後、 「ワッショイ」「ワッショイ」とかけ声をかけながら神社に向かって駆け上
がり、境内に丸太を4本立てシメナワを張った中で揉みあって身を清める。

次に、陰陽二本の御福木が順次投下され男達がそれを奪い合うのだが、参加するだ
けでも無病息災が叶えられると言われている上に、御福木を獲得した者はその年に
幸運がもたらされ、しかも、賞金と玄米1俵を貰えるとあって奪い合いは激しく、
バケツで水をかけられながら1時間以上かかる事もある勇ましい祭りだ。

もう一つ、“御当、おとう”という国の無形民俗文化財に選ばれた、毎年10月に
行われる珍しい行事もある。
境内のむしろの上で、まな板に乗った鯛に手を触れる事なく、金はしと包丁だけで
捌いて調理し、会食するという極めて珍しい祭事だ。

久井稲生神社(くい いなり神社)の由緒
この地に伏見稲荷本社の神田があった事から、
585年に伏見稲荷本社から勧請し、下津三橋の上原田谷に社殿を造営して
「伊奈利大明神」として祀られ、938年に亀甲山に遷座し現在に至る。

歴代の領主や藩主の崇敬が篤く、
 ・弘治3年(1557年)、毛利元就が本殿を造営。
 ・永禄3年(1560年)、小早川隆景が社殿を造営し、社領田12町2反、神子田
              5町3反及び大般若経六百巻を寄進。
 ・元禄14年(1700年)、藩主浅野忠義が社殿を再建。 これが現在の社殿として
              残っている。

明治の初期までは「稲荷」の字を用いたが、その後「稲生」に変更した。
主祭神は、宇迦之御魂大神(伊勢の外宮豊受姫神と同神)で、五穀を始め衣食住、
商売繁昌、交通安全、縁結び安産等の守護神として 霊験あらたかとされている。


幸福の科学

2008年04月20日 | 神 仏

王子が岳を下りた所に、思いがけないものがあった。 “幸福の科学”という名の
宗教団体の建屋だ。 
直ぐ東側には渋川海水浴場があり、南の沖合いには瀬戸大橋が見える。
立地と言い外観と言い、知らない人が見るとまるでホテルのように見える。

“幸福の科学”と言えば、嘗て週刊誌を相手に、景山民夫さんや小川知子さんが激
しく言い争っていた事を思い出したが、建屋の外観からはそんな事は何も窺う事が
出来ない! 我々俗人から見ると、どうも宗教というのは分かり難い存在だ!

(王子が岳東山麓の“幸福の科学中国正心館”→拡大)
>

幸福の科学
大川隆法氏が東大法学部を卒業し、トーメンを退社後設立した宗教法人。
本尊はエル・カンターレ(地上界に人類として生まれうる最高霊)で、その意識の
分身が釈迦などとして生まれ、日本には彼が生まれたされる。
従って、幸福の科学の本尊は、エル・カンターレ=大川隆法氏とされる。

歴史上の偉人(キリスト、孔子、日蓮、天照大神)などが彼の口を通じて語ったと
される霊言集を数々出版したり、著名人の前世認定などをする事でも知られている。




墓の墓場?

2008年04月15日 | 神 仏
“七曲り”から帰る途中で、異なものを見つけた。 
宅地造成等に伴う墓地の整理で、管理する人が居なくなった墓を捨てて(?)いる
らしい!
物が物だけにむげに扱うわけにもいかず、業者がこうして置いているのだろうが、
一角に仏像を建ててあるのがせめてもの気遣いだ!
仏 像捨てられた墓

私の地方では、こういった産廃(?)は殆ど吉備高原の南縁に廃棄している。
本来は、
標高が数百mあり、眼下には福山の町が見え、遠くには瀬戸内海や四国まで見える
という絶好のロケーションで、しかも一帯は緑に覆われた自然があるというのに、
現実は、ゴミの焼却場、不燃ごみの捨て場、牛の牧場、養鶏場などが沢山あり、
カラスの大群が集まってくるやら臭気がするやらで折角の自然が台無しになっている!

(神辺平野から北に見える吉備高原の山並み、蔵王山から撮影)



時安の“山の神”と“火の神”

2008年04月10日 | 神 仏
昨日は、(旧)三和町時安にある広島県指定天然記念物の“ヤブツバキ”を見に出
かけた。

先ず、県道21号線を北上し、次いで県道418号線に入り細い山道を登って行く
と、この場所からは落葉樹が芽吹く前のこの時期だけ“竜頭の滝”が見える。 

滝の上流の下原川を遡り、時安の久留美方面へ右折して暫く進むと、右手の岩の上
に小さな祠があった。
傍で山仕事をしている人達が居たので尋ねて見ると、“山の神”なのだそうだ。

その人達の話では、今もって“山の神”だけでなく、直ぐ北に見える丸子山の頂上
には“火の神”も祀られて居るという。

早速そこへ向かうと、麓には“吉岡家”という旧家があった。
何でも楠家の末裔で、江戸時代には福山藩主水野勝成が度々訪れたほどで、時安村
・矢川村の庄屋を務めたのだそうだ
丸子山(画像左端の中央が吉岡家)吉岡家

なだらかな頂上には、愛宕神社(主祭神:火神の迦倶槌命)から分祠したという小
さな祠があった。 
火伏せ・防火に霊験のある神なのだそうだが、単に火事が起きないように願って祀
ってあるだけではなく、或いはこの山も大昔は火山活動があり、その畏れが伝わっ
ていて“火の神”信仰につながったのかも知れない?



四国霊場巡り

2008年03月30日 | 神 仏
何を血迷ったか家内が急に四国霊場巡りをすると言う。
近所の熱心な人の誘いで、お調子者の家内がスッカリその気にさせられたらしい。
早速装備を整えてヤル気満々だ!

「弘法大師とは何者?」、「お遍路の意味は?」と尋ねても何も知らない!
「それでよく行くね?」と問いかけたがどこ吹く風で、総勢20名の団体に加わり、
「お陰を貰って来まーす!」の声を残し能天気に出発した!

「行ってらっしゃーい!」 (「ずーっと回っていても良いよ!」)
とまあ、私も3日間は心おきなく命の洗濯が出来るので気持ちよく送り出した。

とは言うものの、かく言う私も全く知識が無いので調べてみた。
すると、
「弘法大師が若い時に修行した四国八十八箇所の霊場には、今でも弘法大師が巡っ
 ているとされており、お遍路が祈願の為にこの霊場を巡り歩く事で弘法大師の功
 徳が得られる」
「首に掛けた巡拝袋に書かれた“同行二人”の文字の意味は、お遍路が一人で歩い
 ていても常に弘法大師が連れになって守ってくれているという意味で、
 持っている杖にも弘法大師が宿ると言われている」
という事らしい。

お遍路の心や服装も特に決まりが無いとも言うが、祈願といってもどうせ
「3億円当たりますように!」といった不純なもので叶う筈も無いだろう。
ゴクロウサン!

弘法大師(空海の死後、生前の徳を称えて贈られた号)の略歴
 ・774年、讃岐(善通寺市)の豪族の子として生まれる。 幼名は佐伯真魚。 
 ・788年、15歳で都に出、叔父の阿刀大足に学ぶ。
 ・791年、18才で大学に入る。
 ・792年、大学での儒教中心の勉学に飽き足らず次第に仏教に興味を持つように
       なり、19歳を過ぎた頃から大学を去り奈良や四国の各地で修行をする。
 ・793年、20才の時に周囲の反対を押し切って得度。
 ・795年、22才の時に名を空海と改め、名僧達に仏の教えを乞うが、それに満足
        出来ず唐へ渡る決心をする。    
 ・804年、最澄らと留学僧として唐に渡り、真言密教第七祖の恵果和尚に学ぶ。
 ・805年、遍照金剛の法号を授けられ、真言密教の第八祖となる。
 ・806年、無事に九州へ帰国。
 ・809年、都に上り、
 ・810年、嵯峨天皇より真言宗を開く許しを得、庶民の救済と社会の浄化に着手。
 ・815年、42才の時に、若い時に修行した四国各地を遍歴し、お寺やお堂を建立。
 ・816年、嵯峨天皇から許可を得、高野山に金剛峰寺という根本道場を建て、約
       20年間高野山を中心にして全国への真言密教の布教に努める。
 ・823年、嵯峨天皇より東寺を賜り、教王護国寺と称し真言密教の布教に努める。
 ・828年、誰でも勉強できるように、京都に綜芸種智院という学校を創る。
 ・835年、没。
 ・921年、醍醐天皇から、“弘法大師”という諡号(おくりな)を賜る。
 

茅葺き辻堂と牛地蔵(?)

2008年03月29日 | 神 仏

荒戸山の少し南で珍しいものを見つけた。 茅葺きの辻堂と色々な石塔や石像だ。
この一角だけ長閑な風景で、まるで江戸時代にタイムスリップしたような感じがする。


石塔をよく見ると、
白い背高のっぽは観世音菩薩像で最近建てたものらしい。
その次にでかいのは地神で珍しくはなかったが、左右両側にあるものは文政9年
(1826年)から明治4年(1871年)に建てられた比較的新しいものだが、始めて見
ただけに珍しく感じた。

先ず、左側の二つだが
左端のは?。 その右は“牛塚”。


右側の四つについては、
左端は“金”と彫ってあるが?。 その右の3つは、牛馬の安全を願って建てたり、
死んだ牛馬の供養の為に建てたものらしい。


気をつけて見ると、荒戸山一帯にはこの手の牛馬に関係する石塔がたくさん建って
いた。 これを見ると、当時のお百姓さんが牛馬を大切にし、牛馬の安全や供養に
まで気を配っていた事がよく分かる。 

翻って現代を見ると、果たしてどうなのだろう? 
今一番子供の教育費のかかる50才前後の人、これから未来を担う20~30才の
人、働き手として大事にされているのだろうか?
よもや、餌も与えず仕事をさせ、死んだらほったらかしという事になってしまった
のでは無いでしょうね?


荒戸神社の“柱状節理”

2008年03月28日 | 神 仏

荒戸神社には、玄武岩があちこちに使われている。

先ず、2番目の鳥居の前に立ててある石柱。
これは、柱状節理(熔岩が冷えて固まる時に収縮して出来た柱状の割れ目の事)に
沿って崩れた石柱を立てたものだ。 何の為に立ててあるのかは?
最初の鳥居2番目の鳥居(画像左端は玄武岩の石柱)

参道の石段や本殿土台の石垣なども全部玄武岩だ。
土台の石垣は、まるで荒戸山の中腹で見た“柱状節理”そのものに見える。

この他にも、神社周辺や荒戸山中腹には、熔岩が冷えて出来た玄武岩が至る所へ転
がっていて、 大昔、よほど大きな噴火があった事が窺える。
山 門本 殿
荒戸山の柱状節理(上から見た)荒戸神社本殿土台の石垣

荒戸神社は、由緒を読むと、
祭神は、大錦積命、天照大神、他に16神。
当初、正中元年(1324年)、山頂に創建されたが、
   嘉吉2年(1442年)、火災により消失。
   文安元年(1444年)、現在地に再建された。
本殿は、室町時代の建築様式を伝える建造物として、岡山県の重要文化財に指定さ
れている。
特徴は、入母屋造桧皮葺で、向拝(社殿や仏堂の正面に本屋から張り出して庇を設
けた部分)を持たない屋根は全国的にも少ない形態で、基壇を作らず石敷とした床
下の工法は古式のものである。

と書かれていた。 今から564年前に造られた貴重な財産だ!