一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
死は100パーセント
最近は仕事に余裕がないのか心に余裕がないのかなかなか納得したかたちでブログもかけません。ネタも尽きかけているのもあるのですが修行だと思っているので続けます。
人の人生とははかないものです。私が住む地域では誰かがなくなることを「おっちんじまった」と言います。
それは決して死を軽視した言葉ではありません。かと言って重く受けとめたかたちでもない。どちらかというと
皆いつかは死ぬ。自分もいつ死ぬかわからない。死とは自然なこと。
そんな意味がこめられているようにも思えるのです。
またこの前、何人かで会話していた時に
あれだろ。脳梗塞、ほら呂律がまわらなくなって即入院したのさ。そしたら血液サラサラの二週間コースだって。だいたいこれが一番最初。
悪くなるとまた入院。無理するとダメさ。三回目にはコロっとあの世行きさ。
そうサラリという方がいて私達のその口調に思わずなんだかおかしくなってしまいました。
でもそれが明日は我が身かもしれないのに、病気する人は可哀想だし、不幸なはずなのになんだかあっけらかんと言ってのけると
ん~。それもまたありかなと思えてしまいます。
やはり死について感じることはドラマチッもなく、かといって劇的でもなく悲劇でもない。私達の死ぬ確率は100パーセント。だからこそ当たり前のごとくやってくるように思えます。
ただその上で言えることは別れ、悲しみは旅立った人への思いを数倍強くするということです。
会えなくなってからその存在の大切さに気づく。
自然であるけれどそれに収まらない。生と同じだけ大切。それが死です。
人の人生とははかないものです。私が住む地域では誰かがなくなることを「おっちんじまった」と言います。
それは決して死を軽視した言葉ではありません。かと言って重く受けとめたかたちでもない。どちらかというと
皆いつかは死ぬ。自分もいつ死ぬかわからない。死とは自然なこと。
そんな意味がこめられているようにも思えるのです。
またこの前、何人かで会話していた時に
あれだろ。脳梗塞、ほら呂律がまわらなくなって即入院したのさ。そしたら血液サラサラの二週間コースだって。だいたいこれが一番最初。
悪くなるとまた入院。無理するとダメさ。三回目にはコロっとあの世行きさ。
そうサラリという方がいて私達のその口調に思わずなんだかおかしくなってしまいました。
でもそれが明日は我が身かもしれないのに、病気する人は可哀想だし、不幸なはずなのになんだかあっけらかんと言ってのけると
ん~。それもまたありかなと思えてしまいます。
やはり死について感じることはドラマチッもなく、かといって劇的でもなく悲劇でもない。私達の死ぬ確率は100パーセント。だからこそ当たり前のごとくやってくるように思えます。
ただその上で言えることは別れ、悲しみは旅立った人への思いを数倍強くするということです。
会えなくなってからその存在の大切さに気づく。
自然であるけれどそれに収まらない。生と同じだけ大切。それが死です。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )