徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

父のことーレビー小体型認知症92歳、お正月を迎えるー

2016-01-09 20:28:23 | 父とのこと
父は胃瘻を装着し、
今の病院に転院して37日が経った。
その日は元旦。
ほとんど毎日届く妹からのこの日の父親通信には
こんなことが書かれていた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2016年1月1日(金) 転院後37日目 -普通の日でした-

病院の廊下を歩いて、
看護師さんらとすれ違っても、
いつものように「こんにちは!」
明けましておめでとう!と声掛けする人はいません。

父も、「おっ。。」 と言う感じで、
私が「おめでとう!」なんて挨拶したら、
また説明がややこしくなるので、
いつものように「どう?」と声をかけました。

とても落ち着いていて、淡々と話す感じでした。 
「俺はこんなだから、どこにも行かれないから、
よろしく言っといてくれ。 
また行かれるようになったら行くから。」
という具合で、今日は結構正気でした。

正気の時は短時間の訪問が良い、と思うので、
早々に「じゃあまた来るね。」と言って、引き揚げました。

こんなだけれど、年を越せるまで頑張れたので、良かったです。
 
11月にこちらに連れてくるとなった時は、
2時間半の移動に耐えられるか、
運よく耐えても、環境が変わるので、
数日で死んじゃうのではないかと
ハラハラしていました。
それほど弱っていました。 
それが、ここまで元気になって、ホッとしました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

胃瘻の装着については、以前にも書いたが、
本当に迷い、妹と何度も何度も相談した。

食べる気持ちが無くなったら、
あとは自然にと考えていた私たち。
でも萎んでしまった父の顔を見た時、胃瘻を決断した。

胃瘻装着が落ち着いて、転院が決まった。
その時は、妹も言っているように、
果たして転院先の長旅が耐えられるのか本当に心配だった。

しかし、それは杞憂に終わった。
それからは日に日に元気になっていった。

そして迎えた元旦。
妹も書いているように、ここには正月元旦はないのだ。
もう、理解力が極端に落ちている父には「いつもと同じ」が
今までに増して精神安定の源になる。

正気のときは短い時間の訪問がいいと言うのは、
それ以上いると、父は今近くにいる人を
結果的に罵倒するようになってしまうからだ。
正気のときは、話しているうちに
時々父の我儘が以前のように剥き出しになる。

その剥き出しの我儘が出るとき、
私たち姉妹、そして亡くなった母もずっと我慢していた。

我慢は、父を増長させるだけだった。
その結果、傷つくのはこちらということになる。
それが分かっているので、妹は早々と引き上げたのだ。

本当に難しいものだ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

1月4日(月) 転院40日目 -体はとても元気そう-

4時半頃行きました。
父はミトンをされて、蒲団とタオルケットは足元まではがれていました。
「寒くないのー?」 と聞くと、
ちょうど他の用事で居た看護師さんが、
「何度蒲団をかけても自分で剥いでしまうのですよ。」と教えてくれました。

確かに、動きが活発で、
大きなミトンの中で手が盛んに動いています。
 
私に、ミトンを外してくれと身振りで言うので、
両手外しました。
するとベッドの柵をつかみ、
体を持ち上げようとし、
足も徐々に端に移動して、
「蒲団を どかして。」 と身振りで言います。

まあ動くことは良い事なので、
手をひっぱたり、足をひっぱたり、
体の位置を直したり、 父が危険の無いよう、
動きたいよう動けるようにサポートしました。

しばらく動くと、全体に動きは止まり、
今度はしゃべり始めました。 

ベッドの向こう側の壁に棚があり、
右から1番目2番目の箱を持ってきてといいます。

向こう側のベッドにお見舞いに来ていた奥さんは 
「何か あるんですか??」と聞いてきました。 
私「いいえ、幻覚なんです。」 
奥さん「へーっ??」

父「その箱から(何やらを)出して、
それで、(何々を)作るんだ、作るんだよ。」  
私「えっ? 私が作るの?」
父「面倒くさいか、面倒くさい? そんなら作らなくてもいい。どうする?」   
私「どうするって、箱の中に何が入っているの?」
父「ほら、持って来れるか、2番目だよ。」 
と棚を指さします。
 
向かいの奥さんが「何かあるんですかあ?」と私に聞きました。
笑っちゃうでしょ、

父「その箱の中にあるもので、未来が明るくなる、美しいものが出来るんだ。」 
私「それはすごいねえ。」
父は演説している人のように、
話しながらの手の動きが素晴らしかったです。

その妄想の話も止まりません。
向かいの奥さん「何かあるんだって。」と
ちょうど入ってきた看護師さんに告げました。
「そうですよ、ご本人には本当に見えているのですよ、
子どもなんかもよく見えることがありますよ。」
と、看護師さんは奥さんに言いました。  

それから、胃ろうで注射器から薬を入れることになりました。 
私は看護師さんは大丈夫と言ったのですが、ミトンをしてもらいました。 
結果は正解でした。

最初注入すると 父は 「おっー、つめてっ!」 
胃がヒヤッとしたのでしょう、とても正常な反応でした。

看護師「Sさんは体を触られるのが嫌いなようです。 
おしめを替える時怒り出すことがあります。」との事でした。

向かいの人はテレビを枕元に置いています。 
父はそのテレビをとても気にする事があるそうです。 

それで、もしかしたらテレビを見るかも知れないという話になったので、
テレビのレンタルを申し込んできました。

きょうは看護師さんが適当に
スイッチを入れたり消したりしてくれて、
様子を見てくれます。

そんな感じで、父は最初から最後まで妄想の世界の中。
胃が冷やっとした時の反応が正常だっただけでした。

私「じゃあ帰るね。」  
父「ああ、そちらの方、お名前は。」(目線は私の隣へ) 
私「誰もいないよ。」  
父「お名前は? ああ、オオスギさん? えっ?」
私「ほんとに帰るから。」  
父「そちらの方・・・」  てな感じで、帰ってきました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

身体が元気になると、
幻視や幻覚も活発になってくる。
身体も活動的になる。

手にミトンをしないと、胃瘻の管を引っこ抜いてしまう。
転院直後はまだそこまで体力的に回復していなかったので、
ミトンをせずに様子を見ていたようだ。

しかし、幸か不幸か、元気になり、
手も活発に動くようになった。
そしてある日、胃瘻の管を引っこ抜き、
あたりがべちょべちょになってしまったのだ。
その結果、特に胃瘻をしているときはミトン装着が決まったというわけだ。

父の様子は本当に日によって毎回違う。
この日は、妄想国の日。
唯一の正常反応は、胃瘻から食物を注入した時の
「おーっ、つめてっ!」の一言。

たとえ妄想国であっても、その世界で生きているのなら、
それはそれでいい。
通じないのはちょっと残念だけれど、
妄想国にいても元気でいてくれるのならね、
と思う私たち。

レビー小体型認知症の最晩年を生きる父。
私たちには未知の世界。
妹の父の訪問記を頼りに、
そして、私も時々顔を見せながら、
客観的に言えば、脳が壊れ始めているこの時期を
どう一緒に生きて行ったらいいのか、
これまたぼちぼち考えていくしかないなって思ったのではありました。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。