徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

ゆかいな若冲・めでたい大観@山種美術館で口直し?

2016-02-28 22:01:17 | 美術展から
熱海に行った。
久し振りの一泊旅行。

美味しい海鮮料理と温泉を満喫する以外に、
もう一つ目的があった。

それはA美術館に行くこと。
お目当ては岩佐又兵衛作と伝えられる「山中常盤物語絵巻」。
12巻で、全長150メートルと聞いていた。

昨年5月から6月にかけてその全展示があった。
行きたい、行きたいと思っていたが、
チャンスは遂に訪れなかった。

ここ1,2年、辻惟雄のいうところの
「奇想の系譜」にハマった私。
その祖といわれる岩佐又兵衛のこの絵巻は
是非この目で見たかった。

最大のチャンスは失したが、
今回は改装前の「大名品展」を開催中と聞いた。
目玉は尾形光琳の「紅白梅図屏風」と
野々村仁斎の「色絵藤花文茶壺」。

「山中常盤物語絵巻」は目玉ではなかった。
だから展示はないのかも・・・、と思いつつ、
一抹の期待を抱いていた。

熱海の急坂を登ると、
その美術館の入り口があった。

山の中腹の入り口から山の上にある展示室まで
大トンネルエスカレーターが延々と続く。
200メートル上るということだったが・・・。
それがなんというか、かんというか・・・。
この美術館の母体が宗教団体ということもあるのか・・、
エスカレーターはレインボーカラーの
間接照明で照らされているのだ。

私は綺麗な色に包まれているにもかかわらず
不気味な天国への階段を上っているような錯覚に陥った。

なんだか、目当てのものを目指す途中で、
気を散らされてしまったような感じがした。

やっと着いた展示室入り口。
入るとすぐに目に入ったのは、金ぴかの茶室。
豊臣秀吉が作らせた「黄金の茶室」を復元したものだという。

うーん、もう、何が何だか分からなくなった。
一体、私はここに何をしに来たのだろう??
そんな気持ちになってしまったので、
慌ててその場を退散。

そして、展示室を一室ずつ回っていくことに。
ところが、ところが・・・、
ここでも、目が回る、というか、
一体どういうコンセプトで展示してあるのかさっぱりわからない。

この展示で何が言いたいのかが伝わってこない。
すべてが細切れだ。
頭の中が支離滅裂になった、というのは少しオーバーだけれど、
なんか、こんなものも持ってます、
あんなものも持ってますといいたいだけなのかしら?

一つ一つは価値があるのに、なんだかもったいない。

そんな気持ちのままに出会った尾形光琳の「紅白梅図屏風」。
既に頭がごちゃごちゃになっている私には
ゆっくりと堪能する余裕が残っていない。

野々村仁斎の「色絵藤花文茶壺」に至っては、
これが海外に流出する直前に、この美術館の創始者が
世田谷の土地3000坪を売り払って手に入れたということしか
頭に残らない始末。

楽しみにしていた伝岩佐又兵衛「山中常盤絵巻」は、
「常磐殺し」の場面のみの展示となっていた。
これもチラ見せ程度の展示だ。

ということで、今回だけのことだろうとは思うけれど、
やはりストーリーのない美術展を楽しむのは本当に難しいと実感した。

閑話休題。

と、そんなことがあって2日後、
今度は山種美術館の「ゆかいな若冲・めでたい大観」展へ。

山種美術館は今の私のお気に入りの美術館。
竹内栖鳳の「猫」や速水御舟の「炎舞」を所有している。
ある意味、明治以降の日本画を主に収集している。

今回は若冲の展示も多いと聞いていたので、
前々から楽しみにしていた。
年明けから3月6日までの展示。
滑り込みセーフという感じだ。

「ゆかいな」「めでたい」というコンセプト。
山種所蔵作品が多い中、もともと山種所蔵ではない
河鍋暁斎、伊藤若冲、歌川国芳も展示されている。
いずれも、このコンセプトに合わせて展示しているもの。

だから、展示にストーリーと流れがある。
A美術館で経験した頭がバラバラになる感じは抱かずに済んだ。

今回、息をのんだのは若冲の「軍鶏」。
水墨画ながら、その、特に「尾」の勢いが凄い!
さすが、庭に鶏を何羽も飼って暮らしていただけのことはある、
なんて思いながら観た。

それから横山大観の象形文字の書「寿」。
これも何とも言えない愉快さが潜んでいるなって思った。

ある流れの中での鑑賞。
流れを楽しんだり、時に流れに逆らうものを楽しんだり。
いずれにせよ、少なくともバラバラ感はない。

この二つの美術展に日をあけずに行ったことで分かったこと、
それは学芸員の方々の何を見せたいのかということにかけた、
素養と知恵と努力。

自分のところの所蔵品だけで勝負しようとすると、
やはりそこにはおのずと限界がある。
「お宝展示」ということでは一定の意味のあった
A美術館の「大名品展」。

でもそれだけでは、やっぱり物足りない。
自分はつくづくストーリーを求めているのだなと思った
二つの美術館巡りなのでした。





番犬メロと私-メロの53回忌に寄せてー

2016-02-21 22:41:49 | フラッシュバック
「クゥーン、クゥーン」
メロの鳴き声がする。
私は廊下に走った。
廊下の下の縁の下がメロの寝床。
廊下の隙間からメロの様子を伺った。

よく見えない。
でもまたクゥーン、クゥーンと鳴く。
「メロ・・・」ってそっと呼んだ。

メロは13歳。もう老犬だ。
足腰も弱くなっていた。
ここ2,3日、こうしてクゥーン、クゥーンと鳴く。
13歳の私は、胃が痛くなりそうだった。
何にもできない・・・。

次の日の朝。
いつもはメロのいるところを回って中学校に行く。
けれど父が言った。
「今日はこっちから行け!」
有無を言わさぬ調子で、
メロの前を通らない方の道から行けと言うのだ。
私は胸騒ぎがした。
メロの声は朝は聞こえなかったから。
でも父に「どうして?」と聞く勇気はなかった。

夕方下校した。
縁の下にメロはいなかった・・・。

母が言った。
「メロは死んだのよ。
お父さんが毛布にくるんでお庭の隅に埋めたの」

私はすぐに飛んで行った。
「メローッ!!」
涙が出た。

メロはこんもりした土の下に埋まっていた・・。


祖父が亡くなったのは小学校3年生の時。
お葬式の時は泣かなくてはいけないと思っていた私。
ところが、いくら泣こうとしても涙が出なかった。
でも、メロの時は違った。
あとからあとから涙が溢れた。

メロは私が0歳のとき、
父が会社の帰りに拾ってきた。
子犬の野良犬だった。
何でも、父についてきたという。
犬好きの父は迷わず拾ったのだろう。

子犬ということもあって、
初めは家の中で飼っていたらしい。

あるとき、メロはまだ寝ているだけだった私の
布団の上に乗ってしまったという。

母はメロを飼い続けることに反対した。
父は仕方なく、かなり遠くにメロを捨てに行った。

ところが・・・、
一週間後にメロが家に現れたという。

そして再び飼い犬となったが、
以来、メロを家のなかには入れなかった。
彼の縁の下生活が始まったのである。

私が生後半年を過ぎた頃、
私たち家族は祖父母の家に同居することになった。
メロも一緒に引っ越した。

「メロ」、ちょっと変わった名前だ。
これには訳がある。
父は、10代の後半にインドネシアのスマトラ島で、
ゴムのプランテーションの仕事をしていた。
もともとインドネシアはオランダ領。
そのオランダを追い払って、日本が植民地にした。
だから、父の住んでいた家は、
直近までオランダ人の家族が住んでいた。

彼らは犬を飼っていた。
けれどオランダに引き上げるとき、
その犬は家に残された。
その犬を父はそのまま飼い始めた。
父が、現地で軍隊に召集されるまで、
その犬と共に生活していた。
その犬の名は「メロ」。
多分オランダ語なのだろう。
意味は分からない。
このメロはまたしても主人に
置き去りにされる運命となった。

一方、父は捕虜生活を経て復員した。
そして結婚して、私が生まれた。
その時に拾った子犬にも、父はメロと名付けた。
「スマトラのメロは利口だったからなあ。
黒い犬だったんだ」と父。

このメロも含めて、父は合計4匹の犬を飼った。
いずれの犬も名前はメロ。
拾ってきた犬も黒い柴犬の雑種だった。

私と同い年のメロ。
犬は人間よりずっと早くに大人になる。
一方私はまだ幼かった。
だからメロが怖かった。

メロは強者で、発情期になると鎖を引きちぎって、
彼女を求めて放浪することもあった。
挙句に「犬殺し」(野良犬を捕獲する保健所の職員)に
捕獲されてしまったこともある。
父が引き取りに行って一命をとりとめたことも
一度や二度ではなかった。
でも、メロは番犬の役目も忠実に果たした。
ペットではない。番犬だったのだ。

私がメロの散歩を一人でできるようになったのは5年生の時。
父が行かれない平日に散歩に連れていくことも多くなった。

そしてそのあたりから、メロは私の話の聞き手となった。
学校から帰ってくると、よくメロのところに行った。
そしていろんなことを話した。
そんな時、メロはきちんとお座りをしてじっと聞いてくれた。

母にも言わないことをメロに言うこともあった。
それは黙って聞いてくれるから。

こうして6年生、中一の頃の私は、
メロにずいぶん助けられた。
私は中一、13歳。メロは老年期の13歳。
思春期に足を突っ込んだ私には
メロはなくてはならない存在だった。

13歳になる頃から、少しずつ足腰が弱くなってきた。
でそれも「メローッ」て呼ぶと、必ず縁の下から出てきた。
そして話を聞いてくれた。

そんなメロが天国に旅立ったのは、
2月17日。曇り空の寒い日だった。

メロはペットではなかった。
私の話の聞き役も務めてくれた。
だから、ペットだなんてとても言えない。

多感な時期の子どもたちには
家で一緒に暮らす動物は格別の意味をもつのだと思う。

メロが亡くなった日が来るたびに、
今でも悲しくなる私がいる。
もう、大概のことでは涙が出ない私だというのに。

映画「ブリッジ・オブ・スパイ」@St.Valentine's Day

2016-02-17 13:41:44 | 映画鑑賞
2月14日。
バレンタインデー=結婚記念日。
なんと40回目。
いやー、よくも40年間続いたものだと思いつつ(お互いに(*_*;)。

その先は・・・、
映画「ブリッジ・オブ・スパイ」を観に行くことに。
私がいつも楽しんで読ませていただいている
ブログ「徒然草」のJulianさんの四つ星映画。

ブログで紹介された時からずーっと観たいと思っていた。


私はこの映画の主演のトム・ハンクスのファン。

一番感銘を受けたのは「フォレスト・ガンプ/一期一会」


もう20年以上前の作品だ。
それでも「I'm Forrest, Forrest Gump!」という
トム・ハンクスの声が今でも頭の中をこだまする。

そんなトム・ハンクスは数えきれない映画に出演しているけれど、
この20年間、そう沢山を観ることはかなわなかった。

観たのは
「アポロ13」
「ユー・ガット・メール」
「プライベートライアン」
「グリーンマイル」
「ダ・ヴィンチ・コード」くらいだ。
でも、そのいずれもが、心に残る。

そして、今回の「ブリッジ・オブ・スパイ」となった。

東西冷戦下のスパイ交換劇。
それを成し遂げた民間の弁護士ドノバンが主人公。
その事実に触発されてこの映画ができた。

冷戦下の合衆国で、
ソビエトのスパイを弁護するということがどういうことか。
誰もが彼を日本式に言えば非国民扱いにする。
それでも主人公がこのスパイの弁護を受けたのは、
合衆国憲法のその理念にあった。
たとえスパイでも、正当に裁判を受ける権利がある。
その筋を通したことと、
スパイを死刑にせずに、生かしておくことで、
いずれ人質の交換に使えるという願いのような思惑もあった。

実際、それは起こった。
U2という偵察機、今でいうステルス偵察機の原型と言ったらいいだろうか。
それはソ連のレーダーを回避できるはずだった。
しかし、レーダーに感知され攻撃を受け、結局墜落する。
そのパイロット、パワーズは一命を取り留め、ソ連の捕虜となる。

映画によれば、U2は当時の合衆国の最高機密兵器。
パイロットは搭乗するときに
青酸カリ付きの針が内蔵された
25セント硬貨と思われるコインを渡される。

つまり、捕虜になるくらいなら自ら命を断てということだ。
えっ、これって日本軍と何が違うのと思わず思った。
その一方で、人間として、たとえスパイであっても
裁判を受ける権利があると、
ある意味命がけで主張する主人公がいる。

パイロットであるパワーズは生き延びた。
機密を持つ人物を何とか取り返したい合衆国政府。
ここで、ソ連スパイであったアベルとの交換劇が始まる。

ここでの交渉人はドノバン。
政府が表立って動けない、東ドイツとは国交が樹立されていない。
それ故の起用。
政府にも守られずに交渉に臨まなければならない。
その神経戦は、映画の描写に譲る。

今回、この映画を観て一番考えたことは、
「交渉」ということだ。
お互いの主張や利益が真っ向から対立する中で、
最善、いや痛み分けともいえる落としどころを探すこと。
これより難しい仕事ってあるのだろうか・・・。

と、そんなことを考えながら、
今、その「交渉」がほとんど意味をなさない事態が
この世界に生じていることを思った。
IS(Islamic State)の在り方だ。

この集団と一体どうやったら交渉ができるのか。
そもそもその窓口はあるのか??
問答無用の世界とどう話し合いの糸口を見つけていくのか。

その問答無用の世界、自分たちだけが正しいと思う世界。
そういう世界の出現もまた、
今の世界の様々な歪みを背負ったからこそなのかもしれない。

ほんとうに人間が生きていくって難しいなって思う。

私は戦後生まれで戦争下を生きた経験はない。
生まれてから60年以上、この経験がないということは
この地球上に生を受けた人間としては
稀有なことともいえる。

幼い日、実家の前の国道を戦車が時々大轟音を立てて通った。
それが米軍のものか、今の自衛隊の前身のものかは定かではない。
その音にびっくりして母に聞いたことがあった。

「あの戦車はどこに行くの?」(私)
「演習場ってところにいくのよ。
世界はね、今ここでは戦争はないけれど、
戦争をやっていない時なんてなかったのよ。
いつもどこかで戦争をしているのよ」(母)
「ふーん・・・・」(私)

当時の私は意味がよくわからなかったけれど、
ここでは戦争をしていなくても、
必ずどこかで戦争をしているという母の言葉は
以来心に焼き付いている。
そして、少し大きくなってから、
母の言葉は本当だったことを実感する。

「ブリッジ・オブ・スパイ」の鑑賞から、
「交渉」と「戦争」、
そんな言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えしている
今日この頃なのでした。



保育園決まったー!-ホッと一息、でもね・・・-

2016-02-13 15:23:46 | 保育・子育て
この3月半ばから二世帯住宅になる。
4月から孫のTPは小学生、KJは保育園の4歳児クラス。

問題はKJの保育園転園。
区が変わるので果たして入園できるかどうか?

この3か月間、ずっと祈るような気持だった。
申し込みの時、ともかく少しでも
入園のための点数が上がるようにと
私たち祖父母が手伝えないことを証明しようと躍起になった。
でも、何のことはない、65歳以上は高齢者ということで
孫の面倒をみられる員数には入らないことが判明した。
嬉しいような悲しいような気持ちになったことは
以前のブログに書いた通り。

そして、2月10日はその発表の日だった。
「最終希望の園に決定」と娘から連絡が入った。

つまり近くの園はことごとくダメだったということ。
最寄りの私鉄駅から二駅目にある新設園に決まった。

この園、廃校になった小学校の跡地に作られる。
複合施設ということで保育園、区民集会施設、
障がい児の通所施設が開所される予定。

その中の保育園部分を民間の保育業者(?)、
つまり社会福祉法人ではない民間会社が受託した。
KJはそこに通うことになった。

「保育園に運良く入れても、
この新設園しか可能性がなさそう」と、
娘は前々から言っていた。
それすらダメなことがあるかもしれないとも。

それを聞いていた私たち夫婦は、
もし入園できなかった場合のことを考えた。

どうしてもだめな場合は幼稚園しかない。
近くの幼稚園を探した。
第一候補は夫が60年以上前に卒園した教会幼稚園。
HPを読むとアットホームでゆったりしている。
「ここがいいかもね」と私たち。
さらに調べると、預かり保育を午後4時までやっている。
これなら私たちで都合をつけ合えば何とかなるか・・・。

でも、大きな関門があった。
それは、夏休み。
幼稚園の夏休みは長い。

「あれっ、幼稚園て、夏休みあったんだっけ」とのたまう夫。
「子どもたちの幼稚園の時夏休みあったでしょ!!」
「それが、記憶にないんだなあ・・。」(私)
もう頭から湯気!!
「俺、何もしていなかったからなあ・・・」(夫)
「まあ、そうねえ・・」(私)


閑話休題

それと、保護者である母親が
駆り出される行事が多いということ。
遠足一つとってもそうだ。
保育園は先生と子どもたちで行く。
でも幼稚園は多くの場合親子遠足。

こういう保育園と幼稚園文化の違いをどう乗り越えるか・・。
と思いつつ、この園の門をいざとなったら叩いてみようと
私たち夫婦は心に決めた。

その日、勤めから帰った娘と長電話をした。
娘はこう言った。
「まずは、これでやってみようと思うの。
KJは電車フリークだし、
行きは私か夫のどちらかが送っていかれるわ。
駅から1分のところだしね。
帰りはお迎えをお願いすることになると思うけど大丈夫?」(娘)

「それは大丈夫よ。ダメな時はダメだってあらかじめいうから}(私)

「でも、できたら近くの園に変わりたいから、引っ越して来たら、
近くの園に転園希望であることは役所に伝えたいと思っているの」(娘)

「なるほどね。幼稚園は考えない?」(私)

「うん。それはね無理だと思うの。
まず、母親の出番が多いし、それはできないし。
それに多分働いている人と、専業の人では
どうしても文化が違うと思うし、よくそう聞くのよ。
それが私のストレスにもなりそうな気がするから、
無理しないことにする。
つまり保育園でいくっていうことよ。
もしKJが通園がどうしても大変そうだったら
またその時に考える。
だから、今はまずやってみるわ」(娘)

と、言うことだった。

「それがいいわね」(私)

そう、それがいいのだと思う。
当たり前のことだけれど、
親がまずしっかり自分たちで考えるって基本だものなって。

ついつい暇があるジジババは何とか手伝いたいなんて
思っちゃうけれど、ここは引っこみどころ。
ぐっと我慢して引っこむって、大事だなって思う。

私たちはどうしても助けてって言われた時に
助けられれば助けるっていうスタンスで行こう。
これは今まで通り。

ワイワイガヤガヤ、
ああ大変だ、でもああ楽しいって言えるように
生活したいなって思うこの頃なのでした。

父のことー入院70日目 英語を喋っていた!ー

2016-02-03 18:45:34 | 父とのこと
妹から、「お父さん、英語喋っていた!」と
ラインで知らせが入った。
車イスに乗った父の写真も同時に!
ラインにはこの瞬時性がある。
短い動画なら、これまたすぐだ。

私たち60代姉妹だけれど、
最近、メールやfacebook、ブログやラインを
私たちなりに使い分けている。
こういう機器は私たちにこそ
便利と楽しみをもたらしてくれる
と信じているからだ。

理系女子のはしりの妹、
理系からは程遠いけれど、新しいおもちゃ大好きの姉。
このコンビのなれの果てが今の私たち。

こういうものが出るたびに、
ああでもない、こうでもないと
頭つき合わせてやっている。
ほんと、頭つき合わせてやっている。
60代。なんたって時間がかかる。。。。
これがまた楽しい。

閑話休題。

この日、久し振りに妹と父のお見舞いに行った。
父はベッドでまどろんでいた。
私「お父さん、R子よ」
父「....(目を大きく開けて、何かを感じているようだ)」
妹「お父さん、T子よ」
父「(暫くじっと見つめてから)娘に似ているなあ。。。。」と一言。

似ているなあって、私たち娘だから、、、。

以前の私たちだったら
「お父さん、違うでしょ!私たちほんものだってばーl」って
言い返したと思う。

でも今は違う。
そのまま流れでいく。
もう訂正しても、それ自体が伝わらなくなっている。
私たちがいくつくらいのときが、父にとってのむすめなのだろうか、、。
そんなことを考えた。

そして、このブログをかきはじめていたら、、。
妹からのラインが入った。
そう、父が英語を喋っているという。

続いて動画も届いた。
動画を開けると、、、
父は車イスに座っていた。
少し音量を高くして、スマホに耳をくっつけると、
聞こえた、聞こえた、父の英語が。

妹が車イスを押し始めると
父「Go!」

父「Stop!」

角に来たら
父「Turn to the left,OK?」
って言っている。

父「Tokyo station ok?」って言ったりしている。

それから暫くして、妹からもう少し詳しい顛末がメールで送られてきた。

父の病室に戻ってきたら「My room」
妹がもう帰りますといったら
「Go home?」
という具合だったそうな。

なぜ、頭が英語になっちゃったんだろうかと妹。
ほんとになんでだろうか。

そのうちに英語よりもっと得意なマレー語が
飛び出てくるんじゃないかしら。

一体、父の頭のなかはどうなっているんだろう。
妹は初めて父と英語のやり取りをしたという。
もちろん私はしたことがない。

こんな不思議な時間を今、私たちはもらっている。

でもこんな風にある余裕をもって父と時を過ごせるのは
身体介護一切になってもらっているからこそのことだ。

このありがたい時間を大切に、
暫く父の頭のなかの冒険をしたいなって思う。

母の最後の半年にこんなときほとんどなかった。

本当にいろんな晩年があると思った
今日の父とのひとこまでした。