徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

「最高の花婿」(フランス映画)ー母娘で観ると・・・-

2016-05-02 09:25:45 | 聴く・観る・見る
待ちに待ったこの日。
そう、久しぶりに長女と一緒に映画鑑賞。

この日は国民の休日だったけれど
お休みではなかった私。
仕事は午前中で済ませ、
いそいそと待ち合わせ場所に。

場所は恵比寿ガーデンプレイスにあるシネマ。
この映画は私が楽しみに読んでいる
gooブログの「徒然草」さんの映画紹介で知った。

その時から、観たい、観たいと思っていた。
夫があまり乗り気でなかったので、
うーん、一人で映画観ても、
あとのおしゃべりが楽しめないし・・
と、半分あきらめかけていた時、
長女がこの日は空いていると言ってくれた。

彼女はフランス語のレッスンに通っているのだが、
そのフランス語の先生が、お薦めと言っていたらしい。

ということで、商談成立。
晴れて観に行かれることになった。



この映画は、4人姉妹のフランス人家庭の婿殿が
すべて生粋のフランス人ではないという設定。
中国人、アラブ人、ユダヤ人、
そして頼みの綱だった四女の婿殿となるはずの人物も
カトリックではあったけれどコートジボワール人。

この歴史・宗教・文化差によって引き起こされるあれこれ。
それをシリアスコメディ(という言葉があるかどうかわからないが)仕立てで描いている。
かほどさようにフランスという国は
今は人種のるつぼであることを思わされる。

そしてこの映画製作から2年後の2015年秋、
あの甚大な人的被害をもたらした
パリの同時多発テロがあった・・・。

そんなことと裏腹のヨーロッパの多国籍国家。
長い歴史を持つ国だけに、理想と現実との間の
溝は深いのだろう。
そこで、悲喜劇を繰り返しながらも、
市井の人々が、なんとか落としどころを見つけようと模索。
そこを軽妙かつ意味深に描いていた。

でもそのことと並行して、
今回、私の印象に残ったのは、
この映画で描き出されている母親マリーの姿だった。
それはここ日本に住む私たち団塊の世代の女性とも
どこか共通するものがある。

軽妙洒脱な会話を聞きつつも、
いつの間にか、その母親マリーの視点で見ている自分がいた。

フランスでもこの年代、
多くの女性は専業主婦で粛々と母親業を務めてきた。
つまり、母親業に命を懸けた!と言えなくもない。

映画ではマリーは敬虔なカトリック教徒。
娘たちもカトリック教徒には育ったが、
娘たちが伴侶とした婿殿は、
四女の婿殿を除いてカトリックではない。

あんなに一生懸命育てた結果がこれか・・・、
というのが、マリーの偽らざる気持ちだろう。
夫婦で自分たちの子育てを振り返る場面で、
「娘たちをパリに出したばっかりに・・」という部分があった。

自分たちの子育てが果たして、
成功だったか、失敗だったか・・・、
子育てに成功も失敗もないはずなのに、
私も含めて母親たちは時にそんなことを考える。

マリーも、想定外の状況の重なりに、
遂にうつ病と診断され、教会の懺悔室に行ったり、
精神分析を受けたりする。
こんなシリアスな状況が
この作品ではとてもコミカルに描かれていて、
洒落ているし、救われる。

この妻マリーの状況を理解できないのが夫クロードだ。
長く連れ添ってきたのに・・・、
いや、だからこその亀裂。

結局、妻は四女ロールの結婚話がきっかけになって
離婚を考え始める。

それを知って、四女ロールは結婚を諦めかける・・。
四女は、姉たちの両親の考えや心配を顧みない姿を
ずっと見続けてきたのだ。
これは娘が親を慮るシーン。

もう一方で、三女のセゴレーヌに視点をあててみると・・、

セゴレーヌはパニック障害をもっていると思われる設定。
とても繊細なので母親も父親も
気を使って育ててきたことが伺える。

セゴレーヌの気持ちを慮って
家の顔ともなる玄関には掛けられないような
ムンク風の暗い絵を、
彼女が来るときだけは掛けている。

でも、四女ロールの結婚騒動で
気が動転している父親が誤ってこの絵を踏みつけ、壊してしまう。
だからもう玄関には掛けられない。

次にセゴレーヌがやってきた日、
絵は当然ながら玄関には掛けられていなかった。

その時セゴレーヌは知る。
絵は毎日は玄関に掛けられていなかったこと、
わざとではなかったにせよこわされてしまったことを。
そこで彼女の過呼吸が始まる。

その様子を見た母親マリー、
きっといつもだったら甲斐甲斐しく世話をするであろうに、
このときは、「ああ、またね。いつものことね」といって
サラっとその場を去っていく。

ずっと母親業をやってきて、
娘たちにはある意味自由に、
そして自分の思いを遂げられるようにと
心のどこかで願いながら子育てをしてきたと思われるマリー。

この場面は彼女がよい母親であるのをやめた瞬間だ・・・、
と、私には思えた。

もう、心配はしない!
自分には自分の人生がある!
もちろんそれまでも自分の人生を
歩んできたわけではあるけれど。

でも、もういいんだ!
娘たちのことは心配しなくたって大丈夫!
母親として娘に良かれと思うことばかりに専心しなくても!

自分を生きることが、また次の道を開いていく。
この異文化、異国間の結婚劇を観ながら、
そこに垣間見られた、母娘のきずなの強さと、
だからこその葛藤。

なんて、もう途中からは独断と偏見だらけで
物語を追っている自分に気づいた私なのでした。
こんな風にこの映画を見る自分に
ちょっぴりびっくりしたりしながら・・・。