父と長生き競争をしていた実家。
父が朽ちるか、家が朽ちるか・・・。
結果は、家が残ったことになった。
この家、御年96歳。
瓦屋根のこの家は、
父が生まれた年の関東大震災で倒壊した。
瓦が重かったのだ。
しかし、曽祖父と祖父は、
倒壊した家の木材を使用して
同じ町内の別の場所に建て替えた。
こんな経緯を経て、
この家は96年を生き延びた。
父は私が生後8か月の時だった
27歳の時からは
一度もこの家から離れることなく、
92歳で倒れるまでを過ごした。
その約1年後、
父は妹夫婦の住む町にある
老健に隣接する病院で亡くなった。
96歳の家は主を失った。
しかし、私も妹も他に家を持ち、
この家に帰ってくるあてはなかった。
ついに曽祖父、祖父、父が住んだ家は
主を失うことになった。
妹夫婦を中心として家の片付けが始まった。
そこには信じられない量の「もの」があった。
そしてそれらのものだけでなく、
父と母の趣味と言われる範疇のものが・・・。
父の趣味は「海釣り」。
歩いて数分の砂浜でよく釣りをした。
私たちが小さいころは、キス釣り。
キスのかわりによくフグが釣れた。
父の釣りについていった私は、
釣り上げられたフグが
プーっと膨らむのに見とれた。
小学校の1、2年生のころ、
私は釣りの餌を買いに行かされた。
スナメやゴカイといったものだ。
私にしてみれば、ただのミミズ。
父はそれを餌にしてキス釣りをしていたのだ。
当時の釣り竿は竹で出来ていた。
やがて中断の時を経て、
父は40代半ばからまた「釣り」を再開した。
私が高校生の頃である。
それからは、出世魚のブリの子どもであるワカシやイナダ、
またカンパチやソーダガツオ、
ヒラメやスズキといった、
キスと比べればずいぶん大きい魚を
釣るようになった。
舟を出すのではなく、
あくまでも浜からの投げ釣り。
一番飛ばした時は浜から
160メートル以上にもなったという。
釣り道具の手入れも念入りだった。
父は短気であるのにもかかわらず、
こんがらがった釣り糸をほどくときは
黙々と手を動かし、すべてがはずれるまで
文句ひとつ言わず、
その手を休めることはなかった。
リールの手入れも、これまた念入りだった。
今でも父が手入れをしているリールの音は
時々私の頭の中で鳴り響く。
擬餌針というのもよく作っていた。
父は私と同じぶきっちょ。
そのぶきっちょの父が擬餌針を作るという
細かい作業に没頭していた。
海水につけたらどうみえるか、
なんていうことも考えてか、
よく擬餌針を水につけては
あっちから見たり、こっちから見たりしていた。
朝3時半から4時には起きだし、
釣り道具をもって浜に行く。
6時過ぎには戻り、
7時過ぎに出勤するという生活。
それは定年後も続いた。
父が浜に行かなくなったのは、
母が亡くなってしばらくしてから。
80代の半ば前のことだ。
「波に足をすくわれたよ。
もう難しいな・・・」(父)
父の釣り竿は何本になっただろう。
給料日の後、自分の小遣いを手にした父は、
釣り道具の量販店に向かう。
そして新しいリールだの釣り竿だのを
買ってきては眺めながら手入れをしていた。
妹夫婦は丁寧にこれら、
父の釣り道具をまとめてくれた。
父の釣り歴は長いから、
それらの釣り道具がいっぱいあることは
想像していた。
が、その量はそれを越えた。
さらに魚拓が見つかった。
そういえば、父は一時期、
魚拓づくりにも精を出していた。
大きなスズキが釣れた時、
父が魚拓を作っているのを覚えている。
それは見つからなかったけれど、
何枚かが見つかった。
妹夫婦はそれを母が使い残していた
スケッチブックに丁寧に貼ってくれた。
こうしてこれらが、
父の一周忌に母の描いた絵と共に
齢96歳の家に飾られた。
この家は急ごしらえの両親の個展会場となったのだ。(続く)
父が朽ちるか、家が朽ちるか・・・。
結果は、家が残ったことになった。
この家、御年96歳。
瓦屋根のこの家は、
父が生まれた年の関東大震災で倒壊した。
瓦が重かったのだ。
しかし、曽祖父と祖父は、
倒壊した家の木材を使用して
同じ町内の別の場所に建て替えた。
こんな経緯を経て、
この家は96年を生き延びた。
父は私が生後8か月の時だった
27歳の時からは
一度もこの家から離れることなく、
92歳で倒れるまでを過ごした。
その約1年後、
父は妹夫婦の住む町にある
老健に隣接する病院で亡くなった。
96歳の家は主を失った。
しかし、私も妹も他に家を持ち、
この家に帰ってくるあてはなかった。
ついに曽祖父、祖父、父が住んだ家は
主を失うことになった。
妹夫婦を中心として家の片付けが始まった。
そこには信じられない量の「もの」があった。
そしてそれらのものだけでなく、
父と母の趣味と言われる範疇のものが・・・。
父の趣味は「海釣り」。
歩いて数分の砂浜でよく釣りをした。
私たちが小さいころは、キス釣り。
キスのかわりによくフグが釣れた。
父の釣りについていった私は、
釣り上げられたフグが
プーっと膨らむのに見とれた。
小学校の1、2年生のころ、
私は釣りの餌を買いに行かされた。
スナメやゴカイといったものだ。
私にしてみれば、ただのミミズ。
父はそれを餌にしてキス釣りをしていたのだ。
当時の釣り竿は竹で出来ていた。
やがて中断の時を経て、
父は40代半ばからまた「釣り」を再開した。
私が高校生の頃である。
それからは、出世魚のブリの子どもであるワカシやイナダ、
またカンパチやソーダガツオ、
ヒラメやスズキといった、
キスと比べればずいぶん大きい魚を
釣るようになった。
舟を出すのではなく、
あくまでも浜からの投げ釣り。
一番飛ばした時は浜から
160メートル以上にもなったという。
釣り道具の手入れも念入りだった。
父は短気であるのにもかかわらず、
こんがらがった釣り糸をほどくときは
黙々と手を動かし、すべてがはずれるまで
文句ひとつ言わず、
その手を休めることはなかった。
リールの手入れも、これまた念入りだった。
今でも父が手入れをしているリールの音は
時々私の頭の中で鳴り響く。
擬餌針というのもよく作っていた。
父は私と同じぶきっちょ。
そのぶきっちょの父が擬餌針を作るという
細かい作業に没頭していた。
海水につけたらどうみえるか、
なんていうことも考えてか、
よく擬餌針を水につけては
あっちから見たり、こっちから見たりしていた。
朝3時半から4時には起きだし、
釣り道具をもって浜に行く。
6時過ぎには戻り、
7時過ぎに出勤するという生活。
それは定年後も続いた。
父が浜に行かなくなったのは、
母が亡くなってしばらくしてから。
80代の半ば前のことだ。
「波に足をすくわれたよ。
もう難しいな・・・」(父)
父の釣り竿は何本になっただろう。
給料日の後、自分の小遣いを手にした父は、
釣り道具の量販店に向かう。
そして新しいリールだの釣り竿だのを
買ってきては眺めながら手入れをしていた。
妹夫婦は丁寧にこれら、
父の釣り道具をまとめてくれた。
父の釣り歴は長いから、
それらの釣り道具がいっぱいあることは
想像していた。
が、その量はそれを越えた。
さらに魚拓が見つかった。
そういえば、父は一時期、
魚拓づくりにも精を出していた。
大きなスズキが釣れた時、
父が魚拓を作っているのを覚えている。
それは見つからなかったけれど、
何枚かが見つかった。
妹夫婦はそれを母が使い残していた
スケッチブックに丁寧に貼ってくれた。
こうしてこれらが、
父の一周忌に母の描いた絵と共に
齢96歳の家に飾られた。
この家は急ごしらえの両親の個展会場となったのだ。(続く)
釣り道具の手入れの様子が目に浮かびます。
ご両親に寄り添いながら遺品整理をなさる妹さんご夫婦に拍手!
こちらのブログにおじゃますると、いつも心が洗われます。ありがとうございます。
コメントありがとうございました。同じようにお父様のことを思い出されたのですね。本当に妹夫婦におんぶしての片付けだったのですが、こういう時間を持ててよかったなっておもっています。
ミコさんの玄人はだしの絵に乾杯!いつも楽しみにしています。