徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

またまたテニスー人間の心と身体の繊細さを思い知ったときー

2018-10-08 10:04:36 | 私のデフォルト
テニスのジャパンオープンを観てしまった。

準決勝の時の錦織の快勝に喝采を送り、
決勝戦でも快勝だろうと考えた。

ふたを開けた決勝戦当日、
錦織はあえなく6-2.6-4で敗退した。

相手は若干22歳の新進。
その強烈なサーブと正確なストロークに、
錦織はほんのちょっとタイミングを外された。

錦織級になれば、
もうテニスマシーンと言ってもよいくらい、
ショットは正確だ。

その正確さを揺るがすのは、
ただ一つ、
その瞬間の「心もち」としか言いようがない。

ということを、この初秋の
全米オープン以来のテニス視聴で
思い知らされた。

こんなことは何千年の昔から
分かっていることで、
何もわざわざ取り上げるほどのことは
ないのかもしれないけれど、
今の私には、身につまされる。

心ほど厄介なものはない、
そんなことを思わされた。

けれどもその心が上向きの時は、
大方のことは乗り越えられる。
問題は下向きになった時だ。

それを上向きに変えるって至難の業。
全米オープンでは、
大阪なおみが頭を上にあげて、
にこっと笑った姿を見た。
それが「心」を切り替え、
初優勝につながった。

一方、日本でのトーナメントで敗戦した時は、
そんな場面は皆無で、
むしろ怒りをぶつけるしぐさが出た。
それは「心」を切り替えるには至らなかった。

そんなことを思いながら、
錦織の一挙手一投足に思わず知らず集中した。
そこで見たのは、自滅していく場面だった。

相手は、淡々と正確にストロークを返しているだけ。
錦織の心の方が下向きに揺すぶられ、
結果、優勝は成らなかった。

心のプレッシャーとは
こういうことかと、
生放送でみて、納得した。

恥ずかしながら、
人間の精神と身体ってこんなに影響を与え合うものなのか、
ということに今更ながら驚いた。

ときどき、体の中の同居人を
疎ましく思うことがある私。

疎ましく思ったら最後、
心は負のスパイラルにハマる。

「KEEP CALM and CARRY ON」

この至難の標語を心に呟き、
今日も一日元気に過ごすことにいたしましょう。


いつもこうありたいと思っているような
自分で過ごせるわけではないってことを
学んだテニス観戦なのでした。



錦織→大阪→ジョコビッチー全米オープン観戦三昧三日間ー

2018-09-10 11:04:46 | 私のデフォルト
今日はいつもと趣向を変えて
ちょっぴりテニス観戦のお話を・・。

9月の8,9,10日の早朝、
私はWOWWOWの全米オープンの
男子準決勝、女子決勝、男子決勝に
釘付けになった。

寝坊の私が早起きの3日間。
まず初日、錦織頑張れ!と
体に力が入った。
恥ずかしながら血圧まで上がっちゃって・・・。

ジョコビッチには圧倒的に敗れているけれど、
今回はもしかしたら…なんて思った。
でも、そのもしか・・・は起こらなかった。

ジョコビッチは強い。
強すぎて、私の中では
昔の東西冷戦時代の
スパイ映画のお決まりの悪役、
東欧系の男性を彷彿とさせてしまう。

それはさておき、
久し振りに見たジョコビッチは
冷静さに加えて、
随分攻撃的なパワーテニスという
感じを受けた。

テニスも随分変わったのだ。

私がテニスに興味をもったのは
高校生の時。
その頃のテニススターは、
ジミー・コナーズとクリス・エバート。
まだ、テニスウェアも白一色の時代。

それにちょっぴり悪童っぽい
ジョン・マッケンローが出てきた。
女子ではその後ナブラチロワが
全盛時代を築いた。

エバートの華麗なストロークを中心とするテニスから
ナブラチロワのパワーテニスに変わっていった、
とそんな感じだ。

大学を終えてから、テニスを習い始めた。
といってもヘッポコテニスのままで、
ちっとも上達しなかった。
でも面白かった!

だからしつこく、専業主婦時代も、
社宅の友人たちと家族ぐるみでテニスを楽しんだ。
はい、そのときは子どもは放りっぱなしでした・・。

子どもたちを連れて
テニスレッスンに通ったこともあった。

そうしたら、そばで遊んでいた長女が
低いブロック塀に乗って遊んでいて
落ちたっていうこともありましたのです・・。

だから、今のお母さんが
子どもを放っぽりぱなしで好きなことをしている
なーんて言えた義理ではない・・・。

専業主婦・子育てだけでは力は余る。
テニスをしたり、パンを焼いたり、
家にいてできることを探したものだった。

テニスは結局、いろいろな事情で
尻切れトンボになってしまったが、
唯一、自分がほんのちょっぴり
体験したスポーツということで、
今度は観戦側に廻った。
といっても、気まぐれ観戦者ではあったけれど。

だから今回の全米オープンの連続観戦は
久し振りのこと。
ビデオ予約をしておいたにもかかわらず、
5時半起きを決行するなんて、
自分でもどうなっているんだろうと思ったが
その勢いを止めることはできなかった。

こうして次の日。
大阪なおみとセレーナ・ウィリアムズの対戦。
いくら勢いに乗っているといっても、
セレーナ相手ではと思ったけれど、
大阪は勝った。

あの大きなスタジアムのほとんどが
セレーナファンという状況の中で、
ほとんど表情一つ変えずに
戦うなんて、凄すぎる!
弱冠20歳でそんなことができるのか・・。

でも、試合が終わって、
セレーナの抱擁を受けた時は
弱冠20歳の初々しさが表れていた。

これから研究されたり、
追われる立場になるので
本当に大変だろうが、
あの淡々とした態度は
見習いたいと心から思った(無理でありましょう・・)。

そして最終日。
ジョコビッチとアルゼンチンのデル・ボトロとの対戦。
観戦席はサッカーの観戦席かと思うほど。
デル・ポトロファンの声援が凄すぎた。
しょっちゅう主審からの注意も入ったくらい。

まあ、凄い試合だった。
1セットはジョコビッチペースで淡々と運んだが、
2セット、3セットは冷静さの中の死闘というか・・。

え、こんななボールも拾えるのという
ラリーの応酬だった。
そして最後はジョコビッチの粘り勝ち。

二人とも大きなけがをして
試合から長く離れていたが、
こうしてまた復活を果たしたらしい。

表彰式の時。
前日の女子の表彰式の時は、
クリス・エバートが現れた。
はじめ私にはわからなかったが、
夫が、あれエバートじゃないか?という。
よーく見たけれど、
私の中のエバートとは一致しなかった(*_*;。

男子の表彰式には
ジョン・マッケンローが現れた。
えっ、マッケンローが白髪!!
悪童ではなかったのか・・・。

まあ、冷静に考えれば、
あの時代から半世紀が過ぎたわけだから、
エバートの面影を拾えなくても、
マッケンローが白髪でも何にもおかしくないのだけれど・・・。

ふっと思った。
その半世紀、私は何をしていたのかなって。

これで私の夏もおしまい。
暑くて暑くて、もう溶けそうになるので、
家の中でクーラー漬けになって
しのいだ夏。

酷暑、台風、地震と、
気候や自然が少し激しくなり始めたことを
実感したこの夏。

そんな夏を締めくくるテニス観戦ではありました。
さあ、秋に向かってシャンとしなくっちゃ!









キンキンに冷えている!!-抗がん剤治療点描ー

2017-11-18 10:55:16 | 私のデフォルト
私の慢心から招いた腸閉塞。
でも、やっと元の調子に戻った。

今回だけは医者の
「30分かけて食べること!」の言葉を
忠実に守っている。

まあ、30分かけて食事をとると、
温かいスープも冷え切ってしまうけれど・・、
そんな贅沢は言っていられません。

ガンと「共存」なんて言うけれど、
そんな綺麗な言葉はちょっと現実と違うなって思う。

さて、腸閉塞が落ち着いて、
また治療が再開されることになった。
これは私にとっては日常のこと。

けれど、今回は薬を変えることになった。
「ドキシル」という薬を使うことに。

この薬の副作用の大きなものに、
手足症候群というのがある。
手や足の皮膚細胞がやられて、
赤くはれたり、水ぶくれができたりというものだ。

それを防ぐためには
いくつかの方策を取らなくてはならない。
その一つが点滴中に手足を冷やすという方法。
冷やすことで、抗がん剤が手首から先、
足首から先に廻らないようにするのだ。

そうすることで、少しでも症状の到来を防ごうというもの。

で、どうするかというと・・・、
そう、アイスノンの手袋と、靴下を装着する。
私の場合はおよそ1時間の投薬時間の間、
それを装着することに。
だから投薬中は天井を見ているしかない・・。

今回、看護師さんが持ってきてくれた手袋と靴下、
ちょうどドライアイスから出るような白い煙を吐きながら登場!

うわーっ、キンキンに冷えているんだ!!
それを見ただけで身震い!

看護師さんは
「じゃあ、この薄手のゴム手袋をはめてね」とおっしゃる。
「え、薄手のゴム手袋だけですか」(私)
「そうです。症状を抑えるためには我慢してねー」とのこと。

私は実は、この手袋が不織布か何かで出来ているものを想像していた。
それだと少しは冷たさが緩和できると思うからだ。

でも現実は違った。
この薄さでは、すぐに冷えちゃうなあ・・。

でも、文句は言っていられない。
左手にはナースコールを持たされて、
恐る恐るアイスノンの手袋に手を入れた。

「じゃあ、何かあったら
すぐナースコールで呼んでくださいね」と言って
看護師さんは去っていった。

1分、2分、3分・・・、冷たーい!!
5分! 痛ーい!!!
もう耐えられないと、思ったけれど、
みんな我慢すると聞いていたし・・・、
ここで悲鳴を上げては女が廃る・・・なーんて
女侠客のような気分になって頑張ったが・・・、

なんたって右手の第一関節から上がしびれ始めて、
これ以上我慢したら凍傷になるかも・・。

雪山で遭難した人はみんなこんな感じから始まるのか・・・、
とか、これを我慢できないなんて、
私って弱虫??なーんてあれこれ考えて気を紛らわそうとしたが・・、
無理だった・・・・。

こちらも固まってしまっていた左手。
何とか動かしてナースコール!

「もう無理です!痛い!です。
不織布か、ガーゼとかかけていただくわけにはいきませんか?」(私)

「それは置いていないので、手袋二重にしてみましょうか。
ちょっと取ってきますね」と看護師さん。

戻ってきたときに彼女の手にあったものは、
薄手のゴム手袋と、ガーゼ。

手袋を二枚にして、
その上をガーゼでそっーとくるんでくれた。

ホッと、体中の力が抜けた。
今まで痛いの我慢して、
体ががちがちに固まっていたのだ。

そして冷やすこと再開。
こんどはキンキンではない。
冷たいだけで痛くはない。
これならなんとかいけるなって、ちょっぴりホッとした。

ふと気がつくと、看護師さんがそばに。
「45分経ったから、手袋を新しいのと取り換えますね」とのこと。
みると、看護師さんの手には白煙をあげるアイスノン手袋が!!

そうか、キンキンに冷えていないと意味がないのかー。
また恐る恐るアイスノン手袋に手を突っ込んだ。
あと15分だ。
なんとかなるさ。
ガーゼもあるし、大丈夫って自分に言い聞かせた。

今度、1か月後の投薬の時は、
絶対に綿の手袋を家から持ってこようと心に誓った。

えっ?足ですか?
足は大丈夫なんです。
だって、前の薬でしびれが残っているので、
そのおかげで冷たさをほとんど感じないのであります。

いいことなのか、そうでないのか・・・、
ほんとうにいろんな体験させてもらっている私です。

でも、投薬が終われば
この「キンキン手袋」事件も笑い話に。
転んでもただでは起きぬ精神で、
これからも行こうって思うのでありました。

















イレウス体験記②-若者のチームワークって凄い!-

2017-10-24 09:53:44 | 私のデフォルト
イレウス(腸閉塞)の疑いで緊急入院。
それから4日様子を見たが、その診断が確定。
この4日間はおなかが張って苦しかった。

診断が確定したら、
やらなくてはならないことがある。

イレウス管の挿入だ。

主治医はそれが大変だら、
様子を見てなんとか
挿入しないで治るかもしれないという
可能性に賭けてくれていた。

しかしそれは夢に終わった。
その日の夕方、イレウス管挿入となった。
時間は30分から1時間くらいとのこと。
透視撮影をして中を見ながらやるとのこと。

鼻から出来れば170㎝位挿入したいとのこと。
へええ、どんなふうにやるのかな・・・。
と暢気に構えていた。

連れていかれたところ、
そこは大腸外科の透視できる装置のある部屋。
要するに挿入したものがちゃんと入っているかを
エックス線で透視できるシステム。

胃カメラや、大腸内視鏡を入れるのと同じ感じだが
ちょっぴり大掛かりな感じ。

と、そんなことを考えてキョロキョロしていると・・、
看護師さんに、
「じゃあ、鼻から麻酔を入れるので、一緒に息をして」
とか言われて、
スーッと吸って、ゴホゴホっとなった。

麻酔が効いたころを見計らって処置は始まった。
医師は2人時々3人。

鼻から入れた瞬間はさすがにアッという感じだが、
あとはスーッと入っていった。

が、それからだ。
なんせ胃を通り抜けて、
小腸まで入れようっていうのだから
長い道のりだ。
目標は1.7~1.8メートルらしい。

さて、少し入れては胃を揺すって、
入れてはおなかを揺すって・・・
という感じに私には思えた。

その揺すり方というのが尋常ではない。
揺すっているっていうか、
叩いているっていうか。

もしかしたら、叩かれると
私の神経がそこに集中するから、
グニュグニュと入っていく管から
注意はそがれることになる。

俎板の上のコイになりながら、
そんなことを考えた。

ところが、途中から入りにくくなったらしい。
私から見れば若者の医師たちが
こっちからかなあ、
いや、こっちの方が入りやすいか・・、
いや、、
というように、悩みながら、
2人で、時に3人で相談しながら
入れる角度を考えているようだ。

途中何回も写真を撮ったし、透視はされているし・・。
なんだか私は「ゴジラ」になってしまいそう!
なんて思いながらいると・・、

どうしても目標に10㎝、20㎝足りないらしい。
エックス線の被ばく量から逆算すると、
この処置は最長1時間と決まっているらしい。

もうすぐその時間になるようなのだ。

結局、少し足りないまま処置は終了した。
が、私はなんだか達成感でいっぱいの気持ちになった。

イレウス管の威力はすごい。
このおかげで、どんどんお腹の張りがとれていった。

しかし3日後、
やはり、残りの20㎝を入れたいということで、
また、透視撮影室で俎板の上のコイに。

ここでも3人の若者医師たちのチームワークで、
入りにくくくねくね曲がっている私の小腸を
だましだまし、なんとか、
これも1時間かかって達成された。

このおかげで以後順調にお腹の張りはすべてなくなり、
挿入から8日でイレウス管を抜くことができた。

絶食終了。
これからゆっくり口から食べる修行が始まった。

なかなかうまく前に進んでくれなかった
私のイレウス管。
それを何とか入れようと角度を検討したり、
なんやかやとその若い医師たちは話し合い、
知恵を出し合いやっていた。

その様がなんとも気持ちよかった。
レントゲン技師に対する態度も丁寧で、
医師に時々ある高慢ちきさは微塵もなく、
ひたすら一生懸命、今の仕事に向き合っている感じ。

彼らは大腸外科が専門。

私の主治医は婦人科だが、
この腸閉塞が治まるまでは、
大腸外科が担当となる。

それは、緊急入院した直後に、
婦人科、大腸外科、感染症科の
連携治療対象となったのだった。

その連携が、アッという間にできるところにびっくりした。

さらに麻酔はほぼなしの状況での処置だったので、
若い医師たちのチームワークの良さというか、
徹底的に話しながらやる様子を
自分を提供してではあったけれど、
間近に観察できたことは、とても面白かった。

この医師たちが、このままスクスク
柔軟な人間関係力を持ちながら育っていくことを
なんだか心から祈ってしまった
イレウス管挿入体験なのでした。





やっと、家に戻ってきました!-イレウス体験記-

2017-10-21 09:41:59 | 私のデフォルト
やっと、家に戻ってきました!

ふー、なんと3週間以上が経っていた。

それは急に始まった。
腹痛と吐き気。
夜中のことだった。
少し我慢すれば治るかなって思ったが、治らない。

ええい、仕方がない、救急車だ。
となりの夫を叩き起こして、救急車を頼んだ。

そして、30分以上かけてかかりつけの病院へ。
救急車はガタゴト揺れる。
こんなに揺れたら、
重病の人は耐えられないんじゃないかと思うくらい。
私も吐いてしまった。

かかりつけの病院についてからは
テキパキテキパキっと事が運んだ。

レントゲン、点滴、そしてCTまで撮って
病室に運ばれた。
それも一人部屋。
うんうん唸ってしまうのだから仕方がない・・。

頭ははっきりしているのだけれど、
腹痛のせいで、見た目はうんうん唸っているおばあさんの体(てい)。
まあ仕方がない。

ともかく病室で唸っていた。

要するに、詰まってしまって、出るべきものが出ない状態。
こんなに苦しいなんて知らなかった。

7年前に手術して以来、
主治医はいつも「腸閉塞にだけはならないように!
腹7分目、いや6分目だっていいんだよ。
よく噛んで食べてね。
お腹を切った場合は、こういうことが起こりやすいんだからね!!」
と、ことあるごとに注意されていた。

最初こそは気をつけたものの、
もともと胃腸が丈夫で、大食いで早食いの私。
いつの間にかいつもの早食いに戻っていた。
それでも何事も起こらずに7年過ぎた。

だから、もう慢心状態。
この異変が起こる1週間くらい前から、
ちょっと食べ過ぎかなとは思っていたけれど、
胃腸の異常はないし、たいして気にも止めていなかった。

そして、急に激烈な痛みがきたのだった。

あーあ、大失敗。
しかし、時すでに遅し。

病室で、それでも少しづつ落ち着いてきた。
医者の見立ても、便秘かなということで
一週間以内の退院を予想していた。

しかし、様子を見ているうちに、
みるみるお腹が張ってきた。
張ってくると、息が苦しい。
肩で息をするようになってしまった。

つまり、普通の便秘ではなかったのだ。
医者も、こういうことが起こることを想定して、
様子を見ていたようだ。

そしてそれが当たり、とうとう
「イレウス(腸閉塞)です」と言い渡された。

そうなると、イレウス管という管を鼻から通して、
溜まったものを上から出す処置をしなくてはならない。
それを装着することも決まった。

それは、透視しながら鼻から入れていく。
私の場合は1時間かかった。

大腸外科の若者の医者たちがチームで取り組む。
その姿は清々しかった。

が、やられている私は、なんともはや俎板の上のコイ。
やっとこさっとこ、1.5メートルほどが挿入された。
本当はあと20㎝入れたいらしい。
ダメだったら、もう一度奥に入れることをやるという。

この装置は鬱陶しいが、効果は覿面。
溜まっていたものを排出してくれるので、
どんどん楽になっていった。
少しずつお腹の張りも取れ、普通になっていった。

絶食することほぼ2週間。
それでも生きていられることを体感した。
ただ、ずっと管人間でいる体験も。

断食の人と同じで、はじめは回復食という
ジュースが食事の代わりに出される。
それをちびちび飲む。

それでOKとなると、重湯食。
重湯にあった酸っぱい味、甘い味、塩味の
流動食もでる。
それ30分掛けて飲めという。

え、30分!
そんな長い時間かけるの?・・・。
でも時計とにらめっこしながら30分かけて飲む修行。

それが終わると半人前の五分がゆとそれに見合ったおかず。
それも30分かけて食べる修行。

これがクリアできると、
今度は半人前の全粥食。
これをやはり30分かけて食べなくてはならない。
数日間、これを訓練。

そして、腸の具合が戻っていることが確認されて、
晴れて退院となった。

しかし、一日5回食が今のところの基本。
いっぺんにたくさん食べることは禁止だからだ。

家に帰ってからもこれを守るようにと
しっかりした栄養指導が入った。

そうだったのか。
私はやっぱり自分を過信していた。
がんに軒先を貸しているということは、
それだけハンディがあるということだ。

それを知ってはいたけれど、
ハンディなんてないわとばかりに
普通に動き過ぎたのだ・・・、
というのが今の私の結論。

しばらくはスローダウンしてやっていこうと思う。
30分かけて食べる食事修業は、まだまだ続くのでした。