徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

50年後の修学旅行 in Kyoto(その3)-京都国立博物館・智積院騒動記-

2015-10-29 06:45:06 | 京都旅行から
うひゃーーー・・・。
この列の長さは何だ!!

「ただいま、140分待ちでございまーす」(会場整理担当者)
「ひゃ、ひゃく四十分!!!」(私)
「やっぱりー・・・、先に来るべきだった・・・。
うーん、計画を誤ったーー」(夫)
夫はうなだれると同時に
私に対する怒りがフツフツと湧き上がっているのを感じた。

そうなのだ。
私が京都国立博物館に行く前に、
向かいの智積院に寄ろうと提案したから。

みんな、こういう催し物は早く行こうと考える。
特に団塊世代以上は時間もあるし、行動時間が早い。
だから最初の波が終わったあたりに入ろう。
それが私が出していた結論だった。

夫は、本当にそうかなあと思いつつも、
バスを降りて、国立博物館の入り口から、
既に長い列ができているのをみて、
私の案に従うと決めたのだ。
一点の杞憂は拭えないままに・・・。


実は私たち夫婦、その前日新幹線で京都に入った。
その目的は、京都国立博物館の特別展「琳派誕生400年記念 琳派 京(みやこ)を彩る」。



この特別展を観たい一心で前から計画を立てていた。
今年は琳派400年の催しがあちこちの美術館で開かれている。
その集大成というか、最後の大掛かりな展覧会がこの特別展。
一泊二日の予定なので、これが私たちの第一順位だった。

第二順位は醍醐寺。
このお寺は私が高校の修学旅行で行ったところ。
私が訪ねた時は「桜吹雪」で美しかった。
ああ、秀吉はこの桜に魅了されたんだなーなんて、
当時、歴女だった私は、うっとりした。
そして、絶対また来ると心に誓った。

そして50年が経った・・・。

桜の季節も紅葉の季節も京都は人でいっぱいと聞く。
私は東京に住んでいて、人でいっぱいはもうたくさん。
だから、本当は桜や紅葉を愛でたいけれど、
それは我慢している。

そしてその季節をちょっと外した3月とか、
今回のように10月とかに訪れ始めたのはここ2年のこと。

季節外れではあったけれど、訪れたところはどこも静かで、
そしてその季節なりの美しさがあった。
満開の前の桜の蕾、木々や花々が「さあ、外へ出よう!」という前の
エネルギーをため込んだ何とも言えない気持ちよさ。

今回はわずかに色づき始めた楓をみて、
ああ、もうすぐ萌出ずる木々や山々になるのだなと思いを馳せた。

閑話休題。

訪れた醍醐寺。
私が桜吹雪を見た場所はなかなか見つからなかった。
記憶違いなのだろうか・・・、

と思いながらうろちょろしていたが・・、
あっ、もしかしたらここかもと思った場所は
霊宝館という醍醐寺の需要文化財等が保管されている建物の前。
この建物は半世紀前には建っていなかった。
そこに大きな枝垂桜があった。
これだ!!

霊宝館が、建てられていて、
庭園の広さが少し狭くなっていたので
イメージが違い、最初は通り過ぎてしまったのだった。
また会えた。
あの50年前の日々は確かにあったのだ。

第三順位は智積院。
宿で、国立博物館近辺の地図を見ていると、
すぐ対面に「智積院」があるのを発見した。
というか、なんと事前準備の悪いことかというべきか・・・。

しかし同時に京都のテレビは信行寺の天井画が
期間限定で公開されていると伝えていた。
この天井画は私が追っかけをしている伊藤若冲の珍しい作品と聞いている。
こちらにも行きたいなあ、なーんて呟いていると、

あの智積院?と夫。
長谷川等伯、久蔵親子の「桜図」と「楓図」があるといわれる・・。
「そこも国立博物館に近いの?」(夫)
「そうよ」(私)

今年、安倍龍太郎著「長谷川等伯」を読んだ。
この本は夫にも私にもヒットした珍しい本の一つ。
だから、智積院と言ったとき、
夫も、オッとそうだった、その手があったねと賛成した。
そして智積院に行くことに決定。

8時40分には国立博物館前はすでに長蛇の列が。
私たちはすぐに踵を返して智積院に向かった。
こうして第三順位と第一順位の見学時間が入れ替わった。

こちらは9時の開門と共に中に入った。
もう「利休好みの庭園」も
お堂のなかの障壁画の鑑賞も私たちだけ。
なんという贅沢!!

この贅沢を綴るのは次に譲ろう。

ともかく、貸切、独り占めという贅沢を
一時間半余り満喫したのち
いよいよ本命の国立博物館へ。

見ると、もう長蛇の列はなかった。
「よかったわねえ」(私)
「うん、よかった」(夫)
と、二人でにこにこしながら入門した。

そしてすぐに耳に入ったのが、
「ただ今140分待ちでございまーす」の声。

団塊夫婦の冷戦の火ぶたが
またもや切られることになったのでありました。


「今」に生きるということー色んな自分がいたー

2015-10-25 16:12:48 | 団塊世代夫婦の一コマ
我が家は二世帯住宅。
私たち家族が二階で姑が一階という生活を
30年弱続けてきた。
その姑も昨年亡くなった。

その前に子どもたちは次々に巣立っていった。
飛ぶ鳥、跡を濁さず・・・・、
というのは今では死語かと思われるほど、
巣立っても、巣立っても、
我が家の「もの」は減らなかった。

この同居中、私たち家族は4年弱家を空けた。
夫の合衆国南部A市赴任に伴って、
姑を除いて、私たちも海を渡った。

そして、帰国。
持ち出した荷物よりも、
持ち帰った荷物の数の方が圧倒的に多かった。

私は姑に頭を下げて、空いている押し入れの天袋や、
使っていない部屋の押し入れを借りて何とか収納。

その後、子どもたちが一人暮らしや結婚で
家を出るたびに残していったものも、
姑を拝み倒して一階に置かせてもらっていた。

そして、その時収納されたものは、
今日の今日まで日の目を見なかった。
つまり、一番古いものは
23年間もそのままだったということ。

我が家はもうすぐ、
姑の住んでいた一階部分のリフォームする。
それまでにはなんとか整理しなくては・・。

私は嫁。
それも鬼嫁。
姑が亡くなってから、
彼女のものは少しずつ処分し始めた。

もともと整理整頓を旨とする姑は
92歳で施設に入るまで、本当に簡素な住まい方を通した。
必要最小限のものと気に入った写真。
そしてテレビとこたつ。

だから、少しずつ処分を始めたら、
わけなく姑のものは片付いた。

姑の居住部分だったのに、
気づいたら私たち夫婦の今すぐには使わないもの、
思い出の品々、そして子どもたちが残していったものの
保管倉庫と化していた。

だから姑のものが片付いても、
一階は一向に片付かなかった。

しかしリフォーム開始を1か月半後に控えて、
私たち夫婦の重い腰もついに上がった。

子どもたちのおいていった大物小物の整理。
粗大ごみの収集をしてもらう手続きをすること。
やることはいっぱいある。

テキパキやらなくてはならないのに、
23年間封印していたものをいざ解くとなると、
出てきたものを見て、
頭の中のスイッチがあちこちで入ってしまう。

1か月、2か月ならともかく、
23年間開かなくても何の不都合もなく暮らしていたのだから、
そのままポイッということでもいいはずなのに・・。

自分たちの分は後回しにして、
子どもたちがいいと言ったものをまず処分しよう、
そう考えた。
でも、子どもたちが処分していいと言っているのに、
処分をためらうものがある。

それは子どもたちがああ、あの時は一生懸命だったなと思うもの。
その一生懸命さを思い出し、思わず捨てる手が止まる。

その一つに息子の多摩川べりを歩く
耐久歩行大会のメダルがある。
息子はもう忘れているだろう。
走ったり歩いたりしながら、最後まで完歩。
最後のお汁粉が待っていたと言っていたことを思い出す。

アメリカ南部A市の日本人補習校幼稚部に通っていた娘の
ひらがな練習帳も出てきた。
やっと覚えかけた日本語が、英語に替わっていったあの日々。

娘のフルートの一本目。
アメリカの小学校には
バンド(ブラスバンド)の時間が毎日あった。
一生懸命練習して、ポジションをとる。
よく練習していたっけ。

なーんて、自分の子育ての日々が蘇る。

あの時の自分、今の自分、
色んな自分がいる。

そしてさらにその前の自分。
実家の本棚に本を入れっぱなしにしたまま、
私は結婚した。妹も。

その本棚は父の入院を期に、
今は空き家状態になった実家にそのままある。

その時の自分と今の自分。
同じ自分を生きているけれど、
あの時の自分は今の自分じゃない。

そんなことを思う片付けの一コマでした。







丸の内オアゾの丸善でーどろだんごとたごとのつきまつりー

2015-10-18 08:31:51 | 絵本・児童書 今日の一冊
あった!
飯野和好さんの最新刊
「どろだんごとたごとのつきまつり」
この9月に出版されている。


飯野和好「どろだんごとたごとのつきまつり」BL出版 2015

何とも渋く、土着的、そしてユーモア、
さらに言えばそのことばのリズム感!
これって、飯野和好さんの持ち味。
そしてちょっぴり団塊の世代の郷愁を誘う・・・。

でもそんなことを知ったのは、
恥ずかしながらそんなに昔の話ではない。

何を隠そう、孫のTPがはまっている絵本に
「ねぎぼうずのあさたろう」シリーズがあったのだ。


飯野和好「ねぎぼうすのあさたろう」福音館書店 1999

本のタイトルと名前だけは知っていた。
そしてこの表紙も。
でもその後、アニメになったことすら知らなかった。

それは私に興味がなかったから。
この手の絵本の生命力は感じても、
私の絵本テイストじゃないなあってずっと思っていた。

ところが今年保育園の年長になった孫のTPは
この本を繰り返し図書館から借りているという。

TPは何を面白いと思っているのだろう。
そんな興味が私を飯野和好さんの作品に向かわせた。

それは言葉のリズムにありそうだった。
母親とTPは絵本をまるで掛け合いのように
センテンスごと、あるいは場面ごと、
その時々の二人の間合いに応じて一緒に読んでいる。

それを見てびっくりした。
そんな読み方、私、今までしたことなかった。
掛け合いかあ・・。
TPが親と掛け合いのように読むのはこの本には限らない。
でもこの本には、それを誘う何かがある。
それ言葉のリズムかなって思う。

そんなこんなを過ごしているうちに、
この夏、飯野和好さんの
「オッと、痛快、絵本の読み聞かせの旅でい!○○の宿」の
裏方仕事をすることになった。

その日、股旅姿で登場した飯野さんは
一人芝居風の楽しい舞台を見せてくれた。
なるほど、飯野さんのあのリズムある言葉は
もう口からあふれ出る言葉がそのまま文字なったものだ、
ということがよくわかった。

それから、「ねぎぼうずのあさたろう」も
「くろずみ小太郎旅日記」も大きく声を出して読んでみた。
目で字を追うのとは違う世界だ。
自分の声を聴きながら、なるほどなーなんて思う。


飯野和好「くろずみ小太郎旅日記 おろち退治の巻」クレヨンハウス 1997

「どろだんごとたごとのつきまつり」に戻ると・・・、
本を開いた裏表紙に

「~はあー、
おらがたんぼの
おまもりこぞう
つるんとうまれた
どろだんご
ほいっ」

とある。
それから一枚めくってお話がはじまる。
この「間」の感覚かな。

なんて、ごたごた思いつつ・・・、
思い出したことがある。

幼稚園で、日がな一日かけて作った泥団子。
子どもたちは何とかそれを明日までとっておきたい。
幼稚園のあっちをうろうろ、こっちをうろうろ、
誰にも壊されない秘密の置き場所探しに真剣だ。

そしてやっと見つけた場所。
靴箱の奥・・・。

保育を終わって、靴箱の奥、時には道具箱の奥に
ひっそり置かれた泥団子に何回出会ったことか・・。

夜のあいだ、泥団子は何しているんだろうな、
ちゃんと待っていてくれるだろうな、
悪者に壊されたりしないだろうな・・・。
そんなことを思って子どもたちは眠りにつくのかな。

泥団子体験を積んだ子どもたちもまた、
このリズムと、夜の泥団子と他の生き物たちの祭りと、
どろたぼう(泥の怪物)とお月さまの掛け合いを
楽しむことだろう。

ここでまたふっと思った。
都会のど真ん中の保育園に通うTP。
彼が泥団子を作ったって話はとんと聞かない。
おまけに今は園舎の耐震工事中。
園庭がつぶれている。

ああ、あんな泥まみれの感覚、味わってほしいな・・、
と、ババは欲張りに思うのでした。

今、保育園でも幼稚園でも、
裸足になれない子どもたち、
砂場をつま先立ちで歩く子どもたち、
そんな子どもたちがいることがもう普通になってしまった。

清潔という名のもとに、駆逐されていく触覚。
もう、この子どもたちの親世代の頃からそんな時代は始まっていた。
その責任の一端を担う私たち団塊世代。

あの時代はよかったで終わるのではなく、
今、ジジババ世代の団塊ができることを考えなくちゃな。
じゃないと、子どもはあのはじける生命力の
もって行き場がなくなってしまうから。



丸の内オアゾの丸善でーふふふ、面白い絵本みーつけたー

2015-10-16 10:06:13 | 絵本・児童書 今日の一冊
その日、遠来の友との待ち合わせで、
ひっさしぶりに丸の内オアゾにある
丸善の児童書売り場に行った。

その友は正真正銘の方向音痴(笑)。
彼女が指定した場所なら絶対会える・・・、
ということで、指定されたのがここ、丸善。

まだ時間があったので、私は児童書売り場をふらついた。

なるほど、ここは丸の内。
ここに勤めるイクメンが選書したコーナーもあって、
ビジネス街ど真ん中という地域性を感じた。

昼休みや帰りがけ、この児童書売り場によって、
時には妻から頼まれて、時には自主的に
この売り場に寄る、とーさんビジネスマンの姿が目に浮かんだ。
そうか、とーさんたちも絵本を手に取る時代になったんだなって。

団塊世代が、じーさんではなく、とーさんだった頃には
なかった発想だなって思った。

時代は動いている・・・、なーんて
ちょっぴり大げさなことを感じながら
あれこれ絵本に目をやった。

そして私の目が釘付けになったのが以下の絵本。


 おくはらゆめ「やきいもするぞ」ゴブリン書房 2011
 

 飯野和好「どろだんごとたごとのつきまつり」 BL出版 2015

これからの時期、幼稚園や保育所では
きっと秋用絵本のコレクションが飾られるだろうな。
園によっては芋ほりにもいくだろうし、
本当にラッキーな園は焼き芋もできるかもしれない。

いまどきの焼き芋は大変だ。
消防署に届けたり、
近隣には焼き芋をするので煙を出しますが
なにとぞお許しを、と一軒一軒回らなくちゃならない。

でも、子どもたちは焼き芋大好き。
「やきいもやきいもおなかがぐー・・・」なんて歌いながら
落ち葉のなかで焼き芋がホカホカになるのを待っている。
風向きで、煙が舞ってくると「キャーッ」と言いながら
皆で肩寄せ合う。おしくらまんじゅう状態。
それが幼稚園や保育所の焼き芋。

焼き芋と対になっているものは・・・
それは「おなら」!

絵本にも芋ほりや焼き芋関係の本では
「おなら」の場面がセットのようになっている。

なんたって、子どもたちは下ネタ大好き。
「うんち」「おしっこ」そして「おなら」

「おなら」という語だけではじける子どもたち。
おとなたちの眉をしかめた顔が面白いのか、
なんか明るい禁断の言葉と言ったらいいだろうか・・・。

子どもたちが大人とは違う世界を持ち始めるとき、
その合図のようなこれらの言葉たち。

この絵本に戻ると、
「もりはおちばだらけではたけはおいもだらけ。
こうなったらしょうがない。
やきいもするぞ エイエイオー」で始まる。

そして森中のみんなが食べ終わった後は・・・。
大おなら大会が始まる。
その痛快なこと!
最後には「おいものかみさま」のおならが・・。

この痛快さを、なんだか小さな子どもたちと味わいたくなって・・。
衝動買いをしたというわけなのでした。

おっと、「どろだんごとたごとのつきまつり」に行きつかなかった・・。
これは次回ということで。


父のことー決断のときー

2015-10-10 10:23:24 | 父とのこと
その日、そぼ降る雨の中、
妹と私、そして夫は父の入院する病院に向かった。

この日は2度目の医師との面談日。
父が老健で倒れ、救急搬送されてから2週間が経つ。

父は私たちのことが分かるような分からないような・・・。
でも面会に行くとちゃんと起きている。
そして、この日私が「R子よ!」と呼びかけた時、
ちょっとにこっとしたと妹は言った。

分かったのかなあ???
私には確信がなかった。

「としこ」と母の名前を言った。
「あら、Tちゃん、お母さんと似ているからかしらね」(私)
「そうかなあ(笑)」(妹)

「お父さん、Sです」(夫)
でも婿であると認識した様子はない。
今まではSと分かるとしゃんとしたのに・・・。

そうこうするうちに、面談時間になった。

医師の説明はこうだった。

入院した時にかかっていた肺炎は一度よくなった、
けれど、また熱が上がり、肺炎が再発した。
菌の種類を調べると、抗生物質が効きにくいものであった。
しかしその中で効く薬の投与を始めた。
そこでまたちょっと様子をみることにした。

一方、父は相変わらず食べる意思がないので、
今のところ点滴が命綱。
しかし、このままだと点滴漏れを起こすこともあり、
栄養等のことを考えると次の手段を取る必要がある。

つまり中心静脈カテーテルを設置するか、
胃瘻にするかという選択を考える時期に来ている。
高濃度の輸液はこの方法か胃瘻でしかできないからだ。

ここで私たちは思い切って聞いた。
中心静脈カテーテルの場合と胃瘻の場合、
そして何もしない場合の三点について。
医師はその三点のメリット・デメリットを
丁寧に説明してくれた。

私たちはつい最近NHKスペシャルの
「老衰死ー穏やかな最期を迎えるには」をみて
考えさせられたばかり。
穏やかな老衰死。
それができれば一番いいなとも思った。
だから、何もしないという選択の後に来るものを聞いたのだ。

だが、医師は
「何もしなければ全身の栄養状態が悪くなる。
その結果、多臓器不全ということで命を落とすことになります」と。
まあ、つまりこれが老衰死ということ。

医療施設においては何もしないのでは
医療施設としての体をなさないということでもある。
うーーーん。

私たちは第一回目の医師との面談後、
ずっとこのことを考え、
今の父の状態では今回は胃瘻ではなく
中心静脈カテーテルを選ぼうということにしていた。
そこでこの日は中心静脈カテーテルをお願いした。

それから3日後、私たちは車を病院に走らせた。
父はカテーテルを設置され、しっかり目を覚ましていた。
熱は下がっているようで、体は冷やされてはいなかった。
栄養もカテーテルの方が入れやすいのだろう。
高血圧の薬も混ぜて入れられるということだった。

この日、父は私たちのことは
私たちとは認識してくれなかったが、
一生懸命丁寧語で何か話しかけてくれたりした。
第三者だと思って丁寧に対応しているのだ。
ではまた、という感じで父が頭を上げて挨拶したので、
「お父さん、じゃあ、またくるわね」と言って、
たった10分にも満たない面会は終わった。

父なりに元気とはいえる。回復も感じた。
私たちとはわからなかったけれど、
父なりの世界で生きていて、
今、父はこのまま死んでもいいとは思っていない、
いや、そんな判断はもうできないのかもしれないけれど・・・。

と思っていると、その3日後、
また病院から面談をしたいと連絡があった。
丁度その日は私も別件で、病院に囚われの身。
妹夫婦が父の病院に行ってくれることに。

要するに胃瘻にするかどうかの決断をしろということが用件。
私と妹には胃瘻という選択肢は毛頭なかった。
父も管をつけてまでと言っていたというし・・。

でも父の状態を見て、胃瘻もありかなと思い始めていた。
妹と私はこの面談の前にもう一度二人で確認した。
そして、結果、胃瘻を決断した。

このままの状態だと、肺炎の危機を脱したら、
療養病棟に行くということになるのだろう。
胃瘻を行える介護施設は多いけれど、
中心静脈カテーテルや経鼻栄養法は医療行為のためか
実施できる施設は限られてしまう。
そんな現実もある。

父はもう92歳だけれど、このまま自然に任せることはできなかった。
今まで、ずーーーーと、高齢者が「意味もなく」胃瘻で生かされるなんて
そんな選択はしたくないと考えていた。

でも、時々は私たちにも通じる話をする父を見ていると、
このまま自然に、とは決断できなかった。

もしかしたら父には余分な負担を
かけることになるかもしれないな・・、とは思いつつ、
また、会いに行こう!