徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

補講番外編ー子どもって一生懸命生きているー

2015-05-31 10:29:48 | 絵本・児童書 今日の一冊
この日は補講日だった。
土曜日に2クラス分。
一つは3時過ぎから、もう一つのクラスは5時から。
土曜日の午後に補講なんて、
私たちの時代には考えられなかった。
でも最近では、免許・資格を出しているところでは
「補講なし」は許されない。

それにしても、土曜日の午後遅い時間の補講。
来る学生はいるのだろうか?
私だったら当然サボる・・・。

でも、ふたを開けたら、
何と二クラスともぴったり半数の学生が受講。
思わず「あなたたち、偉いわねえ!」と叫んでしまった。
通常は金曜日の授業なので、前日も顔を合わせている。
次の日だから、予習なんてできないし・・・。
と思って、私は番外編を準備していった。

授業の初めは絵本から。
これはいつもと同じ。
今日は谷川俊太郎・元永定正コンビの「もこもこもこ」


谷川俊太郎作・元永定正絵「もこもこもこ」文研出版 1977年

「しーん」「もこ」「もこもこ」「にょき」で始まるこの絵本。
絵が強烈で美しい。

本当に美しい・・・。

文字は擬音語、擬態語のみ。
それがないページだってある。
そして最後、また「もこ」で終わる。

宇宙の誕生か、生物の誕生か・・。
そんなことを考えながらページを繰る。

読み終わって、そっと本を閉じると、
「しーーーーーーん」という静寂と、
学生の物思いにふけった顔が目に飛び込む。

そしていつも思う。
これで授業を終わりにしたい!

学生たちのこの顔とこの深い静けさは、
どんなに準備した授業でも再現できたためしはない。

次にどのタイミングで言葉を発するか・・・。
いつも悩む。
しばらく、あちらの世界を浮遊してもらおう・・。
そう思う。

学生から、一言が発せられた。
これがあちらの世界からこちらの世界に帰還してきた合図。
私はここで、
「さー、そろそろはじめようかな」とつぶやく。
ガヤガヤガヤ・・・と
いつもの喧騒が戻り、日常モードになる。


今日は番外編。
私は思いっきり具体的な子どもの記録から考えたことを用意した。
保育者養成系の学校であるが、
このクラスは2年生。
まだ、保育の場を経験した学生は少ない。

いつもは抽象的なことも喋らざるを得ず、
それが、どれだけ学生に届いているか・・・。

でも今日は番外編なので、
自分の育児記録をひっくり返しながら
考えて書いたことを持ってきた。

それは、長男が小学校に入る前までのこと。
小学校に入るまで「字」に全く興味を持っていなかった。
で、何にもしていなかったかっていうとそうではない。

彼はいつもやることがいっぱいあった。
彼の手は小さい時から休むことはなかった。
2歳の時には、すでにおまけつきのお菓子のおまけ作りに励んでいた。
説明書があるが、字は読めない。
私に作ってくれと言ってくる。
ところが、私は大のぶきっちょ。
工作程不得意なことはないと言ってもいいくらい。

彼が手伝ってと言ってくる時は
たいがい夕飯の支度をしている夕方。
私がイライラしながら作るのを見て、
彼はいつの頃からか、自分で説明書を睨むようになった。
そして、作成の順番を表わす、数字は分かるようになった。

3歳の頃には字は読めなくても、
おまけのロボットは作れるようになった。
母親はお払い箱。

幼稚園の年長組の時のこと。
当時、トミー(現タカラトミー)から出ていた
メカゾイドという組立ロボットが流行っていた。
彼は、クリスマスの時、
サンタさんからプレゼントされた
ゴジュラスというメカゾイドに小躍りした。

そして、姉の友達の2年生の女の子と一緒に
ゴジュラスを完成させるために半日以上かけて格闘した。
最後に足が絡まって、そこだけが未完成となったが、
夜帰ってきた父親の助けを借りて遂に完成した。

以後、彼はゾイド作りに熱中する。
勿論それだけではない。
我が家は彼が牛乳パック、ヤクルトの空き瓶、段ボール等の
廃材を利用して作ってきた飛行機やら、ロボットが
所狭しと並ぶようになった。

ある日、とうとう置場がなくなった時、
彼と相談して、すべて写真にとって、大好きなものを除いて
焼却処分にした。

小学校に入って、はじめのうちの教科書の読み方は
ロボット読みだった。
でも、いつの間にかそれは追いついた。

彼に残ったのは、相変わらず手を動かすこと。
その後ミニ四駆の改造にも熱中した。
彼の枕元にはいつもその時自分が熱中しているものが置かれている。

そんな成長記録を学生と読んだ。
学生はまた「しーーーん」となった。

何か考えていてくれる。
そんな手ごたえを感じた。

子どもっていろいろいるんだなって感じてくれれば
いまはそれでOK。

幼稚園や保育園という集団の場で、
子どもたちを個性のないじゃがいも扱いにするのではなく、
小さいけれど一生懸命生きているってこと、伝えられたらいいな
と思う補講日でした、




父のことー南方での天国と地獄ー

2015-05-23 08:56:45 | 父とのこと
「戦争さえなければ、大丈夫だな」
父は孫息子のアフリカ赴任を聞いた時、こう言った。

これには訳がある。
父は、昭和18(1943)年、当時南方を拠点にしているゴム会社に就職した。
赴任地はインドネシア・スマトラ島のメダン近くのゴムプランテーション。
貨物船に乗り込み、シンガポール経由でスマトラ島に向かったという。
昭和18年と言えば、日本の戦局も傾き始めていた頃。
乗っていた貨物船は魚雷をかい潜りながらの航海だった。
よく魚雷の餌食にならなかったなあと父は今でも言う。

インドネシアは日本が植民地にするまではオランダの植民地だった。
父はオランダ人が経営していたゴムのプランテーション引き継ぐことになる。
19歳のときのことである。

父は昭和16年に開塾したT塾という当時拓務省が開いた専門学校の一期生だ。
ここは日本の大東亜共栄圏構想の一翼を担うものとして開塾された。
今はもうT塾も拓務省もない。
T塾は軍人ではなく、民間人として
アジア地域に貢献する人材の養成を目指していたという。
勿論、軍国主義下という制約があったのは言うまでもない。

父がスマトラに赴いてから戦後捕虜生活を解かれて
帰国するまでの数年間は、その人生の中で波乱万丈の時期だった。

今ほど認知症で現実国と妄想国を行き来することが少なかった頃、
特に母が亡くなってからの数年間は、
私たち娘によくその当時のことを語ってくれた。
その内容は、母から聞いていたものより、ずっと詳しかった。

父の人生の回想はこの時期のことが一番多い。
「あの時は天国と地獄を味わったからなー」
父はよくそう言った。

天国とは、プランテーションの長として
オランダ人の残した屋敷に住み、コックさんもお手伝いさんもいる生活。
農場内でハーレイを乗り回したり、トラと出会ったり・・・。
そして同じくオランダ人の残した「メロ」という愛犬との生活があった。

「あれは王様の生活だったなあ」と父はよく呟いた。
母が亡くなって、一人暮らしになった時も
「スマトラで、俺は一人暮らしの経験がある。
だから大丈夫だ」と、一人暮らしを心配する娘に言った。

しかし父の天国のような生活は長くは続かなかった。
戦争末期、父は現地で招集された。
T塾の卒業生は兵役免除となっていたのだが、
そんなことを言っていられる戦況ではなくなったのだ。

初年兵時代。
「軍隊は本当にいじめの宝庫だな。上等兵ってやつだ。
そいつを日本に引き揚げてきてしばらくして、
雑踏の中で見つけたんだ。
もう飛び出して、殺してやろうかと思った。
そんな気持ちを抑えるのが本当に大変だった。
軍隊ってやつは本当に嫌だな。」

その後、砲兵隊に配属され、
日露戦争の時に使ったという砲台を担がされて、
何キロも行軍したという。
よく行き倒れなかったもんだ。
こんな大砲で、勝てるのか・・・?
そう思ったと言った。

勿論勝てるはずはなく、シンガポールで捕虜となる。
スマトラに行くとき、途中上陸した当時のシンガポールは
日本軍の占領下にあった。
この時は日本人の天下だった。

しかし、こんどはその真逆。
捕虜として、シンガポール近くの島で捕虜生活を送ることになる。

「いろんなことができる人がいたなあ。
大工もいれば、左官もいる。何にもないところに
食べるものは、英軍のからの配給の賞味期限切れの缶詰。
それだって奪い合いだ。食糧係とうまくやらないと、
ありつけないことだってある。
それ以外はすべて自己調達。
蛇だってねずみだってなんだって食べた。
よく下痢もした。みんな骨皮筋衛門になっちまったなあ。」
「それでも俺たち南方組は地獄の中でも天国に近かった。
ビルマ、フィリピン方面にいった塾生は本当に大変だった・・」

こんな父が、まだ60、70代の頃だったろうか、
「俺の植えたゴムの木、どうなっているかなあ」と
ふとつぶやいた時があった。
スマトラに行けばいいのにと私は思った。

でも、父は行かなかった。
若い時にスマトラに行くほど進取の気性に富んでいるはずなのに、
思うだけでなかなか実行に移さない父も、また父なのだ。
それと母だ。
もし、母が一緒に行きたいと言ったら、
状況は変わっていたかもしれない。
しかし母は行きたいとは言わなかった。

母は良妻賢母型。
父を立てる。
でもこの時は違った。

こうしてまた月日が流れ、
今では時に妄想国に支配されたりすることも多く、
今までのように、父の言っていることが、
すべて了解可能というわけにはいかなくなったけれど、
塾から引き上げまでの数年間の記憶は
見事というしかないほど鮮明だし、まだ語ってもらえる。

「俺の戒名には『南』という字を入れてくれ。
南方では南十字星が本当にきれいだったんだ・・。」

私たち姉妹はふと、人生の最晩年にいったいどの時代のことが
頭の中を去来するのだろう・・・と思うのでした。





父のことー実家の雑草退治物語ー

2015-05-19 09:35:58 | 父とのこと
実家の父のところに行くとき、
お天気が良いと、丹沢の山並み、
そして富士山がくっきりとその姿を表わす。

しかし、この日は曇天、
時折雨が落ちる空模様だった。
その霧雨のせいで、
実家のある町の小高い山並みに
霧が流れ、ちょっとした水墨画の世界を呈していた。

「きれいだなー」と夫が呟く。
「そりゃそうよね。東海道五十三次にもある宿場町だもん!」
と、わけのわからないことを呟く私。
そんな、かみ合うようなかみ合わないような会話を交わしながらの夫婦ドライブ。
今日は、曇天のせいか、道は空いていた。
一時間ほどで実家到着。

「うわっ、凄い!!」(私)
「あ、ほんとうだ!。凄いね」(夫)

何が凄いかって・・・、
父がもう世話をしなくなった家庭菜園も、
庭も何もかも、雑草一本なくなっていたのだ。
残っているのは、形よく整えられた山椒の木、蕾を持ったアジサイ、
終わりかけの君子蘭。
そのほかの雑草は見事に一掃されて、
どこもかしこもすーっきり。

このところ、毎年実家の庭の草刈は懸案事項だった。
父が丹精した家庭菜園だから、土は肥えている。
雑草にとっては嬉しいことこの上ない。
セイタカアワダチソウなんか、もう、すくすく伸びてしまい、
まさに背高!
私たち姉妹や家族が草刈りすればいいのだけれど、
なかなかままならない。
昨年も妹の子どもたち、つまり、甥が二人がかりで刈ってくれた。
それがやっとだった。
同居していないと、こんなこともすぐっていうわけにはいかない。

今年はどうしよう・・・。
妹と頭を突き合わせて考えた。
「やっぱりたのもうか」
「そうしよう!」
と、決断したのは、町のシルバー人材センターにお願いすること。
昨年、父と同い年かそれ以上の樹齢を持つ道路側の木の剪定を
お願いした経緯があったからだ。

なんたって、庭の樹木もみんな父と同い年か、それ以上。
100歳以上の寿命を持つ。
この手入れをしてくれていた親戚のおじいさんが亡くなってからもう50年近くが経つ。
以後、父はその手入れを庭師に頼んだことはなかった。
だから伸び放題。
近所迷惑なんてあまり考えない父。
電線に引っかかったりすれば、管轄の省庁の出先機関で切ってくれた。

古家を含む60坪の実家の敷地はそこだけこんもりとしていた。
そこだけ、時計が止まったよう。
宮崎駿の「となりのトトロ」に出てくる古家に似ている。
といってもそれよりもかなり朽ちてきているが、
大正から昭和初期の空間がそこにはあった。
家は今にも潰れそうなのだけれど、
その庭のこんもり感、私好きだなあ・・・。

なんて、暢気なことも言っていられなくなり・・・。
近所の方との関係もあり、どうしても何とかしなくてはならなくなった。

そして、今年は雑草刈りを人材センターにお願いすることに。
昨年の仕事は見事だったから。
もと庭師の方もいるのだろう、素晴らしい剪定がなされた。
これで、秋になるたびにお隣に落ち葉かきの心配をかけることもなくなる。

妹と私は心からホッとした。

今年の雑草刈りも期待以上の仕事ぶりだった。
あとで聞いたら240キロもの雑草、木切れの量だったという・・・。
240キロか・・・。
自分たちでやったら、こんな徹底的にはできないなーとつくづく思った。
そして本当にありがたい。

ここでも私たち父娘は助けられている。
シルバー人材って凄いなと改めて思った。

そしてふと思った。
どれくらいの頻度だったかは定かでないが、
父は日曜日によく庭に穴を掘ってごみを埋めていたことがあった。
雑草刈りは母の仕事だった。
そんな庭も主を失った。

もう父は、外の様子も見に来ない。




中川李枝子著「子どもはみんな問題児。」を読む

2015-05-13 23:07:10 | 絵本・児童書 今日の一冊
中川李枝子さんといえば、
言わずと知れた「ぐりとぐら」の著者。
「ぐりとぐら」といえば絵本の超ロングセラー。
この世に出たのが1963年ということなのでもう52歳。
初期の読者はもう50の坂を越えているということになる。

読者諸氏も読んでもらったり、
あるいは読み手として出会ったりと、そのスタンスは違っても
知っていらっしゃる方も多いことだろう。
唯一、「ぐりとぐら」がファミリアでない性別・年齢層といえば
男性の団塊の世代以上の方ということになろうか。

この絵本、子どもたちの前で読むと、
カステラが焼きあがった場面で、
3歳未満児は言うに及ばず、
5歳児だって絵本のカステラを食べにくる。

子どもたちは繰り返しと食べ物、そして動物が大好き。
その三点が揃っている絵本でもある。

私も毎年、学生たちにこの絵本を読んでいる。
読む前に、読んでもらったり、
自分で読んだことがある人と聞くと、
8割を超える学生が手を挙げる。
そして懐かしそうに聞き入る。
私はそんな学生の顔を見るのが好きだ。

ところで、今年80歳になられる中川さんが
この3月に母親向けのメッセージの詰まった
「子どもはみんな問題児。」(新潮社)を出版された。
挿絵は妹の山脇百合子さん。
これも「ぐりとぐら」と同じコンビ。
山脇さんの暖かい挿絵は変わらないが、
中川さんの書きぶりはいくらか辛口。

「子育てに悩んでいるお母さんが多いと聞いて
私はこの本を書くことを引き受けました」と書かれている。

「また、子どもはみんな、問題児というのは私の持論です。
まず、自分がそうでしたから。そしておかしなことに、
私の周りの大人たちでおよそ自分はいい子だったというひとはいません。」とも。
そしてさらに続けて「そもそも子どもというのは欠点だらけで、
自分なりにいい子になっていこうと悪戦苦闘の真っ最中なのではないでしょうか。」と続く。

なるほどー。
「どの子もみんな素晴らしい問題児」というのが中川さんのスタンスだ。
子どもはみんな問題児という発想は母親の発想ではないと思った私。
この発想は中川さんが保母(保育士の当時の呼び方)であったことと
無縁ではないだろうと思えるからだ。
たとえ素晴らしくあっても問題児をかわいいと思えるのはプロの保育者の発想だ。
いや、プロの保育者だって、なかなかそう思えなくてとことん悩んだりする。

頭では本当にそうだとわかっても、なかなか気持ちがついていかない、
というところでプロもそして母親も悩むのではないかなと思った。

なるほど、本当にそうだ、
うんうん、そうだ、そうだと思いつつ読み進めたのではあったけれど・・・、
今のお母さんたちに、これ通じるかなと思う個所もいくつかあった。

最後に書かれている箇所を挙げてみよう。
「最後に、お母さんはじっくり子どもと向き合うのと同じくらい、
世の中に関心を持たなくちゃいけません。
社会の一番先端に立っているのですから、児童憲章を知り、選挙にも行き、
健康診断も欠かせない。ほかのお母さんから学ぶことも大事です。
そうして自分も成長するのです。
 子育ては甘いものじゃないけれど、生きがいそのものです。
エクササイズにかよったりカルチャーセンターに行ったりするような暇はまるでない、
というのが子育て中のお母さんの立派な証なのよ。」

本当におっしゃる通りなのだ。
なのだけれど、今のお母さんたちと出会うことがよくある私にとっては
なにかしっくりこない。

「焦らないで、悩まないで、大丈夫。」という
子育て中のお母さんへのエールが、
結局のところ「あるべき論」に行きついていると感じてしまうからだ。

絵本の世界では、あるべき論はなかったのにな。

いいなって思うことがいっぱい書かれているにもかかわらず、
そしておかあさんたちへのエールがいっぱいあるにもかかわらず、
あるべき論だと感じてしまうのは何故???
と、自問自答中の私。

母親を退役した人が、現在進行形で母親である人たちに向かって
物言うことの難しさを感じたひと時の読書でした。


こんまり(近藤麻理恵さん)風片づけ(その1)ーピアノよ、さらばー

2015-05-06 23:44:57 | 団塊世代夫婦の一コマ
雑誌TIMEの「世界で最も影響力のある100人 2015年版」
そこに選ばれた日本人、近藤麻理恵さん。
「人生がときめく片づけの魔法」シリーズの著者でもあり、
片づけコンサルタントでもある。

私は彼女のことを知らなかった。
が、学生たちはよく知っていた。
そして「人生がときめく片づけの魔法」を貸してくれた。

その時、私は夫からピアノの処分を迫られていた。
あと半年ちょっとでリフォームすることを決めているからだ。

姑が亡くなった後、姑の遺したものやら、
子どもたちが家を出ていくときに置いていったもの、
そして私たちが使わなくなったもの・・・。
そんなものが雑然と置かれている一階部分。
そこのリフォームを決めたのだ。

私たち夫婦の生活部分を二階部分だけにするという計画。
だから、二階部分の見直しを迫られている。
一番の大物は「ピアノ」。

我が家にピアノがきたのは今から30年ちょっと前。
長女が5歳の時だった。
当時社宅に住んでいた私たち家族。
そこにピアノがやってきた。

その後、ピアノは長女が高校1年生を終えるまで、
ほぼ毎日使われた。
長男も二女も使った。

でも、そのピアノは子どもたちが弾かなくなってからというもの、
いつの間にか物置台と化していた。

それでもピアノはいつも居間にあった。

「ピアノもう使っていないのだから、処分してもいいよね」(夫)
「え、なにも処分しなくたっていいじゃない」(私)
「一階がつかえなくなるんだよ。一階にある仏壇を持ってこなくちゃならないし」(夫)
「(えっ、ピアノを処分して仏壇?????)無言・・・」(私)
「考えといてな」(夫)
「そうね・・・(姑が入っている仏壇を持ってくるためにピアノを処分するだなんて!!)」(私)

そんな会話が繰り返された。
でも私の決心はつかない。
どうしてもピアノを処分する気になれない。

そこで、一番思い入れの深いと思っていた長女に聞いた。
二人で電話で話した。
そしたら、思いがけず長女は言った。
「もう処分していいかもしれないね」(長女)

私は念を押した。
「本当にいいのね?」(私)
「うん、いいの」(長女)
「大丈夫ね」(私)
「大丈夫!」(長女)

ピアノを手放すと決めた電話での長女とのやり取り。
彼女の決心を聞いて、私の心の中で何かがストーンと落ちた。
ピアノを手放そう。

あれだけ使った長女が手放してもいいと言うのだ。
私は長女が手放したくないだろうと思っていた。
でも、使い切った彼女は潔く手放せるのだ。

それを知った時、
手放せないのは私自身の問題だと気づいた。

私自身の思い入れ。
それはピアノを失った母に対する思い入れともいえる。
軍人だった祖父が亡くなった後、ある日女学校から帰ってくると
ピアノがなくなっていたという。
母を筆頭に5人の子どもを抱えた祖母の窮余の一策であった。

母はピアノを弾くことが好きだったと、よく娘の私に話してくれた。
私が幼かった時に、赤いおもちゃのピアノを買ってくれた、
そしてよく弾いてもくれた。
当時はピアノを習わせてもらえるほど裕福ではなかったので、
その赤いおもちゃのピアノは小学校の間、よく使った。

大学に入った時、教職でピアノがあり、
母と一緒に八重洲ピアノに行った。
本当は母はピアノを買ってあげたかったといった。
ピアノを買うことは父が許さなかった。
「贅沢だ!」
母の育った環境と、父の育った環境は違う。
父にはピアノはただの贅沢品だったのだ。

八重洲ピアノでは、結局、オルガンを買った。
母はそのオルガンをよく弾いていた。

私は結婚し、長女が生まれた。
彼女が5歳になった時、私はピアノを買った。
サラリーマンにはそれでも安くない買い物だ。

ピアノがあること、それは母の、そして私の夢だったのだ。
それが長女の「処分していい」の一言ではっきりした。

だからストーンと「手放そう」という気持ちになった。
信じられないほどのすっきり感。

そしてゴールデンウィークを迎えた。
私は子どもたち家族と食事をしたり、
美術館にいったり、映画に行ったり、楽し忙しく過ごした。

そしてその合間に、ついに「こんまり風片づけ」を決行し始めた。
ピアノと別れる決心がついたのだもの、どんなものとでもお別れできるわ!

自分の衣類、そして夫の衣類、もう何袋出したことだろう。
そのことはまた別の機会に書くとしましょう。

我が家のピアノが家を出る日には
思いっきり感謝して送り出そうと心に誓いつつ。