徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

断・捨・離-苦しい・・子どものものを片付けるー

2016-01-29 14:46:44 | 団塊世代夫婦の一コマ
この春から末娘夫婦と同居することになった。
二世帯住宅。
姑が亡くなるまで、一階は姑、二階は私たち家族。
といってもここ数年は私たち夫婦と猫だけ。

もう時効と思い、思い切って一階部分を改築することに。
私たちは二階から動かず、娘夫婦に一階をということだ。

さあ、片づけなくちゃ・・・。
なんたってここ数年は、姑の住まいだった一階は倉庫と化していた。
今すぐ使わないものは、下に置いておこうっと、
と、軽い気持ちで置きはじめてしまったのだが、
気が付くとそれがかなりの量に・・・。

夫と二人で、時間を見つけては片付けだした。
姑のものはすんなり行き場が決まったり、捨てたり(嫁って現金です・・)、
割と早く片が付いた(なんて言葉も思わず口からポロリ)。

片付かなかったのは、子どもたちが家を出る時に置いて行ったものだ。
片付かなかった原因を考えてみたのだが・・・、

始めのうちは「まったくもう、いらないものは全部おいていっちゃうんだから!」と
その責任は子どもたちにあると考えて、怒りモードに。
(でも、かくいう私も、実家に本入りの本棚置いてきちゃっている・・)

そこで一応、電話で聞いてみることに。
捨てられないものを取りに来た長女。
でもそれも、彼女の置いていった量からみたら微々たるもの。
「見ちゃったら捨てられなくなるから、捨てていいよ。
もう何年もそれで困ったことないんだもん。」とは二女の返事。
息子はどうしてもというものだけに「捨てるな!」とシールを張っていった。

そうか、捨てていいのか・・。
と、思って「いざ片付けん!」と腕まくり。

ところが・・、
これがまた、すぐ片づけをする手が止まってしまい・・・、
うーん、これは捨てられないわ、
え、これ捨てちゃっていいの?
これ捨てたら、子どもたちがもっと年を取ってから
自分の記憶をたどれなくなっちゃうんじゃないかしら・・と、心配が募る。

例を挙げると、長男が幼稚園から小学校低学年の時にはまっていた
小型の恐竜図鑑。もうボロボロ。
それから、童話屋(もう潰れて今はない出版社)から出ている
工藤直子さんの「こぶたはなこさん」シリーズ。
末っ子の二女は大型ではなく小型の絵本が好きだったっけ・・。

挙句の果てに、二女が中学校の時に書いた反省文の下書きなんていうのが出てきた。
その内容をみたら、全く反省になっていない。
思わず、二女に電話した。
そうしたら、「その時も、お母さん、これ反省文になってないわよ!
書き直しなさい!って言ったから、ちゃんと書き直したのを出したわよ」
という返事。あらまあ、そうだったのね・・・。

なんて、あれこれ思っているうちに
「捨てない」と書いた段ボールがみるみる増えていく。

これでは、なんのための断・捨・離かわからない。
子どもたちは捨てていいっていっているものなのに・・、
「捨てる」の段ボールには入れられない私って、いったい何なの???

ということで、捨てられないのは「私自身」だと気付いた次第。
子どもたちはもうとっくに通過していったもの。
その時をやりきったのだろう。
だからいらない。
ピアノをもう卒業したといった長女と同じだ。

では私は?
母親やめられないんだろうか??

結局どうしても捨てられないものが数箱残った。
それを捨てる決断はできなかった。
まさか、片づけられないのが自分だったとは・・。

でも、出しっぱなしにはできない。
ということで、
私はまた、自分の荷物の「断・捨・離」、いえ、
こんまり風片づけに励むことにいたしましょう。




4年生、巣立ちの前の一コマ

2016-01-24 08:59:47 | 日記
毎年、この時期はてんてこ舞いだ。
4年生の卒論提出と卒論発表会に向けてのパワポづくり。
忙しいのは学生のはずなのに、なぜか私も忙しい。

今年は本番の前に3回練習の機会を設けた。
7分の持ち時間。
先ずは、仲間8人で順番にやってみた。
制限時間ありのものをまとめるのもまた一つの勉強。

言いたいことを人にわかるように伝えるって、なかなか難しい。
自分だけわかっていても仕方がないし・・・。

でも、これは言いたい!と思って作ると優に10分を超えたりして。
すると、仲間から、「ここはいらないんじゃない?」とか
「これだとわかりにくいわよー」なんて声が上がる。

それを持ち帰って、次の日また練習。
大分制限時間が守れるようになってきている。

さらにその次の日、それは同じゼミの3年生に向けてのプレゼン。
どういうわけか、後輩の前でプレゼンするというのはとても緊張するという。
フーンと思う(だって、たった1歳しか違わないのに、
なんでここで先輩後輩になっちゃうんだろう。
私の学生時代より、1歳の差で先輩後輩ってなっちゃっている…
時代逆行なんて思う。本当に不思議だ??)


3年向けプレゼンの日は、小さな研究室が小劇場に。
椅子を詰め込んで席を作り、テーブルの上に段ボールを載せて、
更にその上にパソコンを置く。
それで何とか、画面を設定。

ハイテクに追いつけない私の研究室はローテク・・・。
まあ、いいか、許してもらおうっと・・、
と、いつもの緩い私が顔を出す。

この日、私は病院の血液検査の日。
どうしても中座しなければならない。
そこで司会の4年生に託すことに。

後で聞いたら、まあ、3年生からいっぱい意見が出たとか・・。
これって、重石の私がいなかったからかもしれない。

そして本番。
まあ、よくやったと自画自賛。
ただ、あまり準備をし過ぎて、サクラの質問者を立て過ぎた・・・(*_*;

それでも、4年生は達成感でいっぱい。
打ち上げのイタリア料理店で、
恋バナ(恋愛の話のことをこう言うらしい・・・)に
花が咲くこと、咲くこと、もう満開。

こうして2年前にはあまり親しくなかった彼女たちがつながった。
この春、彼女たちは子どもたちと生活する人となる。








父のことー入院52日目「奥さんに会いてえなあ・・・」-

2016-01-17 10:36:30 | 父とのこと
92回目の新年を無事迎えられた父。
今日は妹の住まい近くの療養病棟のある病院に入院して52日目。

妹夫婦と私たち夫婦、合わせて4人でお見舞いに。
廊下側のベッドにいる父。
なので私たちは、病室に入る前の父の様子が見える。
妹も、あっ、今日は起きているな、
あっ、今日は寝てるなって思いながら入るという。
起きているときと寝ているときでは、
お見舞いに行く側の心のもちようが微妙に違う。

今日の父。
目を開けていた。
そしてミトンをされていた。

私はまっすぐに父のところに進み、
「お父さん!R子よ!R子!」(私)
「・・・・・、(ちょっとうなづく)」(父)
うーーーん、分かっているかな、分かっていないかな・・微妙なところ。

「お父さんS夫です」(夫)
「・・・・(目を見てうなづく)」(父)
「お父さん、前回ははっきり僕だってわかったけど、うーん、どうかなあ・・」(夫)

続いて妹と義弟。
それぞれに「おとうさん!」と呼びかける。

「(モゴモゴ…聞き取れない)、帰るのか?そうか?」(父)

「あれ、みんながいるから、家のこと思い出したのかしら?
私だけがお見舞いに来るときは、こんなことなかったわ。」(妹)

そう言えば、このところ、父はまだ結婚する前の父の時代にいることが多かった。
妹のことも、父の妹のM江と呼んだりすることも多かったし・・・。

それが、今日は一挙に4人も行っちゃったから、
何か違うところが刺激されたのかも・・・。
家族だってことは認識されたのかしら・・・、
なんて考えていると、

「奥さんに、会いてえなあ・・・」(父)と一言。

えっ、奥さんて、母のこと??
えっ、父が母のことを言うなんて、
ここのところ、とんとなかったから私たちはびっくり。

「今、奥さんに会いたいって言ったよねえ」(私)
「うん、言った、言った!」(妹、夫、義弟)

「・・・帰るのか?眠たいから寝るな」(父)

これだけの言葉しかない。
だから私たちは、「これって、自分の家に帰るのか?
だけど自分は眠たいからその前に寝るぞっていっているのかなあ」
なんて、言いながら、父の言葉の翻訳作業に勤しんだ。

そして結論。
私たちが私たちだっていうことが
それぞれはっきり認識しているかいないかは分からない。
けれど、近しい家族だってことは認識されたようだ。
そしてそれが、父の家に帰りたい気持ちに火をつけた。
さらに「奥さんに会いてえなあ」って言葉をよんだ。

このところずーっと、母のことは出てこなかったのにだ。

認知症になると、現在に近い記憶から消えていって、
昔に戻るという話はよく聞く。
それで言えば、父は結婚前の父の世界に住んでいた。
でも、今日はこうして母と一緒だった時代に戻ったのだ。
「会いたいな」って思いながら。

家に帰りたいって聞こえた時、
一体どの時代の家に帰りたいんだろうと思った。
でもその次に出てきたこの「奥さんに会いてえな」の言葉を聞いて、
ああ、母と一緒にいる時代のどこかに帰りたいんだなって思った。

家に帰りたいってことは、ここが家ではないことはしっかりわかっている。
これから寝るぞなんてわざわざ言うのは、
今の自分の状況をちゃんと言葉にできている証拠。

はっきりしているところと、はっきりしていないところ。
妹がほぼ毎日言ってくれているおかげで、
それが日によって時間によって、父のその時の状況によって
全く違うことがわかる。

だから、分かっていないともわかっているとも決めつけられない。
その日その日に応じて父と関わってくれている妹。

最近は、父の言っていることが間違っているときに
以前のように正しいことに訂正することはやめたという。
とりあえず、父の言っていることに頷く。
父の頭の中のストーリーに付き合うと言ったらいいだろうか。

そしてそのあとに、あれはいったい何のこと、
何を言おうとしていたのかっていうことを、
妹は父通信に書いてくれる。
それを私たち姉妹の連れ合いも子どもたちも読むようになった。
皆がそれぞれにおじいちゃんや、舅や父である「父」のことを考える。

胃瘻装着後、今の命を生きている父。
もちろん理解できないことはいっぱいだけれど、
その父の今の生き様が私たちに考える時間をくれる。

これも、考えてみればメールという文明の利器のおかげだ。
昔だったら、手紙ということになるが、
そんなにいっぺんに多くの人に出すことはできない。

手紙ほど深くは考える前に出すメールという手段ではあるけれど、
こういう共有ができるのはやっぱりありがたいことだと思う。

さて、これから父はどんな時間の旅を続けるのだろうか。
なるべく心の晴れやかだった時代の旅をしてほしいとは願っているけれど、
なかなか、そうではないっていうことを、
このところの父の心の旅に付き合って思った。

「奥さんに会いてえなあ」が夢の中でも実現しますように!
会いたいなら、会ったら優しくしてあげてねって思う娘なのでした。

博物館に初もうでー松林図屏風に会いに行くー

2016-01-16 23:38:17 | 美術展から
「博物館に初もうで」というのは
東京国立博物館の新春特集のキャッチコピー。

「ねえねえ、どんないちねんにしたい?」と
狩野山雪のかわいいお猿さんがこちらを見て微笑んでいる。

なかなかいけている。
と、このコピーに惹かれて出かけることに。

でも、実は実は、昨年来、
ずーっと、会いたい、会いたいと思っていた
長谷川等伯の「松林図屏風」が展示されると知ったからだ。

初もうでの期間は2日から31日だが、
この等伯の「松林図屏風」は特別展示。
だから17日(日)までの期限付展示。

気が付けば14日。
もう明日しかない!と15日に出かけることにした。

昨年の京都国立博物館での
琳派400年展のときの二の舞を踏まないように
ともかく早く行くことに。

なんたって、あのときは、
博物館に入館するまで140分待ちだったからなあ・・。

というわけで、9時半の開場前に到着。
それでも列ができている。
でもよーく見ると、常設展の方ではなく、
時を同じくして開催されている
兵馬俑の特別展の方に長い列。
ホッと、一安心。

いざ開館!
もうまっしぐらに特別展示室へ。
そこには風に揺れる無彩色の松林が広がっていた。

安倍龍太郎著の『等伯』を読んで以来、
見たい、見たいと思っていた「松林図屏風」。
うーんと近くからも、ぐっと離れた位置からも
じっくりと堪能することができた。

いいなって思うと
すぐにストーカーモードになる私。
昨年は琳派と等伯だった。

3月には本法寺の「涅槃図」に唸った。

10月末には琳派400年展が開催されている
京都国立博物館に行った。
同じ日に智積院の宝物殿を訪れた。
ここには等伯一派の障壁画が収められている。
息子久蔵の「桜図」、そして父、等伯の「楓図」。

あの戦国最後の時代から、
江戸開府までの疾風怒濤期を
絵師として生きた等伯。
もちろん、私の等伯は安倍龍太郎作の等伯ではあるのだが・・。

将来を期待していた息子久蔵の夭折。
それをいつもどこかで引きずりながら、
それでも果敢な挑戦を続ける。

その晩年の作が「松林図屏風」。
水墨画の寂とした世界がそこにはあると思った。

不思議なことに近くで見ると
その松葉の一本一本は鋭く力強い。

寂の中にある強と弱。そして静と動。
展示されている部屋全体が一つの世界になっている・・・。

一昨年の歌川国芳展との出会いから
「奇想の系譜」に惹かれた私。
若冲に出会い、昨年はとどめの河鍋暁斎展。

美術展に目を凝らすうちに出会った琳派。
夫の読んでいた『等伯』を
横取りして読んだことにはじまる彼の画業との出会い。

ちょっと前まで、夫に付き合って、
さーっと回るだけだった私の中の何かが変わった。
そんな自分を面白いなって思う。
まだまだ開けることがあるんだなって。

今回の新春特別展示。
実は北斎のものもふんだんに出ていた。
北斎のことは通り一遍しか知らなかった私。
その世界の壮大さにびっくりした。
90歳過ぎの画もまた挑戦的だった。
知らない世界はまだまだいっぱいある。

そして、今回の発見は・・・。
江戸後期の絵師、森狙仙。
名前だけしか聞いたことがなかったけれど、
彼の「十二支図」の模本が私の心をとらえた。
十二支が一画面に描かれ、
そのそれぞれの「目」力の凄かったこと。
私はその動物たちの目に釘付けになった。

 十二支図(模本)模者不詳 原本 森狙仙筆

なんで釘付けになったのか?
それは分かりません。
そういう自分に出会ったということ??

でも、この出会いを大切に、
私は原本を描いた森狙仙について、
ストーカーモードになっている自分に気づいたのでした。

今年はどんな私に出会えるのだろうかと思いつつ・・・。

父のことーレビー小体型認知症92歳、お正月を迎えるー

2016-01-09 20:28:23 | 父とのこと
父は胃瘻を装着し、
今の病院に転院して37日が経った。
その日は元旦。
ほとんど毎日届く妹からのこの日の父親通信には
こんなことが書かれていた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2016年1月1日(金) 転院後37日目 -普通の日でした-

病院の廊下を歩いて、
看護師さんらとすれ違っても、
いつものように「こんにちは!」
明けましておめでとう!と声掛けする人はいません。

父も、「おっ。。」 と言う感じで、
私が「おめでとう!」なんて挨拶したら、
また説明がややこしくなるので、
いつものように「どう?」と声をかけました。

とても落ち着いていて、淡々と話す感じでした。 
「俺はこんなだから、どこにも行かれないから、
よろしく言っといてくれ。 
また行かれるようになったら行くから。」
という具合で、今日は結構正気でした。

正気の時は短時間の訪問が良い、と思うので、
早々に「じゃあまた来るね。」と言って、引き揚げました。

こんなだけれど、年を越せるまで頑張れたので、良かったです。
 
11月にこちらに連れてくるとなった時は、
2時間半の移動に耐えられるか、
運よく耐えても、環境が変わるので、
数日で死んじゃうのではないかと
ハラハラしていました。
それほど弱っていました。 
それが、ここまで元気になって、ホッとしました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

胃瘻の装着については、以前にも書いたが、
本当に迷い、妹と何度も何度も相談した。

食べる気持ちが無くなったら、
あとは自然にと考えていた私たち。
でも萎んでしまった父の顔を見た時、胃瘻を決断した。

胃瘻装着が落ち着いて、転院が決まった。
その時は、妹も言っているように、
果たして転院先の長旅が耐えられるのか本当に心配だった。

しかし、それは杞憂に終わった。
それからは日に日に元気になっていった。

そして迎えた元旦。
妹も書いているように、ここには正月元旦はないのだ。
もう、理解力が極端に落ちている父には「いつもと同じ」が
今までに増して精神安定の源になる。

正気のときは短い時間の訪問がいいと言うのは、
それ以上いると、父は今近くにいる人を
結果的に罵倒するようになってしまうからだ。
正気のときは、話しているうちに
時々父の我儘が以前のように剥き出しになる。

その剥き出しの我儘が出るとき、
私たち姉妹、そして亡くなった母もずっと我慢していた。

我慢は、父を増長させるだけだった。
その結果、傷つくのはこちらということになる。
それが分かっているので、妹は早々と引き上げたのだ。

本当に難しいものだ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

1月4日(月) 転院40日目 -体はとても元気そう-

4時半頃行きました。
父はミトンをされて、蒲団とタオルケットは足元まではがれていました。
「寒くないのー?」 と聞くと、
ちょうど他の用事で居た看護師さんが、
「何度蒲団をかけても自分で剥いでしまうのですよ。」と教えてくれました。

確かに、動きが活発で、
大きなミトンの中で手が盛んに動いています。
 
私に、ミトンを外してくれと身振りで言うので、
両手外しました。
するとベッドの柵をつかみ、
体を持ち上げようとし、
足も徐々に端に移動して、
「蒲団を どかして。」 と身振りで言います。

まあ動くことは良い事なので、
手をひっぱたり、足をひっぱたり、
体の位置を直したり、 父が危険の無いよう、
動きたいよう動けるようにサポートしました。

しばらく動くと、全体に動きは止まり、
今度はしゃべり始めました。 

ベッドの向こう側の壁に棚があり、
右から1番目2番目の箱を持ってきてといいます。

向こう側のベッドにお見舞いに来ていた奥さんは 
「何か あるんですか??」と聞いてきました。 
私「いいえ、幻覚なんです。」 
奥さん「へーっ??」

父「その箱から(何やらを)出して、
それで、(何々を)作るんだ、作るんだよ。」  
私「えっ? 私が作るの?」
父「面倒くさいか、面倒くさい? そんなら作らなくてもいい。どうする?」   
私「どうするって、箱の中に何が入っているの?」
父「ほら、持って来れるか、2番目だよ。」 
と棚を指さします。
 
向かいの奥さんが「何かあるんですかあ?」と私に聞きました。
笑っちゃうでしょ、

父「その箱の中にあるもので、未来が明るくなる、美しいものが出来るんだ。」 
私「それはすごいねえ。」
父は演説している人のように、
話しながらの手の動きが素晴らしかったです。

その妄想の話も止まりません。
向かいの奥さん「何かあるんだって。」と
ちょうど入ってきた看護師さんに告げました。
「そうですよ、ご本人には本当に見えているのですよ、
子どもなんかもよく見えることがありますよ。」
と、看護師さんは奥さんに言いました。  

それから、胃ろうで注射器から薬を入れることになりました。 
私は看護師さんは大丈夫と言ったのですが、ミトンをしてもらいました。 
結果は正解でした。

最初注入すると 父は 「おっー、つめてっ!」 
胃がヒヤッとしたのでしょう、とても正常な反応でした。

看護師「Sさんは体を触られるのが嫌いなようです。 
おしめを替える時怒り出すことがあります。」との事でした。

向かいの人はテレビを枕元に置いています。 
父はそのテレビをとても気にする事があるそうです。 

それで、もしかしたらテレビを見るかも知れないという話になったので、
テレビのレンタルを申し込んできました。

きょうは看護師さんが適当に
スイッチを入れたり消したりしてくれて、
様子を見てくれます。

そんな感じで、父は最初から最後まで妄想の世界の中。
胃が冷やっとした時の反応が正常だっただけでした。

私「じゃあ帰るね。」  
父「ああ、そちらの方、お名前は。」(目線は私の隣へ) 
私「誰もいないよ。」  
父「お名前は? ああ、オオスギさん? えっ?」
私「ほんとに帰るから。」  
父「そちらの方・・・」  てな感じで、帰ってきました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

身体が元気になると、
幻視や幻覚も活発になってくる。
身体も活動的になる。

手にミトンをしないと、胃瘻の管を引っこ抜いてしまう。
転院直後はまだそこまで体力的に回復していなかったので、
ミトンをせずに様子を見ていたようだ。

しかし、幸か不幸か、元気になり、
手も活発に動くようになった。
そしてある日、胃瘻の管を引っこ抜き、
あたりがべちょべちょになってしまったのだ。
その結果、特に胃瘻をしているときはミトン装着が決まったというわけだ。

父の様子は本当に日によって毎回違う。
この日は、妄想国の日。
唯一の正常反応は、胃瘻から食物を注入した時の
「おーっ、つめてっ!」の一言。

たとえ妄想国であっても、その世界で生きているのなら、
それはそれでいい。
通じないのはちょっと残念だけれど、
妄想国にいても元気でいてくれるのならね、
と思う私たち。

レビー小体型認知症の最晩年を生きる父。
私たちには未知の世界。
妹の父の訪問記を頼りに、
そして、私も時々顔を見せながら、
客観的に言えば、脳が壊れ始めているこの時期を
どう一緒に生きて行ったらいいのか、
これまたぼちぼち考えていくしかないなって思ったのではありました。