徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

父の日常ー物事の「意味」が分からなくなる日ー

2015-04-30 21:30:18 | 父とのこと
この日は父の神経内科受診日だった。
この科にかかってからもう3年半が経とうとしている。
病名はレビー小体型認知症。

今日は遂に父を同伴することができなかった。

私たち姉妹は、父と離れて住んでいる。
もうすぐ92歳になる父は
ヘルパーさんの助けを借りながら、一人暮らしを続けている。

この日の通院のことも、「これから病院に一緒に行くからね」とその日の朝伝えた。
もう以前のように予定のことを把握できなくなってる父には
何日も前から「○日に病院に行くわよ」と伝えることは今では禁忌。
いつもと違った生活の流れになると、とても不安になってしまうからだ。

この日も「○○病院て?」という感じで、
もう何年も通っているのにすぐには理解できなかったようだ。

妹が電話で根気強く説明して、やっと理解でき、納得した。

それからまた、父から電話がかかってきた。
今日は行かれないという。

私たち姉妹は「今日は私たちだけで行こう!」と決意した。

実家に着くと、父が出てきた。
「足もとふらつくし行かれないなあ」(父)
「なんだかそわそわされて、お昼ご飯召し上がらないんですよ」(ヘルパーさん)
「わかったわ。今日はお父さんは行かなくていいから。
私たちだけで行って来るから大丈夫よ」(妹と私)
「いいんだな?行かなくていいんだな」(父)
「そう。行かなくて大丈夫」(妹と私)

そんな会話を繰り返し、父はやっと納得し、安心したようだった。
本当に昼ご飯を食べていない。
大好きないなり寿司を用意してもらっているのに。

病院に通院するというだけで、これだけ不安になってしまう。

そして、時間がきたので妹と私は
「じゃあ、行ってくるからね」と言った。
「もう、車が迎えに来たのか?」(父)
「ううん、今日は私たち二人だからバスで行く」(妹と私)
「そうか、気をつけて行くんだぞ」(父)
「車がきたのか?」(父)
「ううん、今日はバスで行くから」(妹と私)
「そうか、気を付けてな」(父)

そんな、会話を繰り返し、私たちは病院に向かった。
主治医にはもう父を連れてくることが難しくなった旨を伝えた。
「では訪問に切り替えますか?」(主治医)
「できたらお願いしたいです」(妹と私)
「では、紹介状を書きましょう」(主治医)
ということで、紹介状を頂けることになり、
訪問医療をしてもらえる近くの町のクリニック宛に書いてもらうことになった。

ここ2,3回は父を連れて行くことがかなり大変だった。
ケアマネジャーも、そんなことを見越しながら、
認知症の訪問医療をやってくれる医院を2件ほど紹介してくれていた。
そんなことに助けられて、今日はスムーズに受診医院を替えることができた。

実家に帰ると、父はいつものように
居間の椅子に座って、テレビを見ていた。
「お薬もらってきたわよ」(妹)
「そうか。」(父)
「お腹空いた?」(私)「うん」(父)

そこでお昼用のいなり寿司を出すと、父はペロッと平らげた。
安心したのだな、そう思った。

「本当に普段と違うことがあると、すごく不安になっちゃうのよね」(妹)
「ほんとにそうよね}(私)

そんなことから、妹も私も父が若かったころを思い出した。
父は時々、怒り出すことがあった。
特に、どこかに外出するとき。
それから私たちが何か新しいことをしたいと言ったときetc....。

その怒りは私たちにとってはとても理不尽だった。
大人ってなんて理不尽なんだろう。
小さい私たちは、父のことをわがままとは捉えなかった。
怖い、理不尽・・・。
父の怒りの爆発の時はいつもそう思った。

でも、こうして母が亡くなって10年以上が経ち、
父の認知症状が進んでくるにつれて
「こういうことだったんだ」とわかることがある。

その一つが、日常と違う流れになることに対する
父の根源的な不安とでもいうようなこと。
父の場合、これは認知症だからというよりは
もともとの傾向だったのでは?
というのが妹と私の一致した意見。


もう一つ、父が変ったことがあった。
この日、私たち姉妹は、父の椅子の後ろに積み上げられている
新聞紙を片づけることにした。

妹が古紙入れを持ってきて、私が新聞を入れる。
そんな作業を父の隣で行った。

父は何も言わない。
一言も言わないのだ。

「何も言わないわねえ」(私)
「うん、ほんとに何も言わないわねえ}(妹)
そして私たち二人は重くなった古紙入れを持って、
父の前を通り過ぎた。
それでも父は何も言わない。

この情景が信じられない私たち。
今までだったら「何をするんだ!!そのままにしておけばいいんだ!!!」
という罵声が飛んできて当たり前だったから。
父の領分に入ることは許されなかった。
亡くなった母もこのことにはとても気を使っていた。
だから父の家庭菜園を母が手伝うことはなかった。
それは、手伝うことで、父の領分を犯すと、
父がやる気を失うからだ。
母はそれが分かっていて、わざと手伝わなかったのだ。

でも今は違う。
何も言わない。
というより、私たちが父の目の前でしていることの
「意味」が分からないのではないか。

妹も私もそう思ったのだ。
父の頭の中から「意味」を見出す機能が壊れていく。

父の昔の行動の意味が今頃わかると同時に、
父の中の物事の「意味」を見出す機能が壊れていくのを目の当たりにした、
そんな一日を妹を共有したのでした。




小椋佳と『花水木の道』

2015-04-27 08:23:06 | フラッシュバック
4月24日、Eテレ「団塊スタイル」は
小椋佳さんのインタビューだった。

歌声に劣らぬ柔らで深みのある口調。
淡々とした中に自身の人生観がさりげなく語られた。
もし、「生きる意味」というものがあるとしても、
それは所与のものではない。自分でつかむものだ、と・・・。

そんな小椋さんも若い時、夜遅く帰宅して、
それから数時間息子さんに説教を垂れることもあった
と、息子さんの口から語られた。

その番組を見ながら、突然フラッシュバック。

夫の赴任でジョージア州に住んでいた私たち家族。
子どもたちは土曜日の日本人補習校に通っていた。
1980年代終わりから1990年代初めにかけてのこと。
日本のバブル景気が始まった時からはじけるまで
私たちは、ジョージアにいたのだ。

日本の企業が、ある意味バブルの勢いに乗って
アメリカなどに企業進出した時代。
企業のアクセサリーとしての進出。
そんなこともあったように思う。

それはさておき、私たち家族は4年近く南部ジョージアで過ごした。

そして確か90年か91年のこと。
この日本人補習校に小椋さんが訪ねてくれたことがあった。

当時の第一勧銀の行員でもあった小椋さんは、
アトランタの第一勧銀の方に請われて
日本人補習校のために校歌を作詞・作曲してくれていたのだ。

校歌を作っていただくために、子どもたちは文を書いたり、絵を送ったという。
小椋さんは、それでイメージを膨らまされたようだ。

校歌は『花水木の道』という。

『花水木の道』

作詞・作曲 小 椋  佳

1. 日が昇る ウサギが走る おお鳥が飛ぶ
背伸びして かわいいリスが おお振り返る
やわらかな 白とピンクの 春の色
花水木の道を 通う仲間達

2. 汗いっぱい チャタフチリバーで おお水あそび
胸いっぱい シックスフラッグで おお大さわぎ
夏遥か ストーンマウンテン越えて 越えていく
アトランタの風を 背負う仲間達

3. 黄金色の 落ち葉を踏んで おお集う友
絵のような 紅や黄色を おお唄う友
秋高く 優しく青く透きとおる
アトランタの空を 映す仲間達

4. キラキラと 木々の梢に おお星が降る
サラサラと ガラス細工の おお雪が舞う
指先が かじかみそうな 冬の日も
花水木の夢を 抱く仲間達
花水木の道を 通う仲間達

今、私たちの身近に花水木が白やピンクの花を咲かせている。
桜の後は花水木が春を確かなものにしてくれている。

でも30年近く前の私は、花水木を見たことがなかった。
ジョージアに行って、初めてこの花の存在を知った。
今の時期、ジョージアはこの花水木とツツジの花が満開となる。
一番美しい季節。
ジョージアの州花も「ドッグウッド(花水木)」だ。

小椋さんも子どもたちの作品からそんなイメージを膨らませてくださったのだろう。

補習校が間借りしている現地の中学校の体育館でのコンサート。
小椋さんはこの校歌を歌われた。
そして子どもたちに語り掛けられた姿が浮かぶ。

長女はこのコンサートの後、チラシの裏にサインをもらったという。
「お話が面白かったのを覚えているわ。
そういえば、補習校には今思うといろんな人が来てくれていたよね。
江崎玲於奈さんもきてくれた。でもね、お話、つまらなかった(笑)」

駐在員の幼い子どもたちは
自分の意志に関係なく親についていかざるを得ない。
そんな子どもたちを慰問してくれた、というのがふさわしい。

小椋さんの柔らかで深みのある口調を聞きながら、
ふと心は子どもたちといろいろなことを越えながら過ごした
ジョージア時代に浮遊したのでした。


追記:
 5月1日(金)11:00~ 
  Eテレ「団塊スタイル」で小椋佳さんのこの番組の再放送があります。












「若冲と蕪村」展から「奇想の系譜」へ

2015-04-24 21:53:58 | 美術展から
サントリー美術館で5月10日まで開かれている
「若冲と蕪村」展。

一度足を運んだのだが、
そのあと、その興奮冷めやらず、
ついにもう一度足を運んでしまった。
こんなことは生まれて初めて。

さらに加えて、辻惟雄著「奇想の系譜」を手に入れた。
そして、2回も読んでしまった。
同じ本を読み返すなんて、最近はとみになかったこと。

何かに取りつかれてしまったのだろうか??
というのは大げさで、面白いのだ。


 辻惟雄「奇想の系譜」ちくま学芸文庫

この本は1970年に美術出版社から出されたのち、
新版が1988年に、私の手にした文庫版が2004年に出されている。
45年のロングセラーということになる。

勿論、この方面に詳しくない私は、この本の存在を知る由もない。
それを教えてくれたのは、若冲の画作だ。
もっと知りたいと思った。

そして行き当ったのがこの辻惟雄著「奇想の系譜」。
この本には岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、
そして歌川国芳の6人の画家が取り上げられている。

私が初めに面白いと思った国芳、
そして若冲が取り上げられていた。
なるほど「奇想」という発想か・・・。

そして、今の自分が惹かれるものが
「奇想の系譜」だったことが、なんだか嬉しい。

この表紙絵は曽我蕭白描くところの「雲龍図」(ボストン美術館蔵)。
この絵を見た時から、これまた虜になった。


もとは大きい襖絵。
でも圧巻は「奇想の系譜」の表紙にもなっているこの龍の顔。
なんと表現したらよいのだろう。
うまく言葉が見つからない。

更に気に入ったのが長沢蘆雪の「虎図襖」

 長沢蘆雪「虎図襖」 無量寺蔵

虎なのに、豪壮なはずなのに、何か愛嬌がある。
猫みたい。なぜ?

この作者たちは何を言いたかったのだろう。
そんなことを考える。

ふと気づくと、これらの絵に関する本の著者は辻惟雄氏である。
辻氏こそこれら奇想の系譜の絵師たちの丁寧な発掘者であるようだ。

そんなことに遅まきながら気づいた。

そして前回のブログでは載せられなかった若冲の「達磨図」が
辻惟雄著「ギョッとする江戸の絵画」の表紙絵になっていた。

 辻惟雄「ギョッとする江戸の絵画」

次はこれを読む!!

若い時、私は教科書に縛られていた。
修学旅行で京都のお寺を巡っても、
「あ、あれは、教科書に載っていた!」
そして、それでなんだかわかった気になっていた。
それが若いということかもしれない。

それから50年近い歳月が流れ・・・。

今は違う。
自分で観て、感じて、そこから探索の旅を始める。
それが面白い。
観て、感じてを起点とできる。
そんな自由感がたまらない。

そして、ちょっぴりキザに言えば
それは自分て「何者?」を探す旅でもある
と思う私でした。


私にとっての若冲-「若冲と蕪村」展からー

2015-04-19 15:59:20 | 団塊世代夫婦の一コマ
新学期も一段落した4月半ば過ぎ。
久し振りに夫と美術館に出かけた。
東京はミッドタウンにあるサントリー美術館。
「若冲と蕪村」展。


「若冲と蕪村」展  サントリー美術館

久し振りに若冲のどこか突き抜けた作品に出会うことができた。

伊藤若冲の作品に出会ったのはは2013年6月のこと。
何気なく見ていたテレビ番組「日曜美術館」。
この日の特集は「東北に届け 生命の美 ~アメリカ人コレクター 復興への願い~」。
ジョー・プライスというアメリカ人の美術コレクターが
東日本大震災で被災した東北地方の3か所で、
復興支援の美術展を行うことをその時知った。

初めてみた若冲の作品に心奪われた私は、
何が何でも若冲の本物の作品をみたいと思った。
そこに何とも言えない生命力と、ユーモアのようなものを感じたからからだ。

そしてその年の8月、若冲を追いかけて福島県立美術館まで車を飛ばした。
正確には飛ばしたのは私ではなく夫。
家から福島県立美術館までは4時間半かかった。
「遠かった・・・」(夫)




「若冲がきてくれました」 福島県立美術館

このときは色彩の鮮やかさに、
そして動的ながらどこかユーモラスな動物たちに魅了された。

 「虎図」

なんて気持ちがよいのだろう。
こんな画家が江戸時代にいたのだと「また」思った。
「また」、というのは歌川国芳の版画を見た時も
同じような躍動感と型破り感を感じたことを思い出したからだ。


 没後150年 歌川国芳展 森アーツセンターギャラリー 2011-12


 浮世絵猫百景 -国芳一門猫ネコづくしー 太田記念美術館 2012

今回の「若冲と蕪村」展で、私は作品を見ながら、
何度か笑っている自分に気づいた。
笑うっていうより「ぷっ」と小さく吹き出したと言った方があっている。
なんだか楽しくなっている自分を感じた。

実は私、つい最近まで美術展は苦手だった。
夫と行くことが多かったが、
たいてい私の方が30分以上先に見終わってしまう。
そして美術館のショップをぶらつくのが常だった。

一つ二つ凄いなって思う作品はあっても、
たいていの作品は一通り見たというだけ。
余り何も考えなかった。

それが、この1,2年美術館内を見て歩く速さが夫と同じになっている。
そんな自分にびっくりした。
何が変わったのだろうと自問した。

その最初が歌川国芳との出会い。
自分の思い込んでいた浮世絵のイメージからは
かけ離れていたからかもしれない。

そして若冲へと続く。
ここでも江戸時代とは思えない作品に出会ってびっくりした。
まあ、素人なので、びっくりしないことの方が
少ないと言えば少ないのだけれど・・・。

今回の若冲をみて、
若冲は、なんと作品の幅が広いのだろうと思った。


   伊藤若冲 『象と鯨図屏風』


   伊藤若冲 『鶏図押絵貼屏風』

前回はその色彩に圧倒された。
しかし、今回の展示はむしろ水墨画系のものが多かった。
無彩色の水墨画にもその勢いがある。
新たな筆運び。斬新な表現。質感と量感。そして繊細さ。
そして、時に何やらユーモラス。
そのユーモラスさの隣にある微妙な不気味感。
それが奇想の人と言われる所以なのかもしれない。

私にとっての今回のヒットは「達磨図」。
ここに写真を載せられないのが残念だ。

でも、なんで惹かれるのだろう・・・。

と、考えていた時に、
「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」のチラシを目にした。

 狩野山楽 『唐獅子図屏風』

素晴らしい勢いのある作品。
と思いながらも、自分のテイストではないことを直感した。

伊藤若冲に惹かれても狩野山楽には惹かれない自分。
それって一体どういうこと?
と、考えること自体が面白くなってきている今の自分がいる。

音楽にしても美術にしても、先人はなんという宝を残してくれたことだろう。
出会いは生きている人との間に起こるだけではないという
当たり前のことを、今頃噛みしめているのでした。

LINE事始め

2015-04-09 08:42:48 | 子どもとおとな
新学期の授業前。
多くの大学で、いや、ほとんどの大学でオリエンテーション期間がある。
自分の時間割を自分でつくるために説明を受けたりする。

むかーしむかしは、
そんなことわざわざ説明してもらわなくっても
自分たちで何とかやった。

でも、今は違う。
一部の大学を除いて、懇切丁寧な説明を大学側は用意している。
それでも、卒業間近になって、単位が足りないことが分かって、
それが、学生のせいではなく、大学側のせいになる。
説明が足りない!ということになる。

そんな時代でもある。

そして、多くの大学で、今は担任がいる時代。
昔はアドバイザーの教員くらいはいたかもしれないが、
それはあくまでも形だけに近かったように思う。

職場も担任制だ。
今年、私も担任になった。
1年生。連絡網をつくるということになった。
今は個人情報に関してはうるさい時代。
昔のような連絡網は作らないし、作れない。

学生に相談した。
そうしたら、LINEが便利という声が出た。
そこで聞いてみた。「LINEやっている人?」
全員手を挙げた。
そうか、高校生はもうほとんどLINEに入っている時代なんだ。
大学生が入っているっていうことは、高校生も入っているのは当然。
だって、大学生より若いのが高校生だから。
と、後で気づいた。

そんなことを思いながら、
実は私もそのLINEに入れてもらった。

60代半ばを走る私。
この3月にLINEデビューを果たした。
果たした、というとちょっと違うかもしれない。
エイッと、清水の舞台から飛び降りるつもりで・・・。
というのも大げさ・・・。

でも、LINEを始めるにあたってはいろいろ躊躇もあった。
だからスマホデビューをした昨年7月から
入ろうか、いや、やめておこう・・・
入ろうか、いや、やめておこう・・・
という自問を繰り返していた。

学生と生活していると、
学生への連絡は
私の大学の公式メールアドレスから
学生の公式メールアドレスに連絡を入れる。
これが、王道だ。

でも、学生がそれを見過ごすことが多かったのも事実。
緊急の連絡が、緊急連絡の用をなさない。
そういうことが何回かあった。
さらに、私がLINEに参加していないことで、
ゼミの学生からの連絡が届かないということもあった。

例えば、ゼミ合宿での写真。
(まあ、お遊びのことなので、どうでもいい情報と言えばそうなのだが。)
学生はLINEで写真を共有しあっている。
私に送ろうと思えば、メールを使わなければならないので、
もうひと手間かかってしまう。というか忘れられる。

「入ったらあなたたち楽なのよね?」(私)
「もちろんです!」(学生)

でも、私は躊躇していた。

丁度1年前、スマホに切り替えた時から考えてはいた。
LINEに入ると、自分の携帯の中に入っている
個人情報が流れてしまうとも聞いたりしていた。
だからなんだか怖くて手を出せないでいた。

そんな私も何も知らずにだいぶ前にFace bookには参加している。
ちょっぴり新しもの好きなところもあるが、失敗もあった。
なにも気を使わないで使うと
情報は不特定多数に流れてしまう。
だから慎重にこの記事は誰と誰にと判断しながら流すことにしている。
ちょっと疲れる。
でも便利なこともあるから、私は使う。

スマホに切り替えるときも迷った。
入力操作に慣れるかな?
学生の早打ちを見ているとたじろぐ。
あんなこととてもできない。

でも、待てよ、と私は思った。
こういう文明の利器こそ「高齢者」のためにあるのではないか。
91歳の父を見ていると、
やっっぱりできなくなる順番は
年を取ってからできるようになったこと。
そんな父を見ていると、
やっぱり早い方がいい!と思った。
そして、近くにその操作に詳しい人がいるときの方がなおよい。

我が家は子どもたちがすべて家を出てから、
ハイテク家族からロウテク家族に落ちぶれた。
夫は理系だけれど、IT系、機械系ではない・・・。
でも、二人で何とかしなければ・・。
といいうことで息子が家に帰ってきた時に
一緒にスマホショップに行ってスマホに切り替えた。

あとは訓練あるのみ。
夫と二人だからわからない時は聞きあう、
というと聞こえはいいが、お互い役に立ったためしがない。

私は、今はもっぱら学生に教えを乞うている。
子どもたちはもう学生より年齢が10歳以上上になっているし・・・。

私は、PCでネットショップを楽しむし、
映画の券なんかもそこで買ったりする。

でも最近、スマホで申し込んで、
スマホ代金と一緒に引き落とされるというものもあることが分かった。
カード番号を入れなくたっていい。
なんと便利な!
まさにコンビニエンス!!
と、高齢者に足を突っ込んでいる私はバンサイをした。

そうこうするうちに、
LINEも使い方によって、情報が垂れ流しにならないことが分かった。
そこで思い切ってLINEに入ることにしたのだ。

ここは、もう言葉の世界ではない。
スタンプの世界!
つまり文字ではなく、アニメ・絵画表現の世界。
その多様さにびっくりした。

文字離れが言われるけれど、
そしてそれは何とかしたいとは個人的には思うけれど、
このアニメ・絵画表現の世界の多様さをしばらくは味わおうと思う。

年代が違うって面白い。
91歳の父しかり。20代前後の若者しかり。
考えることっていっぱいあるなと思っている60代半ばでした。