この日は父の神経内科受診日だった。
この科にかかってからもう3年半が経とうとしている。
病名はレビー小体型認知症。
今日は遂に父を同伴することができなかった。
私たち姉妹は、父と離れて住んでいる。
もうすぐ92歳になる父は
ヘルパーさんの助けを借りながら、一人暮らしを続けている。
この日の通院のことも、「これから病院に一緒に行くからね」とその日の朝伝えた。
もう以前のように予定のことを把握できなくなってる父には
何日も前から「○日に病院に行くわよ」と伝えることは今では禁忌。
いつもと違った生活の流れになると、とても不安になってしまうからだ。
この日も「○○病院て?」という感じで、
もう何年も通っているのにすぐには理解できなかったようだ。
妹が電話で根気強く説明して、やっと理解でき、納得した。
それからまた、父から電話がかかってきた。
今日は行かれないという。
私たち姉妹は「今日は私たちだけで行こう!」と決意した。
実家に着くと、父が出てきた。
「足もとふらつくし行かれないなあ」(父)
「なんだかそわそわされて、お昼ご飯召し上がらないんですよ」(ヘルパーさん)
「わかったわ。今日はお父さんは行かなくていいから。
私たちだけで行って来るから大丈夫よ」(妹と私)
「いいんだな?行かなくていいんだな」(父)
「そう。行かなくて大丈夫」(妹と私)
そんな会話を繰り返し、父はやっと納得し、安心したようだった。
本当に昼ご飯を食べていない。
大好きないなり寿司を用意してもらっているのに。
病院に通院するというだけで、これだけ不安になってしまう。
そして、時間がきたので妹と私は
「じゃあ、行ってくるからね」と言った。
「もう、車が迎えに来たのか?」(父)
「ううん、今日は私たち二人だからバスで行く」(妹と私)
「そうか、気をつけて行くんだぞ」(父)
「車がきたのか?」(父)
「ううん、今日はバスで行くから」(妹と私)
「そうか、気を付けてな」(父)
そんな、会話を繰り返し、私たちは病院に向かった。
主治医にはもう父を連れてくることが難しくなった旨を伝えた。
「では訪問に切り替えますか?」(主治医)
「できたらお願いしたいです」(妹と私)
「では、紹介状を書きましょう」(主治医)
ということで、紹介状を頂けることになり、
訪問医療をしてもらえる近くの町のクリニック宛に書いてもらうことになった。
ここ2,3回は父を連れて行くことがかなり大変だった。
ケアマネジャーも、そんなことを見越しながら、
認知症の訪問医療をやってくれる医院を2件ほど紹介してくれていた。
そんなことに助けられて、今日はスムーズに受診医院を替えることができた。
実家に帰ると、父はいつものように
居間の椅子に座って、テレビを見ていた。
「お薬もらってきたわよ」(妹)
「そうか。」(父)
「お腹空いた?」(私)「うん」(父)
そこでお昼用のいなり寿司を出すと、父はペロッと平らげた。
安心したのだな、そう思った。
「本当に普段と違うことがあると、すごく不安になっちゃうのよね」(妹)
「ほんとにそうよね}(私)
そんなことから、妹も私も父が若かったころを思い出した。
父は時々、怒り出すことがあった。
特に、どこかに外出するとき。
それから私たちが何か新しいことをしたいと言ったときetc....。
その怒りは私たちにとってはとても理不尽だった。
大人ってなんて理不尽なんだろう。
小さい私たちは、父のことをわがままとは捉えなかった。
怖い、理不尽・・・。
父の怒りの爆発の時はいつもそう思った。
でも、こうして母が亡くなって10年以上が経ち、
父の認知症状が進んでくるにつれて
「こういうことだったんだ」とわかることがある。
その一つが、日常と違う流れになることに対する
父の根源的な不安とでもいうようなこと。
父の場合、これは認知症だからというよりは
もともとの傾向だったのでは?
というのが妹と私の一致した意見。
もう一つ、父が変ったことがあった。
この日、私たち姉妹は、父の椅子の後ろに積み上げられている
新聞紙を片づけることにした。
妹が古紙入れを持ってきて、私が新聞を入れる。
そんな作業を父の隣で行った。
父は何も言わない。
一言も言わないのだ。
「何も言わないわねえ」(私)
「うん、ほんとに何も言わないわねえ}(妹)
そして私たち二人は重くなった古紙入れを持って、
父の前を通り過ぎた。
それでも父は何も言わない。
この情景が信じられない私たち。
今までだったら「何をするんだ!!そのままにしておけばいいんだ!!!」
という罵声が飛んできて当たり前だったから。
父の領分に入ることは許されなかった。
亡くなった母もこのことにはとても気を使っていた。
だから父の家庭菜園を母が手伝うことはなかった。
それは、手伝うことで、父の領分を犯すと、
父がやる気を失うからだ。
母はそれが分かっていて、わざと手伝わなかったのだ。
でも今は違う。
何も言わない。
というより、私たちが父の目の前でしていることの
「意味」が分からないのではないか。
妹も私もそう思ったのだ。
父の頭の中から「意味」を見出す機能が壊れていく。
父の昔の行動の意味が今頃わかると同時に、
父の中の物事の「意味」を見出す機能が壊れていくのを目の当たりにした、
そんな一日を妹を共有したのでした。
この科にかかってからもう3年半が経とうとしている。
病名はレビー小体型認知症。
今日は遂に父を同伴することができなかった。
私たち姉妹は、父と離れて住んでいる。
もうすぐ92歳になる父は
ヘルパーさんの助けを借りながら、一人暮らしを続けている。
この日の通院のことも、「これから病院に一緒に行くからね」とその日の朝伝えた。
もう以前のように予定のことを把握できなくなってる父には
何日も前から「○日に病院に行くわよ」と伝えることは今では禁忌。
いつもと違った生活の流れになると、とても不安になってしまうからだ。
この日も「○○病院て?」という感じで、
もう何年も通っているのにすぐには理解できなかったようだ。
妹が電話で根気強く説明して、やっと理解でき、納得した。
それからまた、父から電話がかかってきた。
今日は行かれないという。
私たち姉妹は「今日は私たちだけで行こう!」と決意した。
実家に着くと、父が出てきた。
「足もとふらつくし行かれないなあ」(父)
「なんだかそわそわされて、お昼ご飯召し上がらないんですよ」(ヘルパーさん)
「わかったわ。今日はお父さんは行かなくていいから。
私たちだけで行って来るから大丈夫よ」(妹と私)
「いいんだな?行かなくていいんだな」(父)
「そう。行かなくて大丈夫」(妹と私)
そんな会話を繰り返し、父はやっと納得し、安心したようだった。
本当に昼ご飯を食べていない。
大好きないなり寿司を用意してもらっているのに。
病院に通院するというだけで、これだけ不安になってしまう。
そして、時間がきたので妹と私は
「じゃあ、行ってくるからね」と言った。
「もう、車が迎えに来たのか?」(父)
「ううん、今日は私たち二人だからバスで行く」(妹と私)
「そうか、気をつけて行くんだぞ」(父)
「車がきたのか?」(父)
「ううん、今日はバスで行くから」(妹と私)
「そうか、気を付けてな」(父)
そんな、会話を繰り返し、私たちは病院に向かった。
主治医にはもう父を連れてくることが難しくなった旨を伝えた。
「では訪問に切り替えますか?」(主治医)
「できたらお願いしたいです」(妹と私)
「では、紹介状を書きましょう」(主治医)
ということで、紹介状を頂けることになり、
訪問医療をしてもらえる近くの町のクリニック宛に書いてもらうことになった。
ここ2,3回は父を連れて行くことがかなり大変だった。
ケアマネジャーも、そんなことを見越しながら、
認知症の訪問医療をやってくれる医院を2件ほど紹介してくれていた。
そんなことに助けられて、今日はスムーズに受診医院を替えることができた。
実家に帰ると、父はいつものように
居間の椅子に座って、テレビを見ていた。
「お薬もらってきたわよ」(妹)
「そうか。」(父)
「お腹空いた?」(私)「うん」(父)
そこでお昼用のいなり寿司を出すと、父はペロッと平らげた。
安心したのだな、そう思った。
「本当に普段と違うことがあると、すごく不安になっちゃうのよね」(妹)
「ほんとにそうよね}(私)
そんなことから、妹も私も父が若かったころを思い出した。
父は時々、怒り出すことがあった。
特に、どこかに外出するとき。
それから私たちが何か新しいことをしたいと言ったときetc....。
その怒りは私たちにとってはとても理不尽だった。
大人ってなんて理不尽なんだろう。
小さい私たちは、父のことをわがままとは捉えなかった。
怖い、理不尽・・・。
父の怒りの爆発の時はいつもそう思った。
でも、こうして母が亡くなって10年以上が経ち、
父の認知症状が進んでくるにつれて
「こういうことだったんだ」とわかることがある。
その一つが、日常と違う流れになることに対する
父の根源的な不安とでもいうようなこと。
父の場合、これは認知症だからというよりは
もともとの傾向だったのでは?
というのが妹と私の一致した意見。
もう一つ、父が変ったことがあった。
この日、私たち姉妹は、父の椅子の後ろに積み上げられている
新聞紙を片づけることにした。
妹が古紙入れを持ってきて、私が新聞を入れる。
そんな作業を父の隣で行った。
父は何も言わない。
一言も言わないのだ。
「何も言わないわねえ」(私)
「うん、ほんとに何も言わないわねえ}(妹)
そして私たち二人は重くなった古紙入れを持って、
父の前を通り過ぎた。
それでも父は何も言わない。
この情景が信じられない私たち。
今までだったら「何をするんだ!!そのままにしておけばいいんだ!!!」
という罵声が飛んできて当たり前だったから。
父の領分に入ることは許されなかった。
亡くなった母もこのことにはとても気を使っていた。
だから父の家庭菜園を母が手伝うことはなかった。
それは、手伝うことで、父の領分を犯すと、
父がやる気を失うからだ。
母はそれが分かっていて、わざと手伝わなかったのだ。
でも今は違う。
何も言わない。
というより、私たちが父の目の前でしていることの
「意味」が分からないのではないか。
妹も私もそう思ったのだ。
父の頭の中から「意味」を見出す機能が壊れていく。
父の昔の行動の意味が今頃わかると同時に、
父の中の物事の「意味」を見出す機能が壊れていくのを目の当たりにした、
そんな一日を妹を共有したのでした。