徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

「えっ、冬休みは放課後クラブ行かなくていいの?」-共働き世帯の子どもはえらい!ー

2016-11-30 22:43:13 | 子どもの情景
今日は、11月の晦日。
明日からはもう師走だ。

この日、1年生のTPは学校から
来月の予定表をもらってきた。
それと放課後クラブの予定表も。

「お母さん、冬休みって書いてあるよ。
23日からだって」(TP)
「そうね、学校には夏休みだけじゃなくて、
冬休みと春休みもあるのよ」(TP母)

「冬休みも放課後クラブ行くの?」(TP)
「この冬休みはねお母さんは23日からお休みを取れたの。
お正月はお父さんが5日までお休みで、
6日はおじいちゃんとおばあちゃんが大丈夫だって」(TP母)

「えっ?じゃあ、冬休みは放課後クラブ行かなくていいの?」(TP)
「そういうこと!」(TP母)

「うわーっ!!」といったTPは母親に抱きついた。

夏休みという言葉を学校で聞いた時、
「おかあさん、夏休みって何?」と聞いたTP。
そして、夏休みとはみんながお休みでも、
TPには放課後クラブがあるものだということを学んだ。

だから、冬休み、と聞いた時も、
彼はきっと放課後クラブに行くものと思っていたのだと思う。
それが全部家にいられるらしいと分かった瞬間、
TPは母親に飛びついたのだ。

「あのね、知ってる?
お休みの時はね、8時15分から宿題をやるんだ。
それがおわったら、自由遊びになるんだよ。
それからお弁当、じゃなくてお昼を食べて、
またゆっくりしてから、自由に遊んでいいんだ。
だから冬休みもそうするんだよね!」(TP)

と、TPは放課後クラブの一日の流れを思い出して、
誇らしそうに母親にそう言ってた。

ランドセルをリュックに変えて、通った夏休み。
彼なりにこれしか道はないと納得して過ごした。

共働き世帯は、本当に親も子も頑張っているなって
こういうことがあるたびに、思う。
いや、毎日そう思う。

1階のTP家族の朝は早い。
5時過ぎにはシャッターの開く音が、
そしてそれに続いて味噌汁のにおいが漂ってくる。

6時を過ぎると、1階のドアが開く音がして、
新聞受けを二つ開ける音がする。
ドアの閉まる音、そして続いて
「トン、トン、トン、トン」と
階段を軽やかに上がってくる音。

「はーい、新聞だよ!
おばあちゃん、まだ寝ているの?
もうすぐラジオ体操始まっちゃうよ。
おきたほうがいいよー!」とTP。

「はーい。わかったわよん」と言って、
シャッターを寝ぼけ眼で開ける私。
(若い時は朝方だった私。けれど高齢者になって、
どういうわけか朝寝坊型に変わってしまった・・・)
それから、ゴソゴソ起きるのだ。

朝のTP家族はみんなシャンとしている。
私たち夫婦はまったり、ボーっとしている。

そして、毎日、下の家族はえらいなって思う。

専業主婦時代の私は、忙しいと思っていた。
自分の時間がないと思っていた。
でも、娘のようには忙しくはなかった、
と、今気づいた私。
いくら3人子育てしたとは言っても、
時間に追われる感じは桁が違う。

TPとKJの母親が疲れて帰ってきたときは、
二人の喧嘩もひどくなる。
母親もさらに声を荒げる。

一緒に生活していると、そんなところも見てしまう。
私だって現役母親の時は同じようなものだったのに、
もうちょっと優しくってもいいんじゃないと思ったり・・。

でもそれはお門違いかもしれない。
一生懸命頑張っている若い家族を、
邪魔にならない程度に手助けできたらいいな。
おせっかいにならないようにとは思いつつ、
それをやらせてもらえることは幸せだなとも思う。

もう一度、小さな人たちが、
毎日を一生懸命に生きている姿を
感じながら生活したいって思う
今日の「ふゆやすみ」あれこれでした。





「あした、二階でお留守番です」-急性胃腸炎は保育園の冬の風物詩ー

2016-11-26 10:03:15 | 子どもの情景
金曜日は私の保育園お迎え当番。
この日は仕事も順調に終わって、
予定通り4時前に保育園に到着した。

2階の年中組に迎えに行くと、
いつも飛び出てくるKJが出てこない。
「あ、KJ君は下の事務室です」と担任の先生。
あれ、おかしいなと思ったが、
すぐに1階に引き返した。

事務室には園長先生と主任の先生。
KJは椅子に座って、ビニール袋に顔を突っ込んでいた。
ま、ま、まさか、「あれ」ではないでしょうね・・・。
でも、そのまさかの「あれ」だった。

「あれ」とは「急性胃腸炎」。
またの名を「保育園や幼稚園の冬の風物詩」ともいう。

今まで、キャッキャと元気に遊んでいた子どもが、
急にしゃべらなくなったかと思うと・・・
「オエッ、オエッ」と始まるあれだ。

その場はあっという間に吐しゃ物でうまる。
殊勝な子はトイレや洗面所に駆け込む。
まだ、4歳、5歳というのに思わず偉いなって思ったり。

O-157が出て以来、保育の現場は吐しゃ物の扱いには
細心の注意を払っている。
菌が飛ばないように、やれることをすべてする。

と、まあこんな事後処理を、
クラスの複数の子どもたちがいる中で
保育士さんたちはテキパキとこなす。

KJは洗面所に駆け込んだのだが、
流しの一歩手前で残念ながら・・・
ということになったようだ。

しかし、その後も吐き気は収まらず、
事務室で園長先生たちと一緒だったという次第。

うわー、これじゃあ、このまま歩いては帰れない。
4月から通っているこの園には私鉄で2駅。
家から5分、電車で3分、駅から保育園まで3分という経路。
無理だ。なんたって、吐き気は収まってないし。

で、タクシーを頼んだ。
そしてタクシーまでは園長先生が抱っこ。
そして家までの予定が・・、
家の前は運の悪いことにガス工事が進行中。
大分手前で降ろされた。
よし、がんばっておんぶだ、と思っておんぶをしたら、
私、よろけた。

KJ曰く「おばあちゃん、大丈夫?僕歩くよ」
KJはビニール袋を抱えて歩き出した。

ごめん、KJ、祖母の限界・・・・。

と、なんとか、かんとか家にたどり着いた。
そして、母親と連絡。
かかりつけの医者に行くために駅の前で待ち合わせとなった。

今度こそは、おんぶしたってよろけないぞ!
それに、KJにも、もう「ボク、歩くよ」という元気は残されていなかった。
よいしょっと!!
何とかおんぶできた。
そしてオイッチニ、サンシと掛け声をかけながら歩き始めた。
いやー、おんぶに抱っこなんて
なんでもなかった現役の母親時代が嘘のよう。
人間、寄る年波にはかなわない・・、
なーんて独り言ちながら、5分(*_*;頑張った!!
やっとのことで、めでたく、母親にバトンタッチ。

この日は金曜日。
土日と休んで、大事をとって月曜日も休むことに。
その日曜日の夕方、KJが二階にやってきた。
「じゃあ、これ!」といってメモを私に渡した。


解読すると
「KJくんだけ あした 2かいでおるすばんです」となる。
階段を下りていくKJに
「わかったわー。じゃああしたね!」と返事した。
それからしばらくして、また上がってきた。
手に何か持っている。


「はい、これ!」と言って降りて行った。
みると「そば」。
そこにもメモが貼ってあった。
「あした そばお つくって」
という風に読めた。

まだ、おなかの具合がイマイチなのだろう。

そして月曜日。
もう、ほとんどなおっているKJは元気に一日休んだ。
ジジババと遊んだり、昼寝をしたり、、
まったりと過ごしたのだ。

4月からのはじめての病気らしい病気。
でも、ちょっぴり嬉しかったようでもある。
あのよろよろのおんぶもあったし・・。

それで思い出した。
私が6年生の冬。今思えば急性胃腸炎で私も倒れた。
2階から1階にあるトイレに一人で行かれなくて・・、
そうしたら母がおんぶして連れて行ってくれた。
その背中越しの母のぬくもりと、
一歩一歩注意深く階段を降りる母の足音は
今でも私の心に焼き付いている。
嬉しかったなあ・・・。

病気って、ときにはこんなぬくもりを残してくれる。

それにしても、若いつもりでも、
65歳過ぎたら「高齢者」であることを
認めざるを得ないなって思った「
急性胃腸炎騒動」の一コマでした。




父のことー番外編 その2  実家を手放す決断の巻ー

2016-11-16 06:24:01 | 父とのこと
父の大往生から5か月が経った。

この5か月、妹と一緒に、
というより、妹におんぶしながら、残務処理、
つまり諸々の手続きを進めてきた。

代替わりの手続きは煩雑だ。

12年前に母が亡くなったときは
ほとんど悩むことはなかった。
両親で築いたものだから、
あとは父が引き継ぐのは当然と考えていた。

それが、今から思えば誤算だったということになる。

別にお金持ちというのではなく、普通の庶民だ。
けれど、税制がかわり、父が住んでいただけの土地を
持っているだけでも相続税がかかったりする。
空き家を置いておかない限り。税金も数倍に跳ね上がる。
父のケースもそういうことになる。

私たちは二人姉妹。
父の薫陶よろしきをえて??、
私が小学校高学年、妹が低学年だった時以来、
喧嘩をしたことがない。
それは父に、たった二人の姉妹なのに、
喧嘩するとは何事だ!と、怒鳴られたから。

母や父の看護や介護が生じたときも
いっぱい話ながらやってきた。

今回の相続やらなにやらの件も
基本、長電話、ときに待ち合わせて
お茶やランチをしながら、
あーでもない、こーでもないとしゃべりあった。
もちろん、さまざな手続き関係の確認が
大きな話題ではあったけれど・・・、
私たちの話は、現在・過去・未来を縦横に行き来した。
つまり、あっちへ飛び、こっちへ飛び、
昔の実家でのこと、その後のこと、父のこと、母のこと、
亡くなった祖父母のこと・・・エトセトラ、エトセトラ。、
それが女性の会話かも・・・、楽しいのだ。

介護保険や年金などを止めることはすぐできた。
私たちの場合、土地の相続手続きや、遺産分割については
その書類を整える手間を主に妹が担ってくれ、
おかげでと早く整った。

というのは私たち姉妹二人だけのきょうだい、
二人とも実家を出ている、
母の時も、父の時も一緒に考え、経済的なことも
同じように負担した。
だから、本当に単純に何でも二分割にした。

一つ考えたのは、父が住んでいた実家の土地だ。
ここでも再び、あーでもない、こーでもないと考え、話し合い、、、
その結果、二人とも住めないし、
セカンドハウスとして置いておくには
余りにもあまりにも築年数が・・・、
亡くなった父よりちょっとお兄さんの実家の年齢は
およそ95歳。

土地柄、古民家として生まれ変わって、どなたかに使っていただく
なんてことも考えられないわけではないが、
なんたって築95年。羽目板だってはがれているし、
雨漏りだって、尋常ではない。
それに、決定的なのは、土台が浮いていること。
これでは、リフォームでは追いつかない。
立て直ししかないのだ。

全く阪神淡路大震災や、東関東大震災の揺れにも耐えたなんて、
奇跡としか言いようがない。
一説には、ここの地盤は岩盤で硬いこと、
瓦屋根であるにもかかわらず、
昔風の太い梁がめぐらせれていること等々が
倒壊を免れた原因としか思えない。

でも、そんなために立て直しする??
と、また頭を抱えた。
そして、「そう遠くない将来に売ろう」と結論した。
だから、土地の登記は2人の共有に。

そして、また考えようといった矢先、
いくつかの不動産関係者から妹のところに接触があった。
不動産関係者はその仕事柄、最近相続があって、
空き家になりそうなところに目を光らせているということが分かった。
登記簿をたぶん毎月のように閲覧しているのだ。
これだって、今ではネットで彼らは簡単に閲覧できるようなシステムがある。

というわけで一番乗りは、アパート経営の勧め。
私たちは一瞬色めき立った。
土地を手放さなくて済みそう・・・、そんな思いが頭をよぎった。
売るって決めても、まだ心の中では逡巡している二人だとお互いにわかった。
そんなことも業者に見透かされている気がした。

しかし、話を聞いていくうちに、
私たちが建物を建て、その会社はある年数に渡って、入居者を探し、
定期的に家賃を支払ってくれるというものだった。
だから借地権もつかない。
説明ではとってもいい話だったから、一瞬、心が傾いた。

でも、待てよ、ある一定の期間たっても家賃が下がらないことってあるの?
首都圏駅チカならともかく、首都圏といっても中心からはかなり離れた
あまり人口の増加も考えられない小さな町で、それは不可能だろうと思ったが、
勧める方はいろいろメリットを並べ立てた。
またグラッとする私たち。
だが「家賃は期間中初めに提示した額を保障します!」と最後に又聞いた瞬間、
こりゃ、話に乗ってはだめだ、というブレーキが働いた。
約20日間のお話だった。

そうこうするうちに頼んでおいた土地の査定を
数社の不動産会社が持ってきた。
まあ、そのばらつきのあること!
○○万円から△△万円ま。△△万円は○○万円の倍だ!
その根拠は、と思ってしまう。
△△万円なんて、私たちの想像より高かった。
ここでもまたまたグラッとなる私たち。

3社に詳しい査定を出してもらった。
一番額の高い不動産会社は、実家の隣に建つ家の価格を根拠にしていた。
その家は東日本大震災の少し前に建ったもの。
だから坪単価が高かった。
震災後は海辺の町であることもあり、津波の心配ありで、
地価はグーンと下がったのだ。
腹の中の欲張り虫は、いいじゃんなんて呟いているが・・、
まあ、待て待て。

あとの2社は最近売れた近隣の土地の値段を勘案し、
実家の条件を考慮して出してきていた。

決めなくてはならない。

どうする?、やっぱり売るしかないよね・・・。
アパート経営はここではありえないとわかったし、
セカンドハウスを建てたとしても、
別荘地でもないし、なにしろ私たちは平均60代半ば。
だから週末にちょいちょいなんていうのも
やったとしても、そんなに続けられない。
次の代の子どもたちは合わせて6人。
また相続があるわけだし・・・・。
今のところそこに住みたい子どもはいないし・・・。

とまたまたあーでもない、こーでもない状態に。
でも、やっとこ出した結論は・・。
「売る!売るんだ!!売るしかない!!!!!」と叫びながら、
妹も私も清水の舞台から飛び降りた。

査定がまあ妥当と思われる真ん中の額を出してきた会社に、
あと××万円上乗せして売り出してほしいとお願いした。
提示額は、相場的には妥当ということはよくわかる。
けれど、そこに住んできた私たち、そしてその土地を手に入れ、
その土地を自分たちの実家と思っているあちらの世界の人のことも
頭をよぎる。
その額が××万円というわけだ。
この値段で落札される可能性は限りなく0に近い。
でも、まあ、ここからやっていみたいというのが私たちの正直な気持ち。
ダメもとでいいのだ。

そして、遂に売り出しOKのハンコをついた。

次の日、妹からのメールには、
一生懸命、売るという結論にした土地のマイナス理由を考えて、
「売る」という結論を自分に納得させていると書かれていた。

私も同じ。あれだけ考えたのだから、売るしかないというのは
納得している。いえ、しているつもり。
でもやっぱりそうした後でも心は千々に乱れる。

私の場合は、そこに住んでいた人のことではなくて、
小さい時から一緒に過ごしたペットのこと。
犬の一代目メロ、二代目メロ、三代目メロ、
猫の信子(シンコ)、父の飼っていたカナリヤたち。
特に犬と猫たちを置いていくのは忍びない。

と、まあこんなことに相成っている父の番外編なのでした。

それにしても、父はとても面白い人ではあったけれど、
なんたってすぐ理不尽に怒るし、論理は通らないし、
自分の周りだけすっきりしていれば、
それ以外は関知しないという究極の我儘人。

そのつけを今もらってはいるけれど、
まあ、いろんなことを考えるチャンスをくれたということで、
許すことにいたしましょう。

内田光子ー天女が舞うようにー

2016-11-09 22:30:57 | 音楽会
この日、私は毒薬、
おっと、抗がん剤の投与日だった。
通院でのもぐらモグラ叩きが始まっている。
このモグラ、全然悪さはしていない。
でも、確実に頭を出しているので、
まあ、ちょっぴり叩いておくか、
ということで再開している。

今までの方法と違って、
週一ではあるけれど、毒薬量が少ないので、
三週に一度の時のように、ドカーンとくることがない。
いつも通りの生活に変わりはない。
いくつか、自分としては気をつけることはあるけれど、
そんな感じで、モグラを手名付けながら生活している。

この日、点滴が終わったのが、夕方5時半。
病院で夫と待ち合わせ、演奏会場に向かった。
途中まで電車。そこからは奮発してタクシー。
何しろ時間がぎりぎりになりそうだったから。

6時半に会場に着く。すでに入場は始まっていた。
でも、お腹が減って減って・・・、
このままでは会場で「ぐーー」なんてことになりかねない。
慌てて会場近くのカフェでコーヒーとパンを飲み込んだ。

閑話休題。

内田光子のプログラムは前々から楽しみにしていた。
演目は3つ。
モーツァルト:ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453
バルトーク:弦楽のためのディヴェルティメント Sz113
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K503

私はモーツァルトは好きだけれど、詳しいわけではない。
ああ、聴いたことあるなって思っても
曲目を覚えたためしがないので、
あの曲聴きたい!って思っても探せない・・・
という程度の愛好者。

私にとって、この17番と25番はファミリアではなかった。

一方、夫の最近の動きは、音楽会が近づいてくると
「予習するぞ!」と口走り、曲目をCDで何回も聞く。

だからというか、そのおかげというか、
私もいつの間にか耳慣れてきた。

バルトークは、昔、ピアノを習っていた娘が
弾いていたことがあった。

へええ、変わった音色ねって思ったが、
なんだか引っかかる。
引っかかるなって思ううちにその音色に
病み付きになった経験がある。

納豆は最初は臭い、こんなものが食べ物かって
思っていても、気が付いたら、病みつきになっていた
というあの感覚に似て言う。
あ、バルトークさんお許しください。
納豆と比較するなんて・・・、申し訳ないなって思いつつ。

とまあ、そんな具合で夫の予習を
他のことをしながら聴いていたのでした。

そして本番のこの日。
もう予習の音はどこかに飛んで行った。

第一曲目の17番。
私には「音が天から降ったきた」ように聴こえた。
内田光子のピアノのタッチは、
音が天から降ってくるとしか言い表しようがなかった。

そして彼女の指揮。
シフォン素材と思われる透けた薄クリーム色の
舞台衣装は、なんだか天女の衣を連想させた。
室内オーケストラと一緒に天女が舞っている。
私もあんなふうに音楽と一緒に舞ってみたい!
って、本気で思ったくらい。
内田光子の動きは、本当に軽やかで、
指揮者というよりは音楽に気持ちよく酔いながら
舞っている天女だった。

その天女はピアノに向かうと
その繊細な一音一音を天から降らすのだ。
それを聴くことができるなんて、
なんて幸せなんだろう・・・。

そして唐突に、どうしてこんな音が
モーツァルトの頭に浮かんだのだろうと思った。
これも天からモーツァルトに降ってきたのだろうかと。

そんな余韻に酔いしれているうちに、
舞台は室内弦楽オーケストラに。

出てくる音は、今度は天からではない、
地の底から湧き出てくる音。
時にほら穴から音が噴き出てくる。

バルトーク特有の舞曲風のメロディーも入り、
土着という言葉がふっと頭をよぎった。
そして、激しく高まったかと思ったら、唐突の終焉。

そこで休憩となる。

第三曲目は25番。
これはもう、17番と比べるとにぎやか。
これも明るい一つのモーツァルトを思わせるし、
なんだか人間界のにぎにぎしさといった体。
ここでも人間界で踊る天女がいた。
その天女の体からは人間界の音がオーケストラと共に
紡ぎだされていた。

夫は、演奏会の前、どうしてこういうプログラムの配置と
選曲なんだろうかと、何回も言っていた。

でも、私、勝手に解釈しちゃったのです。
内田光子は「天」「地」「人間界」を持ってきたのだと。

これは本当に勝手な解釈。
でも本も、演劇も、絵画も、そして音楽も、
表現されたものは、作者を離れて、
その受け手の手に渡るとき、
受け手はそこで自由に想像力を巡らせる。

いつもの過剰解釈の癖が出てしまったけれど、
今回の演奏会はそんな解釈が
天から降ってきたのでありました。

今、復習のモーツァルトを聴きながらこれを書いている。
書き終わったら、私は聴きながら天女になって舞おうっと。
夫も早々と床に就き、ウルトラマンたちはとっくに階下で夢の中。
だから今は、居間は私一人の空間なのですもの・・・。


イクメンと育ジイ-我が家の場合-

2016-11-03 17:22:04 | 孫シッター奮闘中
「じゃあ、前の洗濯物畳んでから、今日の分、干すからなー」(夫)
背中越しにそんな声が飛んできた。
今日は休日。
私は久しぶりにブログに向かっていた。

「よろしくねー!」(私)
今や、夫の洗濯当番は板についたもの。
夫は粛々とルーティンをこなしている。
私は私の世界に入ったまま・・・。。

二世帯同居を始めて8か月。
一階の若者世帯にはイクメンが、
二階の老夫婦世帯には育ジイが住んでいる。

私たち団塊世代の男性は、
子育て時代にイクメンだった人は数えるほどだろう。
ちなみにイクメンとは、
「積極的に子育てを楽しみ、自らも成長する男性」のこと。

若者世帯の夫はイクメン。
妻は7時に出勤。
その後、夫は洗濯物を干し、食洗器のスイッチを入れ、
炊飯器の予約ボタン押す。
小1のウルトラマン1号の計算ドリルをみながら、
保育園年中児の支度を促す。

7時半前に、ウルトラマンたちは2階に移動。
2号は「おはよう!」をいうとイクメン父親と一緒に
保育園に出勤、おっと、登園。

8時の登校までの30分を、小1ウルトラマン1号は
2階のソファでごろごろしたり、絵本や本を読んだり。
ソファのある居間を体育館に見立てて、
飛んだり、跳ねたり、育バア、育ジイと相撲をしたり、
そして最後は〆の「のびのび」をして登校となる。

以後、午後3時半までは自由時間の育ジイ。
育バアの私の保育園お迎え当番は週1回、たまに2回。
それ以外は育ジイ。頑張っている。

保育園には運動を兼ねて30分弱を歩いていく(らしい)。
「KJくーん、おじいちゃんがお迎えだよー」って、
育ジイを見つけたクラスの子どもたちがKJに叫ぶという。

そういえば、まだウルトラマン1号が0歳児クラスの時、
私が4時過ぎにお迎えに行くと、
「ズリズリ、トタトタトター」って、
はいはいとヨチヨチ歩きの音がして、
皆が入口の「引き戸」のところに集まってきたっけ。
みんな、何にも言わないけれど、
お迎え待っているんだなって、その時思った。
保育園の子どもたちは「お迎え」にとっても敏感。
そして誰が誰のお母さんだか、お父さんだか、
おじいさんだか、おばあさんだかってことをよく知っている。

今でも、保育園のお迎えが祖父というのは「レアケース」。
だから、前に通っていた保育園でも、
保育士さんがこの育ジイにすこぶる優しかった。
それはもう依怙贔屓と言った方がいいくらい。
それと「憐み」っぽい感覚もはいっていたかなあ。
同じお迎えをしているのに、
この迎える方の「態度の差は何!」って思ったものだ。

と、まあ、こんな具合で、
私たち夫婦は、自分の子育て時代とはだいぶ違う立場にいる。

イクメンは、休日に妻が学生時代の友人とランチ、
というのも嫌がらない。
ウルトラマンたちに昼ご飯を食べさせ、
昼寝をしたり、散歩に行ったり、図書館に行ったり。
偉いなーって思う。

育ジイはこの間、孫の病院付き添いデビューを果たした。
お医者さんも、あれっという顔をされたらしい。
でも、育ジイはがんばった。
「いやー、医者に連れていくって、結構気を遣うもんだなー」
なーんて頭搔き搔き言っていた。。
(そんなの、母親はみんなやってるわよ!!)っていう言葉が
喉まで出かかったが、ぐっと飲み込んだ。
そして「そうでしょ。大変だったわねー」なんて労わった(*_*;

こんなに頑張ってるイクメンと育ジイ。
なのになのに・・・、
どっちが「おかあさん」を取るかで、喧嘩が始まることがある。
でも「おとうさん」の取り合いは起こらない。

育ジイはこんなに頑張って送り迎えしているのに、
「今日は、おばあちゃん、おうちにいるの??」って
いつも聞かれるらしい。
「いや、お仕事だよ」っていうと、
がっかりした顔をするとか・・・。

二人とも、私たちの子育て時代には考えられないほど
頑張っているイクメンと育ジイなのに、
ウルトラマンたちから出てくる言葉は
「おかあさんは?」と「おばあちゃんは?」だとか。
それってちょっぴり痛々しい。

なんでだろうって考えてしまう。
子どもにはだれか面倒をみる人がいればいいっていうだけでは
解決しないものがあるなって思う。

でも、そんな私の評論とは関係なく、
今日も、そして明日からも
めげずに頑張るイクメンと育ジイの今なのでした。