徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

父のことー施設探しは「帯に短したすきに長し」ー

2016-03-28 09:19:37 | 父とのこと
父のMRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)の
検査結果はまだ出ていない。
MRSAはよく院内感染で問題になる細菌だ。
抗生物質が効きにくい。
だから、大手術の後とか、体にカテーテルを入れている人など、
体力、免疫力が落ちている人には怖い菌だ。
半面、普通に生活にしている人にとっては
何ら問題にならない菌でもある。

MRSAの検査は3回するという。
3回ともマイナスだったらOKということになるらしい。
OKとなれば、今いる病院を出なくてはならない。
父は大方の予想に反して、現状維持以上に回復したということになる。
そうなると療養病棟に置いておくと病院は儲からないのが今の構図。

なので、ここのところ次の父の行先を探して、
妹が奔走してくれていた。
それでわかったこと・・・。

その一。
ケアハウスについて。
ケアハウス見学記は以前認めた通り、
要するに高齢者アパートに食事や最低限の介護ができる施設だ。

父にいいかなと思って見学したAケアハウスは
施設長の話を伺った時は、大丈夫そうと思った。

しかし、その後、施設の看護師の方が
父の入院病院にみえたときに
言われたことや
ケアマネとの相談で分かったことは・・。

①夜中の痰の吸引は家族にやってほしい。
→これについては、妹はリューマチがあり、右手の力が入りにくいので、
実質無理だ。私は遠方に住んでいるので、これも難しい。
夜中の吸引も実質は難しそう。

②部屋の掃除、リネン関係は業者が入っていないので、家族がする。
→これも妹の負担が増えるのでちょっとなあ・・・。

③基本は自宅にヘルパーさんが介護保険点数の上限まで入って
面倒を見てくれるというもの。
→つまり、実家で父が一人暮らしをしていた時の介護状況と同じ。
朝、昼、晩の食事(これは胃瘻になるが)と寝る前のおむつ替えを含めた
一日4回が基本。アパート形式なので個室だから、基本的にはこの4回しか
父の部屋を訪れてもらえない。
自立していた時の父とは違って、基本ベッドの生活になっているから、
かなり刺激の少ない生活になる。たとえ妹が訪れたとしてもだ。

ということで、初めはここに大方決めていた気持ちがだいぶ萎えていった。

次に妹が探してくれたのはB老健。
これは昨年、実家の近くの老健は経験済みだったので、
これまたいまいちかなと思っていたが、
話を聞いてみると次のようなことだった。

その二。
老健について。
①妹の家からは少し遠くなるが、車で動ける範囲。
認知症の方々の棟は3階にある。
夜中に声を出してしまう人用の個室もあるし、
それなりに大丈夫となれば4床室に移るという。
→ケアハウスより人の出入りがあるので、
刺激不足はケアハウスほどではない。

老健だからリハビリをやってもらえる。
夜中のたんの吸引は基本難しい。
しかしいざとなればとなりのクリニックの看護師に頼めなくもない。
この時点で妹が病院に確かめたところ、
このところ夜中の吸引はなくなっているという。
(父の回復力は92歳にしては素晴らしい!!と思う・・)
ここで痰の吸引はクリアした。
→リハビリをやるためには車いすに乗るなど、
身体をおこしてもらえることが増える。
これは今の父にとってはありがたいことだ。

③リネン類、パジャマなどもすべてレンタルできるので、
妹の負担が軽くて済む。
→高齢者が超高齢者の介護を担う場合、
介護する側の体力の問題がある。
私たちはリューマチやガンなどの慢性病もち。
元気にはしているが、何か事が起こった時にも
父がちゃんと生活できるようにしておかなくてはならない
という現実がある。

④老健には3か月ごとの入所見直しがある。
→これが一番のネックだ。ただ、老健によっては
状況を勘案して、もう少し長く見てもらえる場合もある。

というわけで、ほぼ90%ケアハウスに固まっていたのですが、
ここにきて、私たちなりにしつこく精査した結果、
今回は老健が第一候補かな。

贅沢は言えないけれど、
そして当たり前と言えば当たり前なのだけれど、
いずれの施設も「帯に短したすきに長し」の状況。

昨年7月に父が倒れてから、5回目の転院先探し。

それにしても、父は凄い適応能力があるのだと、
びっくりもしています。
あれだけ、自分の家にいることにこだわっていたのに・・。
もう、こだわり切ったのかな、やり切ったのかなとも
思うこの頃なのでした。





 

じゃんけんの彼方にー小さな思いやりー

2016-03-25 07:55:44 | 子どもの情景
幼稚園実習が終わっての実習事後指導の時間。

「3歳児に『じゃんけん列車』のゲームを用意していったのに、
3歳児って、ほとんどじゃんけんの勝ち負けが分からなくって、
もうめちゃくちゃになっちゃいましたー。
泣きたかったーーーー!」(学生)

当たり前だろう!
何のために発達心理学などを受講してから実習に行くというのだ!!
と、怒る気持ちをぐっと押さえて、
「そうだったのねえ。いい勉強になったでしょう?」なんて言った私。
まさに悪魔の猫なで声・・。

そう、じゃんけん。
一体いつ頃からじゃんけんができるようになったんだろう。
思い出してみると、
チョキがなかなかできなかったことをに行きあたった。

親指と人差し指を使ってのチョキはできたが、
人差し指と中指を二つ同時に立てることがなかなか難しい。
頑張ってやろうとすると、後出しみたいになってしまう。
「後出しだー。いーけないんだ、いけないんだー」なんて年上の子にはやしたてられる。
こんなことを覚えているっていうことは、多分5,6歳頃のこと。

人差し指と中指を立てるじゃんけんができた時の「誇らしさ」は
心の片隅に今も残っている。

このじゃんけんに、今はまっているのはKJ4歳8か月。
保育園の3歳児クラス在園中。

「おばあちゃん、じゃんけんしよう!!」(KJ)
「最初はグー、じゃんけんポン!」(KJと私)
私はパー、KJグーを出したかと思ったら、
もにょもにょっと指を動かして、やっとこさっとこチョキに。
「勝ったー」と小躍りするKJ。
もちろん後出し。
「あれ???」といって、KJの顔をじっと見ると
「へへへー」(KJ)
「も一回やろう、も一回やろう」(KJ)

そして私に負けると
後出しをして「勝った、勝ったー」と飛び上がる。

そんなことがここ3か月くらいKJと会うたんびに続いていた。

この2週間、KJと一緒に住むようになって、
じゃんけんの真剣勝負はほぼ毎日だった。
兄のTPとKJ、そして私の三つ巴。
勝負にこだわるのはやはりKJ。
「あ、KJずるいよう。後出しだよ」(TP)
そんなこんなで、つかみ合い寸前になることも。

でもここ2,3日、ふと気づくと何かが違う。
「最初はぐー、じゃんけんポン!」(KJと私)
私はグー、KJはパー。
「KJちゃんのかちーっ」(私)
「も一回やろう」(KJ)

「最初はグー、じゃんけんポン!」(KJと私)
私はパー、KJ,チョキ。
「KJちゃんの勝ちー」(私)というと、
「おばあちゃん、大丈夫だよ。もう一回やろう。きっと勝つよ」とKJ。

あ、私を気遣ってくれている。
私がついに勝ったとき、
ニコニコっとして「よかったねー」と言ってくれた。

これがつい数日前まで、勝つことに命を懸けて、
負けると体中で悔しがっていたKJと同一人物か・・・、と思うほど。

あれだけ負けて、後出しだーと指摘され、
それでも負けずに何回も何回もやるうちに、
あれだけ勝つことにこだわっていたのに、
いつの間にか、負けた相手に気遣うようになっている。

保育園に行く前の朝のじゃんけん。
「じゃんけんポン、あいこでしょ!」(KJと私)
「あ、負けちゃったー」(KJ)とニコニコ。
「じゃあ、行ってきまーす!」(KJ)

じゃんけんをものにし、相手の気持ちを気遣う4歳8か月真っ盛り。
あの地団太を踏んで悔しがった姿が、
それをやりきることで、こんな風に育っていくんだなって
すごい!と思った65歳でした。





「はっきょい畑場所」ー孫と相撲の巻ー

2016-03-18 11:11:50 | 子どもの情景
「はっきょーい、のこった、のこった、のこった、のこった!」

「おばあちゃん、お相撲取ろう!」(TP6歳)
「えっ、お相撲かー、よーし、いいわよ!」(私)
65歳の私、覚悟を決めた。

「みあって、みあって、はっきょーい、のこった!」(TP&私)
足をかけて、投げても投げても食いついてくる6歳。
それに加わる4歳。
三つ巴の大相撲。

「うわー、もう降参、降参!」(私)

「じゃあ、あと一回ね」(TP6歳)

「はっきょーい、のこった、のこった、のこった、のこった!」

すると・・・
「おっとっとっとー、おっとっとっとー」(TP)
そう言いながら四つに組んだまま、蟹歩きならぬ蟹飛び。
なんだか社交ダンスのよう・・。

息を合わせておっとっとっと、おっとっとっと、と言いながら動き回る。
フーン、面白いなあ。

一段落すると、今度はKJ4歳が飛びかかってくる。
こちらは押しの一手。
ズズズズズーと押されたり、ズズズズズーと押し返したり。
こっちは全く社交ダンスじゃない。
本気の相撲。
足掛けの上手投げで辛うじて65歳の勝ちーーー。

急に静かになったTPを見ると、なんと本を読んでいる。
かがくいひろし「はっきょい畑場所」

かがくいひろし「はっきょい畑場所」 講談社 2008

畑で取れる野菜たちのお相撲。
なんたって登場人物(野菜??)の名前が面白い。
じゃが岳(じゃかいも)、かぼ春日(かぼちゃ)、ぴーま岩(ピーマン)、にんじ川(にんじん)、
たまね錦(たまねぎ)、きゅう竜(きゅうり)、すい海(すいか)、だいこの嵐(大根)などなど。

そのなかのじゃが岳とにんじ川の対戦。
そこにふたりががっぷり四つを組んで
「おっとっととー、おっとっとっとー」の場面があった。
なるほど、TPはこの場面がお気に入りだったんだ。
それを再現したということになる。

ここを再現したって、どういうことだろうと、ふと考えた。
一緒に体を動かしてみると、共振、ともゆれ?、
つまり息を合わせて一緒に体を動かすっていうことが
いまのTPのやりたいことなんだと、
一緒に相撲を取りながら感じた。

そうか、お相撲っていっても、TPの場合は勝ち負けよりも、
こうして一緒に体を動かしたいんだ。
四つになって蟹飛びをするって、一体感という言葉が相応しい。

今は、これを味わいたいんだなって思った。
ここ数日、お相撲を取ると必ずこの場面を再現する。

一方KJ。やっとじゃんけんができるようになった。
勝った、負けたにこだわっている真っ最中。
だからお相撲も思いっきり相手に勝つために頑張る4歳そのもの。

同じお相撲をとっても、こんなに違う。
子どもと一緒に動いてみると、こうして子どもたちの
その時望んでいることが見えてくるなって改めて思った。

しかし、私はなんといっても65歳。
昔々、まだ小学校の低学年だった頃、
父がお相撲だけは相手をしてくれた。
何回も何回も負けたが、食い下がった。
すると、突然父は言った。
「もうやめるぞ」って。
え、なんで、なんで、もっとやりたいのに。
大人って勝手だ!
やりたい気持ちなんてわかってもらえない・・・、
なんてその頃は思っていた。

でも今はちょっと違う。
やっぱり父は小学生パワーに負けて、疲れちゃったんだ。
幼児でもこのパワー。
小学生だったら、たとえ働き盛りであっても、
エンドレスの相手はできないだろうなっと思う。

年を取るってことも悪くない。
分かることが増えていくから。

とそんな大相撲ならぬ小相撲の一コマでした。

おまけ。
かがくいひろしさんは大好きな絵本作家です。
残念ながら50代初めの働き盛りに亡くなられてしまいました。
でもとても味のあるリズムのある絵本をたくさん残されています。


 かがくいひろし「だるまさんが」ブロンズ社


 かがくいひろし「うめじいのたんじょうび」 講談社








二世帯同居始まるースキップの巻-

2016-03-12 10:11:25 | 二世帯同居
いよいよ二世帯同居が始まった。

その日、お迎えの祖父(夫)と一緒に
保育園から電車に乗って帰ってきたTP(6歳)とKJ(4歳)。
迎えに行った祖母の私と伯母を見つけるとワーッと走ってきた。

それもつかの間、TPは叔母と一緒に
あっという間に新しい家に向かって走り去った。
6歳って足がこんなに早かったっけ・・。
とても追いつけない。

すると、弟のKJは
「ねえ、おばあちゃん、スキップできる?ギャロップは?」と聞いてきた。
こちらも歩くのがもどかしそう。
大きく足を上げながら、見事なスキップ!
「KJね、できるようになったんだよ!」と見せてくれた。
私もついていこうと、得意(だったはず)のスキップをやった。

え、なに、なに??この体の重さは??
え、スキップって軽やかで気持ちのいいものだったはずじゃあなかったっけ??

小学校一年生の時、放課後、近所の友達のところに行くとき、
私は必ずスキップをして行ったのを覚えている。

あるとき近所のおばさんが声をかけてきた。
「いつもスキップ、元気ねえ。」
え、どうして?
大人ってなんでスキップしないんだろう??
どうして歩いてなんていられるんだろう??

私は本当に不思議だった。
あんなに気持ちいいスキップを何で大人はしないんだろう・・・。

それから60年近くが経ち、その訳がわかった。
大人ってもう体が重いんだ。
それに、走ってまで行きたい場所が本当に少なくなっちゃったってことを。

それでも、私は頑張った。
KJと一緒にスキップしようと。
うわー、重い、重い、重いよう・・・。
これが大人になるってことか。
いえ、高齢者になるってことかも知れない。

高齢者同士では気付きにくい、体力ギャップ。
6歳はおろか、4歳の子どもにもついていくのがやっとなんて・・。

そんな現実を突きつけられた初っ端の二世帯同居の始まり。
これから、どんなことを感じながら過ごしていくのだろうと、
それもまたちょっぴり楽しみ。

さあ、これからストレッチしなくっちゃ。
でも、あの軽やかなスキップは果たして戻ってくるのだろうか?
無理そうと思った二世帯同居一日目の一コマでした。

父のことーケアハウス見学記ー

2016-03-09 12:30:07 | 父とのこと
前回のブログでも書いたように、
父は今の療養病棟ありの病院から4月末くらいには
転院せざるを得なくなった。

11月に今の病院に転院した時には考えられないことだ。
その時は、医者にはすぐにも死んでしまいそうに言わた。
積極的な治療は父を苦しめるだけだとも。

父は胃瘻をしての入院だった。
ゆっくり胃瘻をしていると、
その管を引っ張ったりしてしまうので、
注射器のようなシリンダで注入し、
その時間は1分くらい。
早すぎるのでびっくりだが、
今のところ父はそれで大丈夫なのだ。

入院後100日以上が経過し、
医者の説明によれば、
この間に保険点数の換算方が変わったということで、
これ以上父を入院させていると、
病院に対する私たちの支払いは変わらないが、
病院に支払われる対価がぐっと少なくなるということだった。
つまり父の入院期間が長くなればなるほど
病院の赤字がかさみ、それで病院がつぶれたら、
医療も何もできなくなるという、単刀直入な説明だった。

私たちは、やっとここで父は最後まで過ごせると安心していた。
でも、ある意味、車いすにも座れるようになった父は
この病院には居られないのだ。

院内のソーシャルワーカーに相談して、
早速次の住処を探すことになった。

その日、妹はその町の特養を2か所訪れ、話を聞いた。
しかし、胃瘻やたんの吸引等の医療行為が必要な場合は
なかなか難しいということも分かった。

特養に入ってから胃瘻になったり、
たんの吸引が必要になった人には対応するが、
初めからそういう場合は難しいということだった。
夜間に看護師がいるか、
胃瘻とたんの吸引をできる介護士がいなければ難しい。
それに御多聞に漏れず、何か月も待たなくてはならない。

そのあと、今度はケアハウスを見学した。
この町にもケアハウスはいくつかあるが、
夜間常駐の看護師のいるところはここしかなかった。
敷地内にクリニックや地域の在宅介護ステーションも置いている。
ケアハウスとは基本的にはケア付きアパート。
アパートを借りた住人が必要に応じて在宅介護を受けられるという仕組みだ。
そこが、特養や介護つき有料老人ホームと違うところと言えようか。

私たちが見学したケアハウスは、
見た目は介護付き有料老人ホームと変わらないと思った。
姑が入っていた施設を小規模にした感じだった。

以前父の入っていた老健よりは小規模だからだろうか、
施設、施設した感じがなかった。

では、施設、施設した感じとは何か・・・・。
それは、ある時間みんな車いすで、デイルームに連れてこられて
置きっぱなしといったような、
或は、トイレの前に車いすが数珠つなぎっと言った感じのことだ。
歩行器で歩くことはできても、あるいは手をつなげば歩ける人も、
一様に車いすという、一律性と言おうか・・・。

集団生活だから仕方がないと言えばそうなのだが、
なんだかね・・・、とずっと思っていた。

このケアハウスはそんな感じがしなかったので、
ほぼここに決定することにした。

今までの病院と違って、部屋を借りるのだから、
自分の持ち物を持ち込めることができる、
というか、持ち込まなくてはならない。

父の家の父の部屋に置きっぱなしになっている、
父の身の回りの物あれこれ・・・、
「ねえねえ、お父さんが好きだったカレンダーの切り抜きの美人画、
それに、雑誌『プレイボーイ』のグラビア、今でもわかるかしらねえ??」

病院よりは父の部屋らしくなるのかななんて思いながら、
ケアハウスをあとにして、父の入院先の病院に向かった。

この日、父のベッドのそばで、
「お父さん、R子よ、R子」(私)
「T子よ、T子。わかる?」(妹)
「おお、R子か、T子か」(父)と言ってパッと顔が明るくなった。

「じゃあな、メダンでモニャモニャ・・」(父)と手を出し私たちと握手。
父は母が亡くなってからこの10年余り、
帰るときは必ず私たちと握手していたのだ。
私たちはあっという間の面会を終わった。
メダンとは父が戦前住んでいた
インドネシア、スマトラ島の町の名だ。
どういう関係があるのかはわからなかったが、
嬉しそうな顔を見て、私たちはホッと肩をなでおろした。

「今日はいい日だったわねえ。明るい気持ちで帰れるね」と妹。
本当にいろんな日があるけれど、そしてまた父の住処は移るけれど、
何とかやっていかれそうと思った今日なのでした。