徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

ウィッグと子どもー垣間見た小学1年生の死生観ー

2017-03-26 11:57:34 | 子どもの情景
この数年、抗がん剤の治療を受けることがたびたびある。
薬によっては、脱毛も起こる。
いわゆる「ツルピカハゲマル」状態。

そのために、初めての治療の時に、
ウィッグを一つ奮発した。
その5年後、またもう一つ奮発した。
ところがこの時は、予定より脱毛量が少なかった。

それなら、このままいける!と、
私はもともとのベリーショートの髪型で通すことにした。
だから、ウィッグは未使用のままお蔵入りに。

ところが、今回の治療では、予想通りに脱毛が。
なので、お蔵から二つのウィッグを出して、
その日の気分に応じて使っている。

ところで、ウルトラマン家族と二世帯同居を始めて、
この3月で1年が経った。
ウルトラマン1号は無事小学1年生の課程を修了!
あの黄色い帽子とも、黄色いランドセルともお別れ。
「明日からもう黄色い帽子要らないんだよ!」と教えてくれた。
ウルトラマン2号もこの4月からは保育園の年長に進級する。

そんな二人と一年間一緒に住んでいるが、
私が徐々にツルピカハゲマル状態に近づいていっても、
二人はそのことに関して何か言うことはなかった。

私が帰宅して、ウィッグを取り外すと、
「かぶりたい!!」といって、
二人が取り合うことはあった。

幸いというか、なんというか、
私の頭は小さい。
だから、私のウィッグは
ウルトラマンたちの頭にもぴったりはまる。
その写真を撮って遊ぶこともしばしば。

そんなことは何回か繰り返した。
そして、みんなで大笑いした。

ところが、つい最近のこと、
私がウィッグをはずしていると、
1号がそばに来た。

「外に行くときは、それをつけて行くんだよね」(1号)
「そうよ」(私)
「家にいるときは外すんだよね」(1号)
「そうよ。ちょっと頭を自由にしたいしね」(私)
「だけど、外に行くときはつけるんだよね」(1号)
「うん」(私)

あれっ、どうしたんだろう。
こんなこと言ってきたのは初めてだ。
一体、何が気になったんだろう。
何に気づいたんだろう??

それ以上、1号は何も言わなかった。

私は、私の頭から髪の毛がなくなっていくことに対して、
彼らから何か言われたことは一度もなかった。
それは単に、毎日見慣れていて、
少しずつ変化していくものだから、
気にならないのかなと思っていた。

でも、今回1号は何かに気づいた。
外に出るときは必ずウィッグをかぶることの意味を
彼なりに考えたのだと思う。
何を考えたか、彼の口からは直接語られなかった。

けれど、それから少しして・・、
「おじいちゃんと、おばあちゃんは年取っているんだよね」(1号)
「そうね、年取っているわね」(私)
「おじいちゃんが先に死んで、それからおばあちゃんが死ぬんだよね」(1号)
「・・・・そうねえ・・・」(私)
「TP(自分のこと)が5年生のときには死んじゃうの?」(1号)
「それは、わからないわねえ・・・」(私)
「ふーん、でも年取ると死んじゃうんだよねえ」(1号)
「そうねえ、でも、誰でもそうなのよ」(私)
「・・・・」(1号)

会話はここで途絶えた。
でもふと思った。
孫たちと住んでから、
彼らは「おばあちゃんはいつ死んじゃうの?」
というようなことを、
この時のように、時々口にする。
いや、時々どころかしょっちゅうかもしれない。

三世代同居はまた、
孫たちにも「死」を考えさせているのだなと思う。
特に病気という同居人を持つ祖母と一緒に生活するってことは
そういうことなのかもしれない。

いつも思うけれど、
子どもは大人が考えるよりも、ずっと哲学的だ。

そんな1号はヨシタケシンスケさんの
「このあとどうしちゃおう」をよく広げている。

 ヨシタケシンスケ「このあとどうしちゃおう」 ブロンズ新社

そういえば、私も三世代同居だった。
祖父は私が小学校三年生の時に亡くなった。
私はその時考えた。
死ぬってことは、階段を上って天国に行くってことかな。
そこでも死んだら、また階段上ってさらに次の天国に行く。
こうして終わりはないんだなって。
それが今から60年近く前の私の死生観。
今と全く違うような、あまり変わらないような・・。

それと、どうしても涙の出ない自分に困ってしまったことも。
おじいちゃんが死んだんだから悲しくなきゃいけないのに、
涙がどうしても出てこないことに困惑した8歳でした。
おじいちゃんのこと、嫌いじゃなかったのにナゼ?

そんな、自分の中ではまだ片付いていないことが、
こうして三世代同居のおかげで、もう一度
考えるチャンスをもらえるんだなって思ったひと時でした。







50年後の修学旅行ー2017・3月京都編ー

2017-03-20 08:13:19 | 京都旅行から
このところ、2年程、10月、3月と
夫と一緒に京都への修学旅行を楽しんでいる。

秋の紅葉前、春の桜の前という時期。
本当は紅葉や桜の盛りに行きたいという思いも強い。
でも、でも、あの人出のことを考えると二の足を踏む。

燃えるような紅葉や、満開の桜、
そして桜吹雪は想像の世界で堪能する・・。

ということで、今年も桜の前のこの時期、
エッサカホイと「のぞみ」に乗って出かけた。
約2時間半の行程。

そう、50年前は修学旅行列車で、
帰りは夜行だった。
当時は新幹線ができたばかり。
まだ普通の中学生や、高校生が使えるものではなかった。
約10時間かけて日常から非日常に入ったわけだが、
今は2時間半で切り替えなくてはならない。
ここでも時代が変わったと思う。

ところで、
50年後の修学旅行と称して定期観光バスに乗った初回。
3泊4日で行ったのだが、そのうちの2日をバスでの観光。
何故かというと・・・、
この時期の「特別拝観」が見られるからという理由。

その結果。
疲れた・・・、そして一日に廻るお寺などの数が多すぎて、
頭の中で混乱が・・・。
宿に戻っても、パンフレットを見ないと
思い出せないという体たらく。

これはちょっとどうかなあ・・ということで、
その次からは、当たり前だけれど、
自分たちで選んでいくことにした。

若い時から行きたくて、
行きそこなっているところを中心に回った。
私の第一選択は、広隆寺だった。

広隆寺の「弥勒菩薩」にはずっとずっと会いたかった。
そして、ついに実現。
いまでも、そこで手に入れたお守りは
いつも一緒だ。

そしてもう一つ、行きたかったのが、
三千院と寂光院。
最後に行ったのが、学生時代の冬。
冬景色の寂光院では、院主さんとお話しできた。
本当に寒かったけれど、心が満たされたひと時だった。

それから、ずっと訪れたいと思っていた。
それを果たせたのは50年後。
この再訪は、桜の前の温かい春の日のことだった。

三千院には私たち夫婦のほかには
あと一組がいるばかりで、
本当に静かだった。
お庭の石づくりの童たちも
なんだかのんびり遊んでいた。
あの冬の日は寒くて、
お庭をゆっくり楽しむなんてことはとてもできなかった。
でもこのときは、この山里にある静かな三千院を堪能した。

それからあぜ道を通って、寂光院に向かった。
春の日差しは暖かく、寂光院に着くのが待ち遠しかった・・。

が、なんと、そこは火災に遭っていた。
平成12年(2000)、放火にあったという。
ご本尊の地蔵菩薩も焼け、今は修復されて
収蔵庫に安置されているという。

そのため、新たな地蔵菩薩が安置されていた。
鎌倉時代の製作当時と同じ色彩で再現されているという。
私が出会った寂光院のモノトーンの落ち着きとは対照的。

(寂光院HPより抜粋)

本堂も焼失したとかで、新たに再建されていた。
その本堂のきらびやかさも、
寂光院のわび・さびと言ったものを連想させる
私自身のもつイメージからは程遠かった。

私はそのとき、混乱した。

私が憧れたのは、
建礼門院が我が子を失い、
一族の滅びを目の前にしつつ、
自分が生き残ったことを引き受けて生きていくというその人生と、
50年前に出会った寂光院の静謐さをたたえた
その佇まいがぴったり一致していたからだと思う。

だから、そこにあった新地蔵菩薩の
五色に包まれた明るい美しさは
その建礼門院の運命にはそぐわない・・、
と私には思えるのだ。

でも、よく考えてみると、
元の地蔵菩薩が安置されたころは
この美しさ、きらびやかさがあったわけで、
それに焦がれてお参りする人々も多かったことと思う。

そんなことを思った2年前であったのだが・・、
今回の修学旅行でも、
またこれと同じ問題にぶち当たった。

今回の目玉の一つは大徳寺の聚光院を訪れることだった。
そこでは狩野松栄・永徳父子の障壁画が
普段の預け先である京都国立博物館から里帰りし、
あるべき場所で見られるという情報があったからだ。

15人ずつ40分かけて、説明していただける。
ただし、予約が必要。ほぼ予約で埋まっているという。

私たちはダメもとで、聚光院に向かった。
そして2名なら大丈夫と、その15人ツアーに加わることができた。

安倍龍太郎著「等伯」に松栄・永徳親子のことも描かれていたが、
それを彷彿とさせる、二人の障壁画だった。
優しさをたたえた松栄、
力強さと才気が溢れる永徳と行ったらいいだろうか。

それに続いて、千利休の茶室等の説明があった。
更に最後、2013年に落慶した書院に奉納された
千住博作「滝」。


新しい書院に新しい障壁画。

今まで見てきたのは、もう金泥が剥落した狩野父子の障壁画。
描かれた当時は時間や天候によって、様々な色を醸し出し、
さらにはかなりきらびやかなものであったことが想像できる。
が、今はそれは想像するしかない。
目の前にあるのは、色がほとんど剥落している。

色のあるものを見るのと、色あせたものを見るのでは
私たちの印象は大きく違う。

今回の修学旅行ではこの色の剥落ということから、
「古きもの」と「新しきもの」ということを
考えさせられた、いや帰京した今でも考えさせられている。

そんな私の今回のハイライトは
建仁寺に奉納されていた鳥羽美花作「舟出」。

これは新しきものの象徴。

建仁寺では前の修学旅行のときも
金澤翔子「風神雷神」に釘付けとなりました。
今回も同様、鳥羽美花さんの襖絵に釘付け。
それも建仁寺で、というところが共通。

お寺のお宝を拝見しながら、
今回私の中に浮かび上がってきたのは
「古きもの」と「新しきもの」を考えることなのでした。

心行くまで、同じ場所を訪ねることができるのも、
こうしてあれやこれや考えることができるのも、
50年後の修学旅行の大きな楽しみかなって思います。






調査書(内申書)悲哀

2017-03-10 20:06:29 | 子どもとおとな
この季節、大学入試は大方の決着がつく。
勤務校ではあと一つの入試を残している。

入試の前に、教員に一つの業務がある。
それは、高校からの調査書(内申書)に
目を通す、というものだ。

私は昨年、今年とその係りに当たっていた。
私学では入試を何回も行う。
その度に、調査書に目を通した。

そして、いつも悲しくなることがあった。
成績や、出席日数等は型通りに書かれている。

私が悲しくなるのは、その後に続く頁だ。
高校3年間、各年度、学期ごとに
その生徒が、何を頑張ったか、
どんなことに興味を持って取り組んだか、
或は授業にどんなふうに取り組んだか等々を書く頁。
担任が書き、校長が印鑑を押す。

生徒が頑張った、どんな小さいことでも
丁寧に取り上げて、書かれているものが30%ほどだろうか。
あとは、かなり型通りに書いているなと思われるものが
半数ほど。

そして残りの20%くらいが、
ほぼコピーアンドペースト、つまりコピペの文章。
例えば、1学年から3学年まで通して、
「特記事項なし」のみ。
あるいは「自分の興味のあることに取り組んだ」
という抽象的な事柄のみ。

どうして、コピペと分かるかというと、
同じ学校からの受験生がいるので、
彼らの調査書を比べてみると、ほぼ同じだからだ。

今回は、全くコピペもコピペ、「特記事項なし」のみしか
書かれていない調査書にぶつかった。

この生徒だって、3年間高校生活を生きてきただろうに、
教師からみれば「特記事項なし」。
本当に生徒が可哀想になってしまう。
こちらがその生徒の人となりを知る手掛かりはゼロ。
かかれているのは評定平均値と、出席・欠席日数のみ。

教師は何を考えているのだろう。
受験はその日のテストの成績の
一発勝負で、調査書なんかは関係ないと考えて
手を抜いているのかもしれないけれど、
これではあんまりだ。
私が生徒で、この中味を見たら、
教師を信じられなくなる。

教師という職業が本当に忙しいというのは
承知しているつもり。
でも、合否にほぼ関係ないとはいえ、
だからって、コピペで済ませられるっていうのは
やはり教師と生徒の間に「人としてのかかわり」ってものが
なかったことを思わせる。

そして、さらに加えて、そこには校長印が押されている。
校長先生はその教師に一言言わなかったのだろうか?
これでいいと思ったのだろうか??
思ったから印を押したとしか思えない。
校長先生も、どうせ誰も読まないからと思ったのだろか?

と、そんなことを考えた、
うら哀しい「調査書精査」の一コマでした。