徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

5歳児はストーリーテラーその1「母への手紙」

2015-07-27 07:32:01 | 子どもの情景


これは孫のTPが保育園で母親に宛てて書いた手紙。
この日、母親がお迎えに行くと、
TPはこの手紙を握りしめて母親を待っていた。

祖母の私なりの解読をすると・・
カッコ内が解読内容。
・・・・・・・・・・・・
おかあさんへ

けさはおつかれさまでした
母親はTPより早く会社に出かけるからかな
それを慮っていっているのかな)


しごとしてる
今会社で仕事してる?)

あと元気にしている
(今、お母さん会社で元気にしている?)

TPくんもげんきにしているよ
(僕も保育園で元気にしているよ)

たのしかたっね
(この内容は祖母には解読不可能。きっと母親ならわかるのだろう)

きょうおかあさんが6じだよね
(今日のお迎えは6時で、お母さんが来てくれるんだよね)

おげんきにまってます
(ぼく、げんきでまってるよ)

しごとがおわるまでまってます
(お母さんの仕事が終わるまでちゃんと待っているよ)

2015年
これは何年何組という意味の「年」。
(TPはまだ小学校に上がっていない。
だから「年」の意味を今年、つまり2015年のことだと思って2015と書いたんだな)


TPより
(ここはフルネームで書かれていた)

・・・・・・・・・・・・

それを読んだ母親は
目が真っ赤になったという。
「お母さん、泣いているの?」(TP)
「ううん、悲しくて泣いているんじゃないの。
とっても嬉しいときって、
嬉し涙が出るでしょう?(母親)

けれど、嬉し涙という言葉は知っていても、
そしてそれを文章に使うことはできても、
目の前で母親が涙を見せたら
狼狽するのもまた
この年齢の子どもの偽りない姿。

母親はこの手紙はクラス全体の課題として書いたのか、
と保育者に尋ねた。
遅番の保育者はクラスの担任ではないので、
どちらだかわからなかった。
しかし、TPのクラスメイトのA君が
「書いたのはTPくんだけだよ」と教えてくれたという。

TPは0歳児の時からこの保育園に通っている。
それから5年が経った。
今では保育園に行くことを嫌がることもなく、
毎日通っている。

「文字」を書くという表現方法を手に入れ、
それを「ものがたる」力を得た今、
TPが自分から書きたいと思ったのは母親への手紙。

その手紙は、働いている母親への心遣いと、
母親が仕事が終わるまでちゃんと待っている、
それも元気に待っているよというメッセージ。

ふと思った。
保育園の子どもたちって
本当に頑張っているんだなって。
いろんな思いを心に秘めながら、
子どもたちは日を送っているのだ。

母親が家にいることが当たり前だった私自身は
母親は空気のような存在だった。
空気のことは意識することはない。

でも保育園の子どもたちにとっては
母親は空気ではないのだ。
空気よりもっと「濃い」存在なのだ。

幼い子どもたちは、時にこのように
大人以上のこまやかな心もちの世界に生きていることを
垣間見させてくれる。

それに出会った母親。
毎日忙しく仕事や家事をこなしながら、
それでも子どもを保育園に預けていることに
どこかに「これでいいのか」という思いがある。
それが時には罪悪感にさえなる。
まだまだ、今の日本の母親はそんな状況に置かれているのだと思う。

母親の流した涙、
そこには数えきれない思いが詰まっている・・・。










父のことーついに老健(介護老人保健施設)見学ー

2015-07-23 08:26:52 | 父とのこと
父が緊急に入院して10日が経った。
緊急状況は脱し、落ち着いてきていた。

いよいよ退院先の住処を探さなくてはならない。

特に緊急を要する処置が必要ない場合、
ばい菌の住みかである病院に長居は無用、
と医者は言った。

これは病院の医者だけでなく、かかりつけ医も同じ意見。
ともかく早く出しなさい!というアドバイス。

と言っても、築百年の、バリアだらけの実家に戻ることは難しい。
この転倒事件で、父はあっという間に、
自力で歩けなくなってしまったからだ。

今は少しずつ歩く練習ということがだ、
なかなか歩くまでには至っていないのが実情。

そこで相談したのが、院内にある連携室。
ここにはソーシャルワーカがいる。
そこに相談するように言われた。

1年半前に亡くなった姑も、介護施設で倒れ、入院。
そして急性症状が治まると介護施設に戻った。
しかし98歳という高齢、また施設で倒れた。
そして入院先の病院で重い脳梗塞を起こした。
もう一般病院にはいられない。
そこで相談を受けてくれたのがやはり院内のソーシャルワーカ。
相談して、療養型の介護施設に転院した。
姑はそこで天寿を全うした。

この時ソーシャルワーカが親身になって
いろいろ相談に乗ってくれ、さらに先の見通し、
その後の準備を整えてくれた。

その経験があったから、
父の場合も上手くいくことを祈った。

結果は、親身なソーシャルワーカに出会うことになった。
父の状況から、リハビリのしっかりしている
介護老人保健施設(老健)を紹介された。
妹と私は、いろいろ他の介護施設も検討したが、
実家も近いこの老健を見学することにした。

2年前、やはり暑かった夏、父は脱水症状を起こした。
この時も、もう実家での一人暮らしは無理かと、
ケアマネに相談して、ある老健を見学した。
夏の暑い間だけでもと考えてのことである。

しかし、そこで見たた光景は・・・。
まず立地だが、その町の山の奥の山の上にある。
景色は抜群。
しかし、町中からは離れたその老健に行くには
狭い山道を車で行くしかない。
バスも通っていない。
タクシーに乗りながら、
なんだかうら淋しい気持ちになった。

広くたっぷりした施設内はゆったりしていたが、
壁はコンクリートの打ちっぱなし。
現代的だが、あたたかさがちょっとなあ・・・、なんて思った。

個室も複数部屋もあり、それは介護施設と同様。
利用者は車いすで移動している人がほとんどだった。

この時、私たちには、父にはまだ早いと直感した。
車いすに乗りっぱなしの父は想像ができなかったからだ。

そして、奇妙な光景に出合った。
車いすが2列になってそれぞれ10台位並んでいる。
何に並んでいるのですか?と聞いたら、
「あ、あれはトイレの順番を待っているのです」(職員)
「そうですか・・・・・・」(私)

やっぱりまだ早い。
というのが当時の私たちの出した結論で、
父はそのあと2年間ヘルパーさんたちに助けられながら
一人暮らしを続けた。

しかし、今回は前回とは違う。
もう病院でも車椅子。
そしてその状況がよく理解できていない。
「どうしてここにいるんだ?」(父)
「この間階段で転んで、救急車で運ばれたでしょ」(妹)
「そうかあ…苦笑い」(父)
そして、それ以上何も言わない。

今度見学した老健は、町中にある。
駅から歩いて行かれる。
施設の規模的には以前見学したところと変わらないが、
もう少し木の柔らかさがある。

2階、3階部分が施設部分。
見学させていただいた。
100人の利用者がそれぞれ50人ずつ各階にいる。
午前中のその時間、
多くの利用者は食堂に集まっていた(集められていた?)
何か読んだり、テレビを見ている人もいないではなかったが、
居眠りしたり、ボーっとしたり、それぞれの時間を過ごしていた。

家だったら、高齢者が一人、うたた寝をしてても、
それは自然な光景だ。

でも、50人という人数はさすがに圧巻だった。
集まってはいても、それぞれに関係性はなく・・。
それはなんと言ったらいいか・・・。
ちょっと言葉に詰まった。

ただ、今回は前回と違う。
父がこの中の一人になったら・・・、
と考えると、やはり家の方がいいか・・・。

でも待てよ、
一日3回、ヘルパーさんにみてもらっても
合計時間は3時間ほど。
残りの20時間近い時間を、
父は果たして無事に過ごすことができるか…。

しばし悩んだ。
そして出した結論。
やはり20時間1人は今に父には難しい。
ここにお願いしよう。

帰り道、大食堂に集っている
50人の車いすの高齢者群の光景が頭から離れなかった。

直近の記憶が長続きしなくなった故に
穏やかに過ごしている父。

それならば日常をここで過ごすことも苦痛ではないかもしれない。
と、信じつつ、入所の日を待つことになった。

集めなければ効率よく面倒は見られないというのは頭ではよくわかる。
でも同じ状態の人が一定数以上集まっているというのは
何か不自然だという気持ちもぬぐえない。

心は千々に乱れながら
少しでも父が気持ちよくと思う親不孝娘なのでした。


父のことー父がいない!!!-その後2

2015-07-19 08:50:59 | 父とのこと
父が緊急入院して1週間。
私たちはまた実家に向かって車を走らせた。

この1週間、週日のうち4日を妹が様子を見てくれていた。
私より離れて住んでいる妹は実家まで3時間かかる。
だから、私たちは実家の近くにアパートを借りている。

実家は築100年近い。
父は、私たちが父の前で動き回るのを嫌がった。
自分のことは自分でするからいじるな!
ここは俺のテリトリーだ!というオーラが常にあった。

父の気持ちを考えて・・・、というより、
父の気持ちが爆発するとお互い嫌な気持ちになるので、
私たちは実家に行っても片付け一つなかなかできなかった。
11年前に母が亡くなってから、
だから実家はますます荒れ果てた。

それでも実家。
父がいなければ空き家になるので気になる。
おまけに超スロー台風の影響で雨が降り続いたここ数日。
雨漏りも心配だし、カビも心配。

雨漏りの水は、妹がかき出してくれていた。
ゴキブリや小バエなどの虫退治も同様。

妹とはお互いにその時できることをやっている。

今日は私の番。
実家に着くとすぐ、
車を走らせてくれた夫と共に窓という窓を開け放った。
台風一過の晴天という日ではなかったが、
気持ちよい風が実家を吹き抜けた。

夫、掃除機、私、ぞうきん。
それぞれ分担して、片づけにかかった。

母の部屋は母が亡くなって以来、
ほぼ開かずの間になっている。
ここは妹と一緒に片づけよう。
だから、今日は手を付けない。

父の部屋や父のものを置いてある部屋を中心に
もう絶対使わないと思われるものを
持ってきたゴミ袋に詰めた。

実は父は片付けの名人・・・、だった。
自分のテリトリーのものだけは几帳面にしっかり片づけていた。
片付けの苦手な母をよく罵倒していたっけ。
そんなに怒らなくてもいいのに・・・、といつも思った。

そんな父は認知症が少しずつ進んでくるにつれて、
片づけ方が変わっていった。

メガネ入れにハサミがあったり、
箱の中の、そのまた箱の中に
テレビのコントローラが丁寧にしまわれていたり。

だから、結局父はいつも必要なものが出てこないことに困っていた。

「またなくなっちゃったよ。テレビのスイッチ」
こんなことがしょっちゅうになっていた。
「誰が持っていくんだろうなあ。
あそこに穴が開いているから、そこから入ってきて持っていくのかな??」
妄想国の住人と行き来のある父はそんなことを言ったりもした。

でも、几帳面な片づけ魔であることは変わりなく、
夜中に起きだして、大事なものの置き場所を常に変更していた。
そして、なにもなくなった・・・、
とはちょっとオーバーだけれど、
それに近い状態がここのところずっと続いていた。

そしてこの日、
父の小銭が、あちらからもこちらからも出てきた。

まだ、しっかりしていた頃、
「スーパーで買い物をするときに、面倒くさいから札で払うんだよ。
それで、おつりが出る。それが一杯になっちゃったから、
これを持っていってくれないか」と何回か頼まれた。
そのたびに小銭を計算して、その分を紙幣と取り換えた。

今、ここにある小銭はスーパーの買い物のおつりではない。
週1回、お使いに行ってくれるヘルパーさんへの支払いのおつりだ。

それでも以前は、その小銭たちは、
時に貯金箱に、時に空き缶に丁寧に集められていた。

でも今日は違う。
あっちからもこっちからも出てくるのだ。
もう、一か所に集めることは難しくなっていたんだな、
ふっとそんなことを思い、ちょっぴりホロリ。

そんなことをしてから病院に向かった。
この日、父は車いすに座ってデイルームにいた。
「仮眠しているうちに時が経っちゃうんだよなあ」(父)
「家はどうなっているんだ?」(父)
「私たちが時々行って様子をみているわよ」(私)
「そうか、それなら安心だな」(父)

と、そんな会話を交わした。
なんか、ゆったりしている。
よかったな。

この前の日、妹は主治医と面談した。
主治医からは、病院では寝かされていることが多いし、
ばい菌も多いので、今の○○さん(父のこと)にはいい環境ではない、
だから、施設を探すようにとアドバイスを受けた。
認知症も私たち家族が認識しているより、ずっと進行しているとのこと。
ヘルパーさんたちは本当によくやってくれていましたね、すごい!とも。
もう本人の意向を尊重することは難しい、
だって理解力が無くなっていますからねとも言われたという。

父はもう自宅に帰るのは難しい。
足が出なくなっている。
考えてみるとほぼ全介助に近い。
本当によくここまで一人暮らしを支えてもらった。
小さな町の献身的なヘルパーさんやケアマネさんに改めて感謝。
本当にありがたかった。

これから妹と次の父の住みかを探す日々が始まる。


父のことー父がいない!!!ーその後 1

2015-07-15 07:49:31 | 父とのこと
父が入院した翌日、
私たちはまた車を飛ばした。
幸い日曜日。すぐ動くことができた。

突然のことで、病院で足りないものもあった。
でもそれよりも何よりも、
痰を絡ませながら眠っていた父のことが心配だった。

今日は日曜日。
昼下がりの東名は空いていた。

途中、実家に寄って必要なものを揃え、病院に向かった。

エレベータで病室のある階へ。
降りるとすぐにサンルームがある。

あっ、お父さんが、お父さんが座っている。
まさかの光景!

昨日はあんなに痰を絡ませていていたのに、
車椅子に座っている。

「お父さん、大丈夫?」(私)
「おお・・・」(父)
「少し元気になってよかったわねえ」(私)

「ここはどこだ?」(父)
「病院よ。昨日救急車で運ばれてきたのよ}(私)
「うーーーん。そうかあ。病院かあ」(父)
「そう、いつもお父さんが通っている××病院よ」(私)
「ああ、そうかあ。××病院か。じゃあ安心だな。金の方も大丈夫だな」(父)
「もちろん!大丈夫!」(私)

昨日、階段の上で倒れた時、しこたま打った頬とあごの赤痣が痛々しい。
でも元気になっている。
座っている。

凄い回復力。
さすが90歳を超える命を与えられた人は
生命力が違うと妙に感心。

父は元気になると、脳も活性化されるのか、
妄想国の住人も訪れるようになる。
もう、亡くなった叔父や叔母は来ないのかとか、
親戚はどうしたとか、そんな話にもなった。

「お父さん、叔父ちゃんも叔母ちゃんももう亡くなっているでしょ」(私)
「・・・・そうだったなあ・・・・」(父)

そんな会話が繰り返された。
そう、会話になったのだ。

これならいつも通り、
もしかしたら思ったより早く退院できるかもしれない。
実家には戻れないと思ったけれど、
もしかしたら戻れるかも・・・。

こうやって、ちょっと元気になった父の写真をとって、
妹や子どもたちに送った。
皆も心配してたから・・・。

小一時間いて、私たちは帰ることに。
「あしたはTちゃん(妹)が来るからね」(私)
「そんなにしょっちゅう来なくっても大丈夫だ。
無理するなって言っておけ」(父)

「わかった。でも来ると思うから」(私)
「そうか」(父)

と、いつもと変わらぬ会話。

ホーッと安心して、私たちは家路についた。
このままなら、大丈夫そうと妹にも電話した。

次の日。
妹が父を訪ねた。
今度は父はベッドの上だった。
そしてほとんど自力では動かなかった・・・。

と、一進一退のその後なのでした。

喜ぶのはまだ早いのかも・・・。

今日も妹は父のところに行ってくれる。
3時間かけて・・・。

老姉妹、超老父の病院通いを頑張るの巻でした。


父のことー父がいない!!!-

2015-07-12 10:24:28 | 父とのこと
久し振りの梅雨の晴れ間。
私たち夫婦は父のところに車を走らせた。

いつも家を出発すると妹に連絡するのが習慣になっている。
ところがこの日、いくら探しても携帯が見つからない!
仕方がない、夫のを借りよう。

だが珍しいことに妹は電話口に出ない。
土曜日だから出かけちゃったのかな・・。

まあ仕方ないか。
と、私たちはドライブを続けた。
実家のある小さな町の山々は緑濃い姿で迎えてくれた。

いつものように鍵を開けて中に入った。
「おとうさん、ただいまー」(私)
「・・・・・」
「あれ、ベッドにいないわ。トイレかしら?」(私)

トイレにもいない。
おかしい・・・。
襖をあけて一階中を探し回った。
でもいない。

まさか、二階では・・・。
急いで階段を駆け上がった。
「おとうさーん」(私)
「・・・・」
あっちを見ても、こっちを見てもいない!

「ねえ、お父さんがいない!」(私)
「今、風呂場を見たけれど、いないなあ」(夫)

「出てっちゃったのかなあ」(私)半分パニック。
「でも、いま俺たち鍵を開けて入ってきたよな。鍵はかかってたんだ」(夫)
「えっ、どういうこと!!」(私)
「出ていないってことだよ」(夫)
「出ていないったって、いないじゃない!!」(私)パニック。

そして二人でもう一度探した。
いない・・・。

落ち着け、落ち着け・・。
父の居間のテーブルをみると
ヘルパーさんからのいつもの書き置きが。
「今日はもう誰も来ません。明日は8時半に来ます。
ゆっくりお休みください」と書かれていた。

ということは・・・。
今朝何かがあった!
ヘルパーさんが朝来ていれば
「午後1時に伺います」という次の予定が書かれているはずだから。

カレンダーに確か、ヘルパーの事務所の連絡先が書かれているはず!
私は震える手で、その番号を押した。

事務所の人はすぐ出た。

「今朝、お父様が階段の最上段でうつぶせで倒れられていて、
それを発見したヘルパーから連絡が入りました。
妹さんと相談して、救急車搬送しました。
××病院にいらっしゃいます。
いまヘルパーがついています。
ご家族が到着したら、そこで交代させていただくことになっています。
確か、ご家族が今向かわれているけれど
あと2時間はかかるというお話でしたが」(事務所の方)

「それは妹だと思います。
私は姉の方で、それを知らずにたずねて来たら、
父がいなかったものですから」(私)

そうだったのか。
だから妹は家にいなかったのだ。

妹と連絡とらなきゃ。
妹も連絡が取れなくて困っているはず。
すぐに、気を取り直して、娘のところに連絡を入れ、
妹に夫の携帯に連絡を欲しいと伝えてと私はまくし立ててしまった。

妹と連絡がついてわかったこと。
私が家を出たのは9時前。
妹がケアマネから連絡をもらったのが9時ちょっと過ぎ。

私は携帯を忘れ、妹からの連絡は受け取れない。
一方、夫の携帯には妹の携帯番号は入っていない。
家の電話番号に電話しても、もうすでに実家に向かっていたから出なかった。
それで、連絡が取れなくなったというわけだ。

救急車で搬送されたから、鍵がかかっていた。
ヘルパーさんが出るときにかけてくれたのだ。
謎は解けた!
私たちは取るものもとりあえず××病院に車を走らせた。

病院では、ヘルパーさんが律儀に待っていてくれた。
父はMRIを撮っているとという。
ここで、簡単に朝の事情を伺った。
そして、付き添いを交代した。

それから1時間ほどで妹も合流。
父の検査の結果を待つことに。

「前もこんなことあったよね」(妹)
「そうだっけ」(私)
「なんか、肝心の時に携帯忘れちゃうのってね」(妹)
「ほんと、ドジよね。今日に限ってね。
あ、今日だけじゃないかもしれないけれど・・・」(私)

と、そんなこんなの話をしながら待っていると、
医者からの説明があった。

「熱があり、炎症反応が出ています。
この原因が今日の検査では特定できなかったのです。
詳しいことは水曜日に受診してからということになります」(医者)
「え、今日はこのまま連れて帰るんですか?」(私)
「そうです」(医師)
「今呼んでも答えないくらい眠っているのにですか?
なんとか入院させていただけないでしょうか?」(私) 
「このまま入院すると、そのままになりますよ」(医師)
「そのままって、病院から出られないってことですか?」(私)
「そうです。もう自宅に帰るのは無理でしょう」(医師)
「入院させていただいている間に、施設を頑張って探しますから」(私)
「では、もう一度考えさせて下さい」(医師)

それから1時間以上待った。
出てきた医師は「入院できそうです。
ただし5000円の差額ベッド代が発生しますがそれでも良いですか?」
私と妹はよろしくお願いしますと答えた。

とりあえずの病名は「不明熱」となっていた。
循環器内科に入院することになった。

父の寝姿はいつもと違う。
レビー小体型認知症持ちなので、眠ると大声で寝言を言ったりする。
でもこの日はそうではなくて、痰が絡んだような寝息だ。
こんなことは初めて。
看護師さんが痰の吸引をしてくれた。
これも初めて。

妹も私も、父のステージがいつもと違うと直感した。

あ、父が動いた。
「おとうさーん、わかる?」(妹と私)
「ゴニョゴニョゴニョ」(父)
「わかってる感じよね」(私)
「うん」(妹)

「お父さん、こんにちは」(夫)
「おお!△△君か。ゴニョゴニョゴニョ」(父)

娘の時よりも大きな声。
婿だってわかったんだ。
だから、しっかりしなきゃって思って声が大きくなったに違いない。
というのが、妹と私の見解。

でも、ともかく病院に入れてもらえた。
これで夜も安心だ・・・。

そして、入院の誓約書を書く段になって、
私はまたドジをしたことに気づいた。
いつもは必ず筆箱に印鑑を入れているのに、
今日に限って、「きょうはいらないわ」って思って
筆箱を置いてきてしまったのだ。

遠い病院をまた行ったり来たりしなくてはならない。
が、仕方がないか。
これが、高齢の娘たちが超高齢の親の面倒を見るということなのだ。

しばらく無人になる実家に戻って、
ごみの始末やら貴重品の始末をした。
そしてご近所にも挨拶に。

父はもうこの家に足を踏み入れることはできないのだろうか。
第三者からみれば無理と言われてしまうような一人暮らしを、
ケアマネやヘルパーさんに助けられて続けてきたが、
遂に倒れた。

以前、父と妹と私で話していたことがあった。
一人暮らしをする以上一人で階段から転げ落ちて
そのままってこともあるかもしれないけれど、
それも本望ということにしようって。
外聞は悪いけれど、それが父が自分の家に住めるだけ住みたいっていう意思。

そしてその通りになった。
でも、今回もヘルパーさんに助けられて、
命だけは繋ぐことができた。

ヘルパーさんたちは本当にすごい、とまた思った。

これからまた、父に会いに行く。
少しでも元気になっていることを祈りながら。