徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

「オレ、カエルやめるや」-絵本は総合芸術!!-

2018-08-16 09:53:35 | 絵本・児童書 今日の一冊

久々にガハガハ笑った一冊。
「オレ、カエルやめるや」

ぶん デヴ・ペティ  え マイク・ボルト  やく こばやしけんたろう マイクロマガジン社

もう、読むのが楽しくて楽しくて仕方がない。
我慢できずに、ゼミで学生に読み聞かせてしまった・・。

家で孫たちに読み聞かせようとしたら
ウルトラマン1号(小3)も2号(小1)も
自分で読むといって、私の手から持っていってしまった。
(読み聞かせ叶わず・・・)

で、最後の望み、ウルトラマン3号(3歳児)。
父親の転勤先のアフリカ圏の国から
最近帰国したばかり。
遊びに来たのをこれ幸いとばかり
これ読むわよと言って誘ってしまった。

読み始めたらじーっと見ていた。
しめしめ、よーし、
うーんと楽しく読もうっとと思っていたら、
近くで遊んでいた1号、2号の動きにつられて
3号もそちらに合流!
読み聞かせ、またもや貫徹できず・・。
残念無念四角面!

と、孫たちへの読み聞かせ願望は
あえなく立ち消えたが、
なんたって面白い!


カバーの袖の紹介文をみると
「あのさ、オレさ、
オタマジャクシからカエルになったのよ。
カエルの次はなにになろうかな。
え?カエルはカエルのまんま?
いやいや。」

オタマジャクシからカエルになったこの子、
今度は何になろうかと考える。
カエルってのはなんだかヌルヌルしてるし、
もっとかわいくてふさふさのものになりたいと願う。

それで次々にネコ、ブタ、ウサギ、
フクロウになりたいと父さんに相談。

でも父さんガエルは
カエルであることはやめられないんだの一点張り。

そこに現れたオオカミ。
その話を聞いて、あることを話す。
それを聞いた子ガエル、
ヌルヌルしているカエルでよかったと納得し、
ずっとカエルであることを受け入れる。

と、このあらすじをみると、
単に子ガエルがアイデンティティークライシスを
乗り越えるお話なのだが・・・。

この絵本はそれだけでは終わらない。

デブ・ペティのかっちりした筋立て。
ただ文章はすべて登場人物のセリフとなっている。
そのセリフがすべて吹き出しで描かれている。

さらに加えて
マイク・ボルトの伸びやかな絵。

そして最後は小林賢太郎の秀逸な訳。
伸びやかな絵とのぴったり感が並ではない。

さらに加えて、その吹き出しの中の
字体のフォントや大きさが、
会話の主人公の気持ちをそのまま表している。

そのフォントをみれば
話し手の気持ちが一発で入ってくるという感じ。


「オレ、カエルやめるや」裏表紙

絵本を絵でも、お話でも、文章の字体でも
さらに訳であっても、
いえ、そのすべてで楽しめるというのを
この暑い中、実感した小さな楽しい一冊でした。

絵本であっても、ついつい字を読んで
それで終わってしまっていた自分の読み方を
楽しく反省してしまいました。

この夏はこんな風にシュールな絵本・児童書と
ガハガハ楽しめる中に人生の「真実」がポッと入っているような
絵本探しに明け暮れています。






絵本って面白難しい!ーアンソニー・ブラウン作「森のなかへ」を巡って

2018-08-03 15:46:18 | 絵本・児童書 今日の一冊
ここに1冊の絵本がある。


 アンソニー・ブラウン作・灰島かり訳 「森のなかへ」評論社


今、この絵本を前に、
絵本って何?という大難題に突き当たっている。

この本を孫二人の目につくところに置いておいた。
孫とはウルトラマン1号(3年生男児)と2号(1年生男児)。

まず、1号が気付いた。
そして手に取った。
じっと読む。
そして読み終えて、その場を去った。

それから数日後、彼はまたその「森のなか」を手にとっていた。
「面白いの?」(しまった、野暮なことをきいちゃった・・私)
「うーん、普通かな」(1号)
「でも、あの場面、
赤ずきんちゃんのお話と似た場面があったでしょ。
おばあさんの声が変だとわかった時、
次のページめくるとき、どきどきしたんじゃないの?」
(なーんて、さらに余計なことをきいてしまった私・・)
「そう」(1号)
「でも、おばあさんの笑った顔が出てきたからホッとしたわよね」
(もう言わなくてもいいのに!!自己嫌悪・・)
「・・。(ニコニコッ!)」(1号)

2号。1年生男児。
彼は、「なにこれ」と言って手に取った。
そして、1頁ずつ丹念にめくってみていった。
読み終わった瞬間、
「つまんない」と、絵本をほっぽり投げた。

二人の反応。
まあ、そうかなと思った私。
実は、この絵本、私にもにもはじめは難しかった。
何を言いたいのかよくわからなかったのだ。

ただ、場面によって彩色されている部分と、
主人公を覗いて無彩色になっている部分がある。
おまけに中扉の色は真紅。
とても象徴的。
でも何の象徴だかわからない。
意識と無意識??なんて陳腐なことを考えたり・・。

ステキな絵本は、年齢に応じて楽しめるものだろう。
でも、この絵本を小さい子どもたちは
どんなふうにわかるのだろうと思って
孫の目の触れるところに置いておいたのだ。

おっと、そんな話をする前に、
この絵本のあらすじが必要だ。

・・・・・・・・
ある夜、5,6歳と思われる主人公は
大きな音で目覚めてしまう。
(不吉な始まり)

そして朝。
食卓にはパパはいない。
ママは無表情に
パパはいつ帰ってくるかわからないと言う。
(描かれたママの無表情と、主のいない椅子が
何とも怖い)



主人公は父親の不在がさみしく、
家中に「パパかえってきて」とあちこちに張り紙する。

次の日、主人公はママから病気のおばあちゃんのお見舞いに
ケーキを届けてと頼まれる。
(あれ、この子は男の子だけれど、話の流れはあかずきんみたい)

大好きなおばあちゃんの家に行く道は2つあるけれど、
決して森のなかに入る道を通ってはいけないと
ママからいわれる。

けれど主人公はその言いつけを破り、
初めて森のなかの道を選択する。
場面は無彩色になり、色がついているのは主人公だけ。
(やっぱり、入ってはいけない方に入っていく・・)

途中、牛を連れた男の子と出会い、
その牛とケーキを取り換えてくれと頼まれるが、
主人公は「おばあちゃんのケーキだから」と断る。
(なんだかジャックと豆の木の一部分みたいとは訳者の言)

次の場面には女の子が登場。
女の子はケーキを食べたいとしつこくまとわりつくが、
それを無視しておばあちゃんの家に向かう。
(これは3匹のクマの女の子?と訳者)

次には道に迷った兄妹がしゃがんでいた。
女の子が泣いている声に
主人公は後ろ髪を引かれるが、
そのまま歩き続ける。
(あれっ、ヘンゼルとグレーテルじゃない?とこれまた訳者)

次の場面。無彩色の森のなかに、
真っ赤なコートが木にかかってる。
寒くてしようがなかった主人公は
それを着て、もうめちゃくちゃに走ったが、
なかなか道が見つからない。
(これも赤ずきんちゃんを彷彿とさせる?と訳者)

が、やっと見つけたおばあちゃんの家。
ドアをノックすると、
いつもとは違う変なおばあちゃんの声。

入っておいでと言われて怖くなったけれど、
そーっとドアを開けた。
(ここでは、私も頁をめくるのが本当に怖かった!)

そこにいたのは!!!
そう、おおかみではなく、
風邪でひどい鼻声になったおばあちゃん。
この場面からまた色のある世界になる。
(森の世界からの脱出成功!)

次のページ、ふと後ろをみると、
なんと、パパがいたのだ。

森での出来事を話した主人公は、
3人でケーキを食べ、元気になったところで
家に帰ることに。

「ただいま」というと
待っていたのはママ。
大きな手を広げて二人を迎えた。
(手を大きく広げているけれど、
私には、ママの表情がイマイチ大歓迎には見えなかった。
主人公がもろ手を上げて喜んでいるのに
なんか違和感・・・)



・・・・・・・・
という絵本。

森のなかの出来事がほとんどすべて
昔話の題材からなっている。
孫の1号はここに気付き、
次のお頁をめくるスリルを味わったが、
1年生の2号には面白さを見つけるのは
ちょっぴり難しかったのだろう。

そして68歳の私。
もしも、孫がどんな風に読むのかななんて思わずに、
自分だけで読んでいたら、1回読みで終わったかもしれない。

そして、アンソニー・ブラウンて有名だけれど、
どこがおもしろいんだろう??
私の感性じゃない!なんて
高慢ちきなことを考えたかも。

けれど何回も見返すうちに、
私にはとても怖い本のように思えてきた。
特に母親の表情だ。
あの父の不在。
そして父が家出の場所として選んだところが
おばあちゃん(たぶんこの父親の母親)の家っていうことを
どう理解したらよいのだろう。

孫との関係はとっても良いおばあちゃん。
この母親もおばあちゃんの悪口を言っているわけではない。
でもなんで、父親はそこに行ったのだろう??
母親が出ていって、自分の実家にいくのではなく、
その反対になっている。

でも、単純に考えれば単に父親は
病気になった自分の母親の面倒を
みにいっただけかもしれない。

うーん、うーんと唸りながら、
まだまだこの絵本を手放せないのでありました。

つくづく絵本は子どものためのものだけではないと
再確認した一冊となったのです。

文章が単純であればあるほど
描かれた絵を読み込むことになるんだなって
強く思った一冊なのでした。







ジョン・クラッセンの三部作―子どもから大人への読み聞かせー

2017-09-02 17:29:41 | 絵本・児童書 今日の一冊
わが家の朝は階下のTP、KJという
二人のウルトラマンたちの新聞配達に始まる。

トントントンと階段を上る軽快な音。
来るなっと思った私たち夫婦は
慌ててシャッターを開ける。


寝室に入ってきたウルトラマンは
私たちに「起きろー」と言いながら、
「パンパンパーン」と新聞をはたく。

そして「おはよう!」って挨拶して、
階下に戻って行く。

この習慣は夏休み中も変わることはなかった。

KJは7時半にウルトラの父と共に保育園へ。

TPは7時半から8時の間を2階で過ごし、
8時少し前に「放課後クラブ」へと向かう。

夏の間も小学校に設置された
放課後クラブは稼働している。

こうして、お盆休み前後10日と
そのほか数日の休日を除いて、
小学2年の放課後クラブ通いは夏休み中も続いた。

ところで、TPは7時半から8時の間を2階で過ごすわけだが、
夏休み前から、その過ごし方が少し変わってきていた。

この30分弱の時間、彼が私に絵本の読み聞かせをしてくれるのだ。

この1か月ほど、熱心に読み聞かせてくれるのは
ジョン・クラッセンの帽子三部作と言われている絵本。

(その1)  「どこいったん」 

    ジョン・クラッセン作・長谷川義史訳 クレヨンハウス


(その2)  「ちがうねん」 

    ジョン・クラッセン作・長谷川義史訳 クレヨンハウス


(その3)  「みつけてん」 

    ジョン・クラッセン作・長谷川義史訳 クレヨンハウス

いずれも帽子にまつわるお話。

「どこいったん」ではお気に入りの赤い三角帽子をなくしたクマが、
その帽子の在り処を次々と森の動物たちに尋ねていく。

なかなか見つからなくて、諦めかけたとき、
クマは、赤い帽子をウサギがかぶっていたことを思い出す。

そしてウサギのところに走っていく。
そのあとの結末はちょっぴりシュール。

訳者の長谷川さん曰く、
「ちょっとドキッとするお話をほんわかと・・・訳してん」

長谷川義史さんの訳は小気味いい関西弁だ。
TPは祖母訛りの関西弁でこれを私に読んでくれる。
(祖母の私は母方の祖母の関西弁を聞いて育っている)

大人が読むのとちょっと違うところは・・・、
文を読んだ後、開いたページの絵を指さしながら
たっぷり一緒に楽しむ時間をとるところ。

ある時、TPはこの本の裏表紙に
「ちがうねん」という続編のお知らせがあることに気づく。

「これ見てみよう!」(TP)
ふたりでAmazonで確かめ、「読んでみようか」ということになった。
「ポチッ」
「ちがうねん」は次の日、届いた。

「ちがうねん」の主人公は小さいさかな。
あるとき、大きな大きな魚がかぶっていた
小さな小さな帽子をちょっと失敬する。
その理由は「ちっさいじぶんにぴったりだから」。

失敬しても悪いことではない理由を並べたてながら、
大きな魚が寝ているうちに海藻のジャングルに隠れようとする。

しかし世の中、そうは問屋が卸さない。
大きな大きな魚は気づいて小さな魚の後を追っていたのだ。

小さい魚がやっとたどり着いた安心の地、海藻のジャングル。
けれど、最後に出てきたのは、
小さな帽子をかぶった大きな大きな魚だけ・・・。

長谷川さん曰く
「こわー、な お話をゆらゆらと訳してん」

この絵本の裏表紙には三部作の最後
「みつけてん」のお知らせが・・・。
がまんできないのはTPも私も同じ。
また、Amazonでポチッ!!
次の日「みつけてん」はやってきた。


今度は前の2作と変わって、主人公が2匹のかめ。
住んでいる砂漠の真ん中で見つけた帽子。
二匹ともいっぺんに気に入る。
そしてその帽子をかぶりたい。
ところが、相手もかぶりたい。
その相手の気持ちが分かるかめたち。

はたしてそのぼうしはどうなったか。

長谷川さん曰く
「かめばかむほどゆっくりと、かめさんの気持ちみつけてん」

初めて読み終わった時、
TPは一言「いいお話だったねえ…」とつぶやいた。


以後、TPはずっと毎日、この三部作を読んでくれ続けている。


ちなみにこの「ちがうねん」は
2013年コールデコット賞(アメリカ)と、
2014年ケイト・グリーナウェイ賞(イギリス)を
ダブル受賞したとこのこと。
これは史上初の快挙とか。

そんな三部作は、これ以上短くはならないほどそぎ落とされた言葉に
関西弁のリズムが加わって、
声に出して読むことがこれほど楽しいことかと思わされる。

それにしても2年生の反復力はものすごい!
そばに座って聞いていると、
毎回、そのリズムとそこから醸し出される内容を
新しい思いで絵とともにじっくり味わっているのが伝わってくる。

小さい時の自分を思い出してみても、
当時貴重だった絵本やお話は何回繰り返しても
飽きることがなかったことを思い出す。

そんなことをすっかり忘れていた私。
2年生に読み聞かせしてもらって、
じっくりゆっくり何回も味わうという
「しっとりした楽しみ」の時間をもらった、
この夏のひと時でした。




















ヨシタケシンスケ作「もうぬげない」を楽しむ!

2017-02-12 12:04:05 | 絵本・児童書 今日の一冊
ウルトラマン1号(小学1年生)と過ごす朝の30分。
2世帯で同居して11か月。
ウルトラの母は7時過ぎに出勤。
ウルトラの父とウルトラマン2号は
7時30分に保育園に向かう。

その7時30分から登校時間の8時まで、
彼は2階のジジババスペースで過ごす。

この30分の過ごし方、
この1年、実にいろいろ変化してきた。
そして今は、1号とババとの
「掛け合い読書タイム」で落ち着いている。

この日のセレクション。


 ヨシタケシンスケ「もうぬげない」ブロンズ新社

この本、MOE主催の絵本屋さん大賞第1位。
ちなみに第2位は同じ作者の「このあとどうしちゃおう」

 
 ヨシタケシンスケ「このあとどうしちゃおう」 ブロンズ新社

ヨシタケシンスケさんの作品はなかなかだ。
この間、懇意にしている児童書専門店
「ハックルベリーブックス」にお邪魔した時、
1号や2号と楽しめそうと思って手に入れた。

「もうぬげない」は
2,3歳の子どもによく起こる出来事。

この絵本、
「ぼくの ふくが ひっかかって ぬげなくなって
もうどのくらい たったのかしら。」ではじまり、
「・・・パジャマが ひっかかって きられなくて
もう どのくらい たったのかしら。」で終わる。

あらすじはこうだ。

男の子が、お風呂に入るとき、
お母さんが、急いで脱がそうとする。
そのとき上着が首に引っ掛かってしまう。

男の子は「ひとりで ぬぐから だいじょうぶ!」といって
一人で脱ぐべく奮闘する。
その間、「このままずっと脱げなかったらどうしよう・・」
という気持ちと、「脱げなかったら脱がなきゃいいんだ!」
という気持ちの間を揺れ動く。

その気持ちの表現は、
「やっぱり おかあさんに ぬがせてもらって、
おフロに はいろうかな・・・」
「いや!! でも くやしいから じぶんで ぬぐ!」
といった具合だ。

そして、結局脱げない。
男の子はつぶやく。
「・・・・やんなきゃ よかった・・・・」
「もう おしまいだ・・・」

というところで、ガラッと引き戸が開いて、
お母さんが現れる。
あっという間に、ポイ、ポイ、ポイと服を脱がされ
おフロの中に。

男の子は思う。
「・・・けっきょく いつも おかあさんの いいなりだ」と。

そしてパジャマを自力で着ようとするが・・・、
「・・・パジャマが ひっかかって きられなくなって
もう どのくらい たったのかしら。」
で、終わる。

この男の子、巷では「イヤイヤ期」といわれる
2歳児を彷彿とさせる。

でもこの「イヤイヤ期」という言葉、
私にはずっと違和感があった。

今ではお母さんの中に知れ渡り、
2歳児の年齢近辺のお母さんたちは、
この言葉を連発する。
「イヤイヤ期」だから仕方がない、
「イヤイヤ期」で本当に困った・・等々。

私も少し前までは、
こんな風に「自分で!」を連発する時期に入った
子どもたちを持つお母さんたちに、
「これは、自立の初めの一歩だから、
基本的には喜ばしいことだけれど、
ほんと、たいへんよねえ」などど、
お母さんに寄り添った風な発言をしていた。

でも、この絵本に出会って、考えてしまった。
そうだ、子どもの気持ちってどうなのかって。
そこを丁寧に救い上げているのが、
作者のヨシタケシンスケさんだ。

「一人で脱ぐからだいじょうぶ」と
言ってはみたものの悪戦苦闘する。
その悪戦苦闘の一生懸命さが、
短いつぶやきに乗せられている。

「やんなきゃ よかった」「もう おしまいだ」
その男の子の焦りや後悔は二本の曲線に、
それを上から腕組みをして見下ろす母親の視線。
どんな言葉よりそこに描き出された線がものを言っている。


<ヨシタケシンスケ「もうぬげない」裏表紙

母親たちはいうことを聞かなくなった子どもたちを
「こまったちゃん」といってみたり、
「イヤイヤ期ってまったく」なんていうけれど、
子どもたちは、全身全霊で、自分でしたいという気持ちと、
そこまでの実力はまだないという現実との乖離を
生きているのだと思わされる。

ほんと、ここでも子どもは一生懸命、そして哲学的!

ところで、その時期を終えた1号は
その場面をユーモアととらえて
楽しんでいた。

二人はいろんな気持ちをもって笑いながら、
どんな風にも楽しめるこの絵本を
この1週間必ず一日1回は
読んでいるのでありました。


ウルトラマン1号と読む矢玉四郎ーはれぶたシリーズとの再会ー

2016-12-12 09:34:30 | 絵本・児童書 今日の一冊
朝の7時半。
階下からウルトラマン1号(小学1年生)と
ウルトラマン2号(保育園4歳児)がやってくる。
2号は「おはよう!!」って元気に言って、
そのまま父親と保育園に出かける。

1号は、8時の登校まで、
ジジババの居城2階で過ごす。
この4月からの朝のパターンだ。

この30分間の過ごし方、いろいろあった。
けれどこの3週間ほどは
「はれぶた」シリーズを一緒に読んでいる。
「はれぶた」シリーズとは・・・
矢玉四郎さんの作なる
「はれときときぶた」のシリーズのことだ。

「はれときどきぶた」と出会ったのは今からおよそ30年前。
ウルトラの母が確か4歳くらいの時だったと思う。
今年亡くなった「灰島かり」こと貴志子さんとその娘さん、
そして私の友人M子とその娘さんと共に新宿にある
劇団「プーク」の人形劇場に観に行ったこともある。

しかし我が子の成長と共に
幼年創作童話とは疎遠になっていた。
けれど、ウルトラマンたちと生活するようになって、
彼らのチョイスに付き合ううちに、
いつの間にかまた幼年童話とも
再会のチャンスを与えられた。

今、ウルトラマン1号がはまっているのが
この矢玉四郎さんの「はれぶた」シリーズ。

矢玉さんの絵には、1号の好きな土臭さがある。
60年くらい前、私がはまって憧れた
シンデレラ、白雪姫、白鳥の王子などに出てくる
お姫様の世界やほんのちょっと前、
幼稚園や保育園の女の子たちを虜にした
「アナと雪の女王」の世界とは
ある意味対局なる世界。

そこで展開する世界。
30年前には気付かなかった発見がある。
矢玉さんはある意味過激だ。
けれど「学校」というものに
毎日通うことを義務付けられた子どもたちを、
そして大人の世界の中で生活する子どもたちが
窒息しないで、生き延びられるような「言葉」が
埋め込まれていることに気づいた。

学校に行くことは「お仕事」と
とらえている節のある1号。
基本的には例外はあっても
月曜日と木曜日の足取りは重く、
金曜日の足取りは軽やか。

ところで、
私は今同様((*_*;)おしゃべりな子どもだった。
母はよく言っていた。
「R子がその日の幼稚園や小学校の話をすると
先生が何を着てきたか、
どんな髪型をしていたかまで分かったわ」って。

でも、それは1号には望むべくもない。
多くの男の子たちの例にもれず、
学校のことに関しては寡黙だ。
母親には必要なことは伝えているようだが、
友だち関係、クラスでどんなことが起こっているか
なんていうことに関する情報は彼からは得られない。
そんなことは話す気もないみたい。

自分の中でなんとかやっているのだろう。
それがそこで収まらない時、弟に対する態度で
あ、何かあったなってわかるとウルトラの母はいう。
でも、具体的には何かは分からない。

そんな1号が大好きな本を一緒に読んでいて、
そんな彼らが生き延びられる言葉があるなって思うのが
このシリーズ。

そんな風に読んでいたら、
矢玉四郎「心のきれはし」というエッセイに出会った。
サブタイトルは「教育されちまった悲しみに魂が泣いている」
ちょっぴり過激だけれど、そのあとがきに
「子供の心には太陽が輝いていなければ」と書かれていた。
これが子どもの本を書く信念だったと。

矢玉四郎「ぼくときどきぶた」のあとがきをみたら
こんなことが書かれていた。

「(略)もともとこどものものだった絵本なのに、
いつのまにかおとなのよろこぶ「よい絵本」がふえてきた。
だが、紙芝居は、こどもたけのものだ。
なかには、教育的配慮とかいって、
わざわざおもしろくないようにしているひともいるが、
おもしろくなければ、見ているひとがもんくをいうから、
やるひともかってにおもしろいようにしゃべったりする。
そこが、紙芝居のいいところだ。
自分かってにやるところがいいのだ。
 自分たちだけの「わるい紙芝居」をつくてみよう。
なんでもいいんだ。
賞をもらおうとおもったり、
おとなにほめられようとしたら、
つまらないはなしになってしまう。
できあがっても、おとなにはみせないつもりでつくるといいだろう。
 かみしばいよりも、もっとおもしろいのは、
自分の人生だ。主役は自分にきまっている。
はなしをつくるのも、やるのも、見るのも自分だ。
どんなはなしをつくるかな。
自分だけのはなしをつくってやろう。
おもしろいぞ。」と。

もう、「親」という看板は下ろした私。
ソファに並んで、1号と私、お互いもたれかかりながら、
掛け合いのようにこれらの本を読みあう。

子どもの世界はある意味過酷。
大人のいないところでいろんなことが起こる。
加えて、学校の権威性は今でも綿々と息づく。
そこで、自分を失わず、なんとか生き延びてほしい。

そんなことを思いながらの
朝の20分もたれあい読書の時間。
ほんと、子どもの生き様は哲学そのものって思うのです。