徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

「卒論提出」から「卒論お疲れ様会」あれこれ

2017-01-29 09:53:39 | 日記
いやはや忙しい1週間だった。
毎年のこの時期の常。

4年生はこの時期、卒論提出がある。
その前に卒論要旨集の作成、
卒論発表会用のパワーポイントの提出、
そして卒論提出、最後に卒論発表会、
そんな流れになっている。

そんなドタバタの合間に、
通常授業の最後のテストの準備等が加わり、
文字通りてんやわんやで過ごす。

昨日、卒論発表会を終え、
とりあえずゼミの4年生は
卒業可となった!

一応私のゼミの学生の約束事は、
卒論をクリスマスイブの前までに提出すること。
正式の締め切りはその約1か月後だが、
ゆっくりしたクリスマス、お正月を迎えよう!
ということで、そんな約束にしてある。

ところが、今年は・・・・・、
なんと、一人もクリスマス前の提出なし。
年も越した。

例年、何人かはそうなるのだが、
今年は全員足並みそろえての年越し!!
どうなるんだろう??

分かるのは忙しくなることだけ。
そして、その通りの忙しさとあいなった。

問題は提出物の提出の順番。
卒論書いて、要旨を出し、パワポを作成する、
という順番ならば問題ないのだが・・、
なんたって、要旨、パワポ、卒論の順番。

最後の結論がしっかり書きあがる前に、要旨提出。
そしてプレゼン用のパワポということになっている。

その事態だけは避けたい!という意味もあっての、
クリスマス前提出なのにーーー!!
全部ずれ込んだんだから・・・
と、ブツブツつぶやく私・・。

でも、ブツブツ言う暇さえなくなった。

「で、結論はどうするの?」(私)
「えっ、結論ですかぁ? どうするんですかねえ」(学生A)
「ほんと、全くどうするのよぅ?」(私)
「なんとかします!」(学生A)
「えっ、何とかなるの?」(私)
「なります!あっ、します!」(学生A)
「え、しちゃっていいものなの??」(私)
「そうですよねえ・・」(学生A)
なんて会話が延々と続くのである。

私はもう、どうなっちゃうんだろう、
なんて思いながら家路に着く。

そして次の日。
「要旨書きましたー」(学生A )
「えっ、まだ本文書きあがってないよね」(私)
「でも、結論分かってますから」(学生A)
「・・・・(ま、いいか、と心の中でつぶやく)」(私)

こうして次々に要旨が提出されてくる。
そしてなんとか提出期限に間に合ってしまう。

さて今度はパワポの提出だが、
さすがに私は出来上がる前のパワポづくりは許せない・・、
ので、その足かせとして
卒論の簡易製本の期限をその前に置いている。

業者に出すから遅れるわけにいかない・・、
との学生の緊張感もあって、それには全員提出した。
ふー、やれやれ・・・。

と思うのも束の間、今度はパワポづくりだ。
だが、本当にありがたいことに
学生たちはこのパワポづくりに関しては
3年生から別の活動での発表を経験していることもあり、
「大丈夫でーーす」とのこと。

まず、4年生どうして見合って、修正し、
それを3年生に見てもらって意見をもらって修正して、
本番用を完成!という順序にする手はず。

それは着々と進んだ。
パワポづくりに関しては、
学生の方が腕が上なのだ。
そこは任せておける。

学生の彼女たちから見れば
60代後半の「ばあさま」は
どう見ても助っ人にならないのだ。

だから、私も手を引く。
というか、手を引かざるを得ない。

そして結果は思った以上のものが出来上がるということに。
思った以上でき過ぎて、こんなのもあった。
「あれ、この表、卒論本文にあったっけ??」というもの。
修正を繰り返すうちにこれが一番わかりやすいって
分かったんだろうなって。
まあ、約束違反だけど、目をつむろう・・・。

ということで、当世の学生はパワポづくりはほんとに上手。

そして、本番を迎えた。
ドレスコードはスーツということで、
緊張感を高め、ドキドキハラハラの時間を過ごす。
ところが、学生はしたたか。
4年生はちゃんと3年生にサクラの質問を用意しておいてもらい、
質問討議の時間をうまくこなす。

と、こんな風な卒論発表会。
最後は打ち上げの卒論お疲れ様会。

もう、そこでの彼女たちの開放された姿ったらない。
いろいろあったけれど、少なくとも1年間は
幼稚園や保育所など、子どもの生活するところに
入れていただき、一緒に遊んだり、
観察させていただいたものから、
自分のテーマを見つけて書いていく。

一応、それをやり遂げたのだから、
いろいろあっても、
よくやったなって心から言ってあげたい。

もう4月からは全員が保育者となって、
子どもたちのために汗流す人となる。

そんな彼女たちがのびのびと
子どもたちと過ごせいるように
応援だけは続けたいなって思う。

お疲れ様会からの帰り道の彼女たちの
ちょっと酔っぱらいながらも、
本当にやり切った姿を見て
そんなことを思った。

「がんばれ、保育者一年生!」

父のことー 番外編 その5 実家片付けの巻3-形見考ー

2017-01-22 09:46:15 | 父とのこと
先週の土曜日。
実家の片付けに向かった。
父という主のいなくなった実家。
私たちは「売る」という決断をした。
それも「更地」にするのが条件。
だから、片付けをしなくてはならない。

曽祖父の建てた家。
ほぼ100年近い歳月が経つ。
引っ越しなんてことはなかったら、
押し入れ、納戸の中はものが一杯。
父が一人暮らしをしてからは、
そのものは部屋の中にも侵食し始めていた。

片付けの中心になってくれているのは妹夫婦。
妹夫婦は暮れからお正月にかけ、
ずっと週末は実家の片付けに行ってくれている。
私たち夫婦は私が行かれる時に妹たちと合流。
ほんと、妹夫婦に甘えてしまっている。

さて、この日、台所の食器や母のものを選別した。
妹は、形見なんて大仰なものはないけれど、
孫たちにほしいものを渡したいといった。

たまたま長女に聞いた時、
「おばあちゃまの家に行くと、
いつも出してくれた格子模様のお皿が残っていたら、
それが欲しいかな」という。
このお皿は孫たちが行くと、
お正月はお餅を、普段はおかずやおやつを
入れてくれていたものだ。

祖父母の家と言ったら、これとスプーン。
母はうさぎやさる、パンダといった
動物の顔つきのスプーンを
孫が生まれるたびに用意してくれた。

そんな日常のものが孫にとっては
「祖父母の家」の象徴なんだって思わされた。

そこで、お皿はもらっていくことに。
一番よく使っていたピンクの格子柄は
既にひびが入り、残念ながら持ち帰れなかった。
だから残りの4枚を持ち帰ることに。

「Kちゃん(末娘)にはお母さんが大切にしていた
ロイヤルアルバートのオールドカントリーローズの
カップアンドソーサーはどうかしら?」(妹)

「あ、あれ、お母さん大切にしていたわよね。
それがいいと思う」と私も賛成。
末娘にはそれと決まった
(だが、この時点で、まだ本人から
直接なにがほしいかきいていなかった・・・)。

「Tちゃん(息子)はお父さんが使っていた、
RADOの時計はどうかな。
Tちゃんが言うには、この時計は昔、
お父さんとお母さんが香港に旅行した時に
買ったものらしいの。
Tちゃんは『おばあちゃんのお葬式のとき、
おじいちゃんはこれをしてたよ』っていうのよ。
だから、おじいちゃんが大事にしていた
これが欲しいって聞いているの。
だからこれにしよう」(妹)

すでに父の木刀と母の黒檀の鏡台は長女のところで
置いてもらうことになっている。
妹は「私たちがもらっても、老い先短いものね。
孫のところに置いてもらえれば
しばらくはそこでゆっくりできるわよね。
それに、なんとなく安心よね」という。

私も妹と同じ気分。
本当は位牌より父らしかったり、母らしい、
この二つのものは二人の魂が入っている感じ。
それは娘が持つべきなのかもしれない。
が、私たちはいつまでもというわけにはいかない。
だったら、この選択がいいと思ったのだ。

家に帰って、末娘に形見に何が欲しいと聞いた。
そうしたら姉と同じく、あの格子のお皿が欲しいという。
「おばあちゃまたちの家と言ったら、あのお皿よ」(末娘)
「そうか、Kちゃんもあれが欲しかったのね。
あれはAちゃんが欲しいと言っていたので、
そっちに持っていったのよ」(私)

「なら、いいよ。大丈夫。
Aちゃんの家に遊びに行ったとき出してもらうから」(末娘)

「それでね、Tおばちゃんは、
あなたにはおばあちゃまが大切にしていた、
ロイヤルアルバートはどうかっていうのよ」(私)

「え、あんまり見たことないよ。
大丈夫、私に気を使ってくれなくても」(末娘)

「そうね、おばあちゃまは大事にしていて、
子どもにはその食器を出さなかったからね」(私)

「格子のお皿が欲しかったのは、
それをみると、ばーっとおばあちゃまたちのことを
思い出せるのよね。
でも、ロイヤルアルバートは
そんな思い出がないわけだし。
だから、わたしにとっては形見にならないかな」(末娘)

なるほど、いくら祖母が大切にしていたものでも、
それは大切にされ過ぎて、
しまわれていうことの方が多かった。
だから、末娘はあまり目にしていない。
それじゃあ、形見ではないという論理。

一理ある、どころか百理あると思った私。
それにしても、私はまた間違いを犯した。
姉娘には何がいいと聞いていたのに、
妹娘には聞いていないうえに、
こちらで決めてしまった・・・。

「大丈夫。なにもなくたって、おばあちゃまのことは
ちゃんと覚えているから」(末娘)

そしてあくる日の朝・・、
「昨日、夜中に考えたんだ。
ロイヤルアルバートには思い出がないから
いらないって思ったけれど、
昨日、お父さんやお母さんといろんな話して、
これで思い出ができたわ。
だから、貰うことにした。
おばあちゃまも大切にしていたんだしね」(末娘)

と、一件落着。

私たち娘は、今、捨てることにまい進している。
ほとんど、思い出は心の中にあるものねっていいながら。

2017初映画「ミス・シェパードをお手本に」

2017-01-15 14:36:49 | 映画鑑賞
この日で三連休もおしまい。
また日常が戻る。

その前にどうしても観たい映画があった。
英国女優マギー・スミス主演の
「ミス・シェパードをお手本に」
(原題:The Lady in the Van) がそれだ。



年の瀬に、いつも楽しみにしているブログで
紹介されていた。
そして、このお正月休み中に
絶対に観にいこうと決心した。

しかし、年末年始は家族行事で忙しく、
その上ちょっぴり風邪もひき、
なかなか行かれなかった。
が、お休み最終日のこの日、
何とか決行できた。

上映館は銀座にある「シネスイッチ銀座」。
夫は同時に上映されている
「ヒトラーの忘れもの」を観たそうだったが、
今回は私の選択に付き合ってもらった(=^・^=)。

この映画はほとんど真実のストーリーだという。

1970年代から80年代にかけてのイギリスの
文化人が多く住むという
カムデンタウンがその舞台。
一人の誇り高いホームレス淑女のミス・シェパードと
彼女がねぐらにしているオンボロ車に
15年に亘って自宅の前庭を提供していた
劇作家ベネットとの物語。

二人とも一人暮らし。
ミス・シェパードの過去はほとんど謎。
誇り高くはあるが、まわりの親切に対しては
徹底的に悪態をつき、「ありがとう」の「あ」の字も
言わない偏屈さを持ち合わせている。

けれども周りの人々は
いろいろ思うところはあるのだが、
彼女を憎み切きれない。
そんなミス・シェパードを
マギー・スミスが実に実に
素晴らしく演じている。

彼女の過去に何かがあったことは
匂わされているが、
それが何であるかは最後の方まで
もやがかかった状態で進んでいく。

一方、ベネットの方も一人暮らしの劇作家。
一人暮らしの老いた母親を題材に
戯曲を書いたりしている。
そこにミス・シェパードというもう一人の
老婦人が彼の生活に入り込んでくる。

映画ではベネットは二人登場する。
一人は実際に生きて生活しているベネット。
もう一人はそのベネットの頭の中にいるベネット
ということになろうか。
一人が二人の人物として登場、
つまり彼もまた心に大きな葛藤を
抱えていることをうかがわせる。

そんな二人と近隣住民との長い年月。
ベネットの母親もミス・シェパードも
いつしか老いていく。
ベネットは母親を施設に入れた。
同じ頃、ミス・シェパードも福祉施設に体験入所。
それから間もなく訪れるミス・シェパードの死。

そこに来て初めて、彼女がなぜこの人生を
生きるようになったかが明らかになる。

と、これだけの説明では
内容は分かりにくいかもしれません。
あらすじが書きにくい映画でもあります。

でも、感じることはいっぱいある映画だった。
その一つは、ミス・シェパードの若い時のこと。
ピアノをなんと当時の一流ピアニスト、
アルフレッド・コルトーに習っていた。
コルトーは、今でいえば
アシュケナージやバレンボイム
ということになろうか。

当代一流のピアニストに薫陶を受けてはいたが、
彼女は修道院に入って修道女をめざす。
そこでの生活は、ミンチン先生にやられていた
小公女セーラを彷彿とさせる。
彼女の命ともいうべきピアノには
絶対にさわらせてはもらえなかったのだから。

その後の生活は詳しくはわからない。
が、その後の人生で
更にもう一つ偶然遭遇した現実から
彼女は逃避することに。

と、そんなこんながあって後のホームレス生活。
考えれば考えるほどよくわからないけれど・・・。
場面、場面で感じたことがいくつもあった。

その一つがミス・シェパードが
福祉施設に体験入所した際のこと。

久方ぶりのシャワーを浴びてさっぱりした彼女、
部屋に置かれていたピアノに近づく。
そして、静かにキーを叩く。
そこに流れたのはショパン。

何故だかわからないけれど、
恥ずかしながら、私は涙が止まらなくなった。

彼女の気持ちを感じて
彼女の人生を思ってなのか、
はたまた自分の人生を思ってなのか・・・。

まだその結論を出すには
気持ちの高ぶりが治まらない。

そんな高ぶりを得たマギー・スミスの
魅力ある演技に惹きこまれたひとときでした。


博物館に初もうで(2年目)ー松林図屏風と松梅群鶏図屏風ー

2017-01-08 11:29:09 | 美術展から
今年も初詣は東京国立博物館。
私にとっては2回目。
「博物館に初もうで」のまだ初心者。


昨年初めてでかけた。
その目的は長谷川等伯の「松林図屏風」。
安倍龍太郎の「等伯」を読んでから、
ずっと見てみたいと思っていた。

初めて出会えた昨年、
その松葉を描く筆致にびっくりした。
幸い早い時間で、まだ人出もあまりなかった。
ガラスに顔をつけて、その筆の動きを堪能した。
そこにあるのは「力強さ」だった。

ところが今年。
あれっ、松林図の松って、こんなに細かったっけ?
もっと太いように思っていたけれど??
あれっ、お日様と山がある。
前もあったんだっけ??
と、恥ずかしながら、こんな始末。
前回は何を見ていたんだろう??

考えてみると、安倍龍太郎の「等伯」を読みながら、
私は自分なりに「松林図屏風」のイメージを
作り上げていたのだと思った。
それは、もっと寂しい情景だったし、
松葉がこんなに力強く描かれているとは想像できなかった。
だから、そこに引っ掛かって、
だからこそ、そこが素敵と思ったのだ。

展示は、時間帯が早かったので空いていることもあり、
何回も何回もみて、全体も見たつもりだった。

なのに抜けていた「お日様と山」。
記憶に全くない。

加えて、今回は松葉の力強さより、
その頼りなげな細い松に驚いた。

松葉の力強さに引きずられて
細い幹は視覚の外に置かれたのだろう。
それに私には松の幹は太いという先入観がある。
生まれた時から身近だった東海道の松は
堂々と太いものが多かった。

それとはあまりに違う細い松。
その重なりの先にお日様と山は描かれていた。
なんだか救いだなと思った。

予習も復習もせずに、ただ本物を感じるだけ。
だから、落とすことも多いし、
出てくる言葉は感想のみのお粗末さ。
それでも、きっと会い続けると、
その時の私の何かと
この松林図屏風のどこかが呼応して、
考えたり書きたくなるのかなって思った。

京都・智積院の宝物館に収められている、
狩野派の向こうを張ったような絢爛豪華な襖絵。
京都・本法寺にある涅槃図。
これらのもとは全く趣を異にする松林図屏風。
一人の画家のなかにこれだけの幅があるっていうのが凄いな、
と思って、この松林図屏風から離れた。

あれ、若冲が!!

 伊藤若冲「松梅群鶏図屛風」

あ、京都で出会った若冲だ。
昨年秋、京都市美術館で行われた
「若冲の京都 KYOTOの若冲」展を見に行った時のこと。
彼の水墨画に出会ってびっくりした。
あの「動植綵絵」に代表される
精緻の極致、色彩の極致とは対極にある世界。

無彩色、一筆の勢い。
そこにあるのはデフォルメ、
そして時にユーモア、あたたかさ。

特に鶏の尾に一筆の凄さがある。
ああ、生きてるなあって、惚れ惚れした。

「松梅群鶏図屏風」もそれに近い。
若冲の絵の幅の広さはすごいが、
今回は、鶏もさることながら、
「灯籠」にびっくりした。
あれ、これって「点描法」?
点描法は印象派の後の新印象派が好んで使った技法。
でも若冲はそれより以前の生まれ。

若冲は色んな冒険をしているんだなあと、
ため息が出た。

こんな追っかけをするようになったのは
たまたま出会った辻惟雄著なる「奇想の系譜」が
あったればこそ。
そこから何かが開かれて、楽しみがこぼれてきた。
今年もその楽しみを拾っていきたいと思った、
「博物館への初もうで」なのでした。

そしてもう一つの夢。
今年は長沢芦雪の「虎図」に会いに行きたいな、
と思っている年の初めなのでありました。



父のこと ー番外編 その4 実家片付けの巻2-

2017-01-04 17:56:25 | 父とのこと
父が亡くなって半年。
実家を売却する決断をして1か月ちょっと。
更地で引き渡しということになっているので、
家の中の片づけをしなくてはならない。

妹夫婦は折を見て、
少しずつ始めてくれていた。

父は母が亡くなってから
一人暮らしを続けていた。
12年ほどになる。

その間は5部屋あるうちのほぼ1部屋、
あるいは使っても2部屋で生活していた。
頑張って寝室は2階を使っていたが、
数年前からそれもままならず、
1階で過ごしていた。

つまり、「開かずの間」があるということである。
押し入れも出し入れしない。
私たちが父に会いに行くときは、
必ず窓を開け放ってはいたけれど、
それでは追いつかないことが・・。
いつの間にか「カビ」が蔓延・・・。
特に梅雨時はすごかった。
それでも、父は私たちがいじることは許さない。
結局そのままずるずるきた、

カビの元凶はどうやら、押し入れの中の布団。
その布団を妹夫婦や甥が処分場に運んでくれた。
そのあたりから、カビ臭さも減った。
何しろ築100年近いから、外気の出入りは自由だ。
それでも布団があればカビは繁殖する。

と、まあこんなことを少しずつ超えながら、
押入れはすべてカラに。
そこまで持っていってくれたのは妹夫婦。

本当にありがたかった。
こういう時、私は役立たず。
悔しいけれど、抗がん剤の影響なんかがあると
片付けもままならない・・・。

でも、この暮れの一日、
ほんのちょっとだけれど手伝うことができた。

妹からの所望は、
「結婚するときに置いていった本の始末をしてほしいのよ」
ということだった。
こればっかりは、私にしか決断はできない。

実家に放置すること40年。
その間一度だって必要になったことはない・・・。
実は妹も同じように本を置いていった・・。

「片付けの巻1」で荷物が増え続けたことを書いた。
実はそのなかには、
私たち娘が置いていったものも含まれている(*_*;。

この半年で、なんだか本の劣化の勢いが増している。
カバーに書いた書名も見えなくなり始めた。
もう、開いても、くしゃみやアレルギーが出るだけだろう。
全部廃棄!!

廃棄当番は夫に。
几帳面な夫は、大きさを揃えて
綺麗にひもで結んでくれた。

「え、こんなのを読んでいたんだね。
あ、そうなんだ。これも読んでいたんだ」
なーんて言いながら。
私は、20代初めの自分の頭の中を覗かれたようで
なんだかすごく恥ずかしかった。

こうして夫が本を、義弟が玄関の納戸の中に
それこそ半世紀以上、入りっぱなしになっていた
大物に手を付けてくれていた。

私たち姉妹は、母の洋服の整理を。
母は編み物と洋裁をやっていた。
その作品がどっさり。

あ、これはお母さんね、よく着ていたわね、
なんて話しながら、取っておく、捨てる、
取っておく、捨てるとやっていった。

あっ、行李が出てきた。
思わず、「これでよく遊んだわよね!」
衣替えの度に、母はこの行李を出した。
入れ替えるために空になった行李に、
私たち姉妹は潜り込んだ。
時には舟に見立てたり・・。
あー、こんなに小さかったんだ。
でも、本当によく遊んだ。
面白かったねと妹と顔を見合わせて笑った。

それから、母の嫁入り道具の
黒檀と思われる素材の箪笥と鏡台の中味の整理。

この二つは母が17歳の時に亡くなった祖父が
中国から母の嫁入り道具にと買ってきてくれたものだと
母から聞いていた。

母方の祖父は海軍の軍人。
お船で(と、母はいっていた)中国に航海したときに、
これを買った来たという。

母はこの二つの嫁入り道具と一緒に嫁いできたのだ。
軍人の家と、瓦職人の家。
母方の実家は祖父母とも兵庫県の出身。
つまり関西人。

今から70年近く前の日本では、
その習慣の違いは想像を超えるものだったと思う。

愚痴はほとんど言わない母だったから、
そんな大変さをあまり聞いたことはなかったけれど、
ふと思った。
きっとこの二つが母を支えたのだろうなって。
飛び切りの父親っ子だったと母はよく言っていた。
そんな父親が17歳というという女学校の多感な時期に
亡くなるなんて、いったい母はそれをどう超えていったのだろう。
これも想像がつかない。

母には弟妹が4人いた。
祖父が亡くなったのは昭和16年の開戦前夜。
以後の苦労は日本国中の例に漏れない。

中に入っていた着物を出し、
捨てる、捨てないとやっていった。

姑が亡くなった後、
着物に関しては捨てるに忍びなく、
引き取りに来てもらったことがある。
その時、本当にただ同然で持っていかれた。
捨てるよりは良かったけれど、
何か釈然としないものが残った。

そんなことがあったから、
ちょっぴり慎重になったけれど、
もう着ないしねえ・・とため息をついた。

結局、ほとんど始末することにした。

そして、鏡台に。
この鏡台は母が最期まで使い続けた。
おまけに、母の手帳があった。
父と付き合い始めた頃のもの。
ファーストキスの記述もあった。
ちらっと読んで、ドキドキして、
そのまま、鏡台に戻した。

今回、妹ともう一度見てみると、
ほとんどの字が滲んで見えなくなっていた。
「もう、いいってことよね」と二人でうなづきあい、
処分することにした。

この鏡台、捨てるに忍びない。
だが、置くところが・・・。

ところが救世主が現れた。
「私がおばあちゃんの鏡台をぜひもらいたいの」と、
孫1号が手を挙げた。
「え、マンションじゃあ、置くとこないでしょ」(孫1号の夫)
それでもめげない孫1号は、
このお正月、妹夫婦の片づけを夫婦で手伝い、
夫に「引き取ってもいい」と言ってもらえた。
彼女の気持ちが伝わったのかな。

それを聞いて、私も妹もなんだかホッとした。

片付けはストレートにはいかないけれど、
あれこれ思い出したり、心を鬼にしたり、
一体、思い出って何だろうって思ったり。

そして、ふと思う。
両親の片付けだけではなく、
私たちが自分の片付けをする番だということを。

そうそう、妹が父が整理していた手紙を見つけた。
孫たちがマメマメ出した手紙を
孫別に「〇〇君からの手紙その1」
と、いうように整理していたのだ。

それはそのまま孫たちに渡すことができた。
私たちにはわがまま者の父だったが、
ちょっと距離のある孫たちには
「要所要所で助言」を授けていたのだ。
これも薄々は分かっていたけれど、
へええ、と改めて思った。

そんな、あっちに行ったり、こっちに行ったりの
片付けの巻なのでありました。

妹夫婦におんぶしながら、まだもう少し
その時は続くのでした。