徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

東映チャンバラ映画で育つということー私の根っこはここにある??ー

2015-12-28 08:33:07 | 私のデフォルト
進藤英太郎
月形龍之介
山形勲
薄田研二
原健作

といったら・・・・。

そう、往年、いや1950年代の東映時代劇(と言ってもチャンバラ映画)の
「悪役」の面々。

一方、
市川歌右衛門
片岡千恵蔵
大友柳太郎
東千代之介
中村錦之助
大川橋蔵
山城新伍
里見浩太朗

と言ったら・・・・、
この東映時代劇の主役大スター。

なんで今頃こんな名前を・・・。

それには訳がある。

祖父は瓦屋をやっていた。
瓦屋なので雨の日は休業日。

1950年代の話。
家にいればラジオで長唄を聞き、
時には隣町の映画館まで東映時代劇を観に行くのが常だった。

1950年生まれの私は
5歳くらいから、祖父の映画のお供をした。
小学校に入っても、日曜日に祖父が映画を見るときは
大体連れて行ってもらった記憶がある。
祖父が亡くなる1959年までこれは続く。
つまり幼稚園くらいの年齢から3年生くらいまでのこと。

私はこの東映チャンバラ映画が大好きだった。
だって、正義の味方と悪者がはっきりしているから。
子どもだった私にはとってもわかりやすかった。

映画は大抵二本立て。
終わって出てくると、外は真っ暗というのも
とても不思議な感じだった。

この頃の私・・、
映画を見ていつもいつも不思議に思うことがあった。

それは一本目の映画で、主役の正義の見方に切り殺されたり、
崖から転げ落ちて死んでしまったはずの悪人が、
二本目の映画で、「殿、それはいかがなものか・・・」なーんて言って、
悪家老を演じているのだ。

「ねえ、おじいちゃん、あのご家老、さっき崖から転げ落ちたよね」(私)
「そうだなあ」(祖父)
「なんで、また生き返ったんだろう??」(私)
「映画だからなあ・・・」(祖父)

映画だからか?、でも私には訳が分からなかった。
それでも通い続けるうちに、
あれはお芝居で、役者さんがやっていて、
だから次の映画にも出てくるんだ、
本当に死んでいるってことではないんだな・・、
ということがおぼろげながら分かり始めた。

それでも一本目でやっつけられた悪役が、
次の二本目で出てくると、
「おじいちゃん、あの人さっき、悪者だから殺されちゃったんだよねー」と
言わずにはいられず、
それを大きな声で言ってしまって、
見ているまわりの観客の人が笑い出し、
私はなんだかとっても恥ずかしかったことを思い出す。

特に、よく立て続けに悪役をやっていたのが原健作さん。
この名前を知ったのはずっと後になってから。
当時の私はまだ漢字ばかりのスタッフロールは読めなかったし、
小学校3年の時に私のバイブルだった
「東映オールスター事典」(?)には
主役級とお姫様女優は載っていても悪役は載っていなかったような記憶がある。

何年も経ってから、テレビで原健作さんを見つけた。
「あっ、この人だ。いつも映画で2回殺されていたのは!」と思わず叫んだ。

もう一つ、映画を見ていてわからないことがあった。
それは、同じ二本立てでも、最初は時代劇、二本目は現代劇(と呼んでいた)という場合。
多くの場合二本目の現代劇の主役は片岡千恵蔵さん。

ところが私、この2本目の映画は見ていてちっとも意味がわからない。
1本目の時代劇はもう頭にすーすー入ってくるのに。
だから、現代劇が2本目だとああ、ちょっぴりつまんないなーって思った。

この謎はずーっと謎のままだった。
そしてある時突然気づいた。
現代劇、といっても東映の現代劇だから
やはり勧善懲悪ものだとは思うのだが、
チャンバラ時代劇よりも悪者と正義の味方の区別がつきにくい。
だから分からなかったのだ。
黒白はっきりしないと理解できなかったということだ。
それに舞台が「現代」ということになると、
子どもだった私にはその世界に入るすべをがない。

時代劇だったら、不思議なことに
あっという間にその世界に入れるというのに。
当時の私には「灰色」の世界、
あるいは「折り合いをつける」世界というのは
理解できなかったのだなあとわかった。

この子ども時代の勧善懲悪の世界から、
子どもたちは育ちながら灰色の世界やら、
折り合いをつけて生きるということを
ちょっぴり大げさな言葉で言えば
傷つきながら学んでいく。

ところが私、このチャンバラ映画の影響が大きすぎて
「白か黒か!」の単純世界からなかなか抜け出せなくて苦労した。

苦労しながら生きているうちに、
あっという間に高齢者。
そして、また「白か黒か」の世界の誘惑が・・・。

若い時、高齢者、つまり、老人になるということは
イコール「老賢人」になれることだと信じていた。

でも、自分が足を突っ込んでみると、
「老賢人」になれるなんて言うことは神業に近い!
ということが分かったように思う。

ちなみに、このスターたちが勢ぞろいするのは
決まって「忠臣蔵」。
もう何回観ただろう。
ある時、市川歌右衛門が大石内蔵助の時、
息子の北大路欣也が内蔵助の息子大石主税。
確か、吉良上野之介はあの「水戸黄門」の月形龍之介だったっけ。
月形龍之介は大型悪役から勧善懲悪の正義の味方に大変身した。

今では北大路欣也は押しも押されぬ大俳優だが、
当時は本当におにいちゃーんという感じだったことをはっきり覚えている。

と、時の流れを思うとともに、
「幼児期から小学校低学年」の時期の子どもって
どんな世界を生きているんだろうって考えた。
きっと違う感性で生きているんだろうな。

私たちよりずっと正義を重んじて生きているかもしれない。
そしてその勧善懲悪が崩れ始めるときが、
思春期の到来なのかなと、
東映チャンバラ映画から思ったのでした。

私ですか?
なんだか思春期すっ飛ばして高齢期に入ってしまったような・・・。

父がサンタクロースだった頃

2015-12-27 09:10:21 | 父とのこと
時は今から60年近く前。
クリスマス前のある日。
場所は横浜。
私は父に手を引かれて
東海道線から東横線に乗り換えた。

記憶にある東横線はチョコレート色。
もし記憶が間違っていなければドアは手動式。
私は父の手をぎゅっと握っていた。

行先は桜木町。
父は、カナリアを売りに行ったのだ。
当時、アメリカではカナリアを飼うことが流行っていたらしい。
桜木町には輸出用のカナリアを買い取る店があった。

父はそのころカナリアを育てていた。
はじめは黄色いカナリア、そしてその後は赤いカナリア。
色鮮やかな黄色に育てるには、卵の黄身を餌にする。
私はその残りの白身をもらうのが楽しみだった。
赤いカナリアを育てるためには、
ニンジンをすりおろしてそれを餌にする。

この日売りにいったのは黄色いカナリア。
「お父さん、このトリさん(私たちはカナリアのことをこう呼んでいた)は
どこに行っちゃうの?」(私)
「アメリカって国だよ。トリさんは船に乗っていくんだよ」(父)

それを聞いた私の頭の中では、即座にこんなメロディーがが流れ始めた。

『あかいくつー はーいてたー おんなのこー
いーじんさんに つーれられて いーちゃったー。
よこはまのー はとばからー ふーねにのってー
いーじんさんに つーれられて いーちゃったー』

トリさんも女の子みたいに、異人さんに連れられて
船に乗って、いっちゃうのかなあ・・・
そんなことを思った。

私は父のお供ではじめての横浜行き。
神奈川の小さな町を
ほとんど出たことのなかった当時7歳の私。
横浜は私にとっては大都会。
頼る人は父しかいない。

ただ、この日、当時3歳の妹は母とお留守番、
私と父だけが出かけたことは妙に記憶に焼き付いている。

この日、実はこのカナリアのお店に行った後、
父は私を「影絵劇場」に連れて行ってくれたのだ。

私には「影絵劇場」としか記憶されていない。
場所は桜木町だったのか、横浜駅近くだったのか定かではない。

ただ、午後だったということははっきり覚えている。
影絵劇場の演目は「アリババと40人の盗賊」
アラビアンナイトの一話だ。
私は真っ暗な劇場の中を再び父の手を強く握りながら進んだ。
そして影絵が始まると、もうあっという間にその世界に引き込まれた。
「開け-ゴマ!」という声は今も私の頭の中をこだまする。

当時はまだ子ども用の本も本当に少なかった。
お話の世界に入れるのは、母の話してくれる「ももたろう」や「かちかち山」
そして「シンデレラ」に「白雪姫」
そしてほとんど唯一ともいえる「白鳥の王子」の絵本。

それから、夕方の子ども向けラジオ番組。
「赤胴鈴之助」なんかもそこにはあった。
「あいすくりえもん」なんて登場人物もあったっけ。

と、それくらいのものだった。
だから、影絵劇場は私の魂を奪うには十分だったのだ。

劇場が引けて外に出ると、もう真っ暗。
そんなとき父が聞いた。
「おもしろかったか?」(父)
「うん!『ひらけーゴマッ』ていってたね」(私)

それから間もないクリスマスの日の朝。
毎年のように、毛糸の靴下にはキャンディーなどのお菓子が。
その横にはきれいに包装された本が一冊。
開けてみると、「アリババと40人の盗賊」が!

「ねえ、お父さん、サンタさんは、私が『アリババと40人の盗賊』を観たのを知っていたんだね!」(私)
「そうだなあ、サンタさんはなんでも知っているんだなあ」(父)

そしてその講談社(だと思う)のその本を、ボロボロになるまで繰り返し読んだ。
影絵の記憶と共に、サンタさんて凄いなって思いながら。

父はもう、自分がサンタをしてたなんて忘れているんだろうか?
それとも、父の頭のどこかには残っているのだろうか?
父92歳。今は父が父になる前の世界に戻っているこの頃なのでした。




「こっちが大きい!」-「弟」を生きるということ

2015-12-21 09:08:35 | 子どもの情景
この日、久しぶりに娘一家がやってくることになった。
孫二人と娘は午前中に、
婿殿は仕事を片付けてからということで
夕方合流となった。

その娘も友人の結婚式に出かけ、
私たち夫婦と6歳TP、4歳KJと4人で留守番をすることに。

TP、KJはいずれも男孫。
TP、妖怪ウォッチマニア。
KJ、ウルトラマン+電車マニア。

午前中は、昨日家で、途中までしか見なかったという
妖怪ウォッチの劇場版ビデオの撮り置きを一緒に視聴。
そして観終わって、散歩も兼ねてマックランチに出かけた。

今回は親にも了解を取って、
親と一緒の時には食べさせてもらえない
「ハッピーセット『妖怪ウォッチ』」を
孫たちに奢るのが目的(という、甘いジジババになりさがった私たち夫婦・・・)。

そんな昼食をとって家に帰ってきた。
そしてデザートにと、リンゴを剥いた。
一つのりんごを八つ切りにして、
TP、KJ、夫、私で仲良く二切れずつ。

「もっと食べたいな」というKJ。
この日はともかく甘いババに成り下がっている私は、
「じゃ、これを半分こにしてあげよう」と言って、
何も考えずにパキンと割って大きい方をTPのお皿に、
小さい方をKJのお皿に置いた。

それから5秒。
KJの目が自分のお皿から兄のお皿にチラチラッと移った。
と思う間もなく、ささっと動くKJの手。
あっという間に大きい一切れと小さい一切れが入れ替わった。

弟的行動の決定的瞬間!!

この瞬間を共に目撃したのは夫も同じ。
私と夫は顔を見合わせて笑ってしまった。

入れ替えられたTPの様子をみると、
今のこの決定的瞬間にはまったく気づかず、
ハッピーセットのおまけの妖怪メダルをいじっている。

KJはニコニコして黙っている。
私たちもニコニコ、そしてゲラゲラ。

結局、KJは大きな方の切れ端をまんまとゲット。
気付かぬ兄も幸せなまま、その小さな切れ端を口にした。

ここでフラッシュバック。
それは夫が小学生、2歳下の弟が幼稚園の頃のこと。
総領の甚六的夫と、それこそ弟を生きる夫の弟。
亡くなった姑によれば、おやつの時間には
親はいつも長男に大きい方を渡し、
弟には小さいほうを渡していたという。

そんなことが続くうちに、
弟の方はいつの間にか、兄のすきを狙って、
大小をすり替えていたという。
丁度、この日のKJ的行動。

そこで、姑と舅は、一計を案じたという。
時は秋。柿がたわわに実る頃。

おやつの時間にいつものように、
大きい柿を兄に、小さい柿を弟に盛った。

案の定、弟はさっとその柿を入れ替えた。
そして嬉しそうに齧った・・、その瞬間、
弟の顔は大きく歪んだ。

そう、弟は渋柿を齧ったのだった。

姑と舅はあまりに毎回弟が大小を入れ替えるので
小さい甘柿を弟に、大きい渋柿を兄に渡したのだ。
そ、そんなこととはつゆ知らず、
弟はいつもの行動に走ったというわけだ。

この間、兄である夫は気づいていたかというと、
「それが、そんなことはまったく知らなかったんだよなー」とのこと。
本当に総領の甚六を地で生きていたというわけだ。

でも、これだけだと、夫に失礼なので、
長女である私が妹にしていたことを白状すると・・・。

私と妹は4歳違い。
何事もせっかちで口の立つ姉の私。
一方おっとりして、少々のことには動じない妹。

小さい時の4つ違いは、大人と子どもの差。
私は総領でありながら、甚六ではなかった。
もっと、はしっこかったのだ。

例えば、妹と私に同じキャラメル(なんか時代を感じるが・・)をもらった場合。
私はさっさと食べてしまう。
だからあっという間になくなる。

一方妹は一個ずつゆっくり味わって食べる。
残りは机の引き出しにしまっておく。

私はしまう間もなく食べてしまう。
そして、その妹のしまったキャラメルを狙う。
一つ、二つと気づかれないように失敬する。

そんなことを何度繰り返したことか。

それからお人形。
父はほんの時たまだけれど、お土産を買ってきてくれることがあった。
4つも違うからだろうか、当然のように私のお人形は大きく、
妹のお人形は小さかった。

また、父が女の子のこけしと男の子のこけしを買ってくれた時。
私は全く当然のように女の子のこけしを取った。
男の子のこけしは妹のものに。

そんな妹への仕打ち(というとちょっぴり大げさだけれど)を
大反省したのは、ずーーっとずーーっと後のこと。

いつも思う。
きょうだい、という生まれの後先については
誰の責任でもない。

でも、その置かれた状況で、それぞれの行動パターンは違ってくる。
もちろん、性格のあるから一概には言えないけれど。

今回、KJのこの「すりかえ」の決定的瞬間に居合わせて、
「ああ、生きるってたいへんだな」ってしみじみ思った。

と、同時に心から笑いがこみあげてきた。
上の子に大きいものを、下の子に小さいものをというのは、
ある意味自然の理に適っている。

けれど、だからと言って、
大きい、小さいが分かり始めた下の子には納得できないことだ。

それを主張しても、親に「お兄ちゃんの方が体が大きいでしょ」
というようなことで論破されてしまうことは分かり切っている。

だから、こそっとすり替える。
ジジババの立場になると、これはとても納得できる行動だ。

そんなこんなをいろいろ体験しながら、
その時その時にいろいろな気持ちを味わいながら、
心の襞は深くなっていく。

このきっとほろ苦い体験こそが、
人をいずれ豊かにするんだなって。

そんなことを思った「りんごすり替え事件」の一コマでした。



父のことー胃瘻その後・・・-

2015-12-11 14:16:10 | 父とのこと
父が妹の住まい近くの
療養型病院に入院して2週間が経った。
妹は、ほぼ毎日父の顔を見に行ってくれている。

その度に父の様子をメールしてくれる。
妹の了解を得たので、
今回からはそのメールの事実の部分を
時折このブログに転載し、
レビー小体型認知症をもつ父の療養病棟での様子や
私たち家族の気持ち、考えたことなどを綴っていきたい。

この2週間、妹からのメールが来るたびに
それに関することを書きたくなった。

でも、次の日になると、
昨日とは全く違う父の様子が綴られてくることも多く、
いったいどこまでをひとくくりとして考えたらよいのか・・・、
と迷って、ブログを書けずにいた。

でも、妹の了解を得たので、
時々の妹の送ってくれるエピソードから
ぼちぼち考えていこうと思う。

☆☆☆☆☆☆

エピソード1(転院後15日目)妹のメールから

5時をだいぶ過ぎていました。

父は私を見ると、
「えー! よく分かったな、ここが! 
うれしいよ、本当にうれしい、良かった、良かったぁ。」と、
ものすごく喜んでくれたのですが、
私には何が何だかわかりませんでした。

それから、いろいろ話を聞いていると、
父は今、迷子になっていて、道もわからない、
お金も一銭も持っていないから電車にも乗れない、
という状況でさまよっていたようなのです。
そんな途方に暮れていた時、私が現れたようです。

「よく見つかったな!1円50銭も持っていない、良かった!
嬉しいを通り越した、夢のようだ。」等々、話してくれました。

そして「椅子を持って来ればいいじゃない。」と、
私の椅子の心配までしてくれました。

しかし、私にはおかしいと思う事がありました。

ベッドが最低の高さまで落とされている、
先ほど同室の人の胃ろうが始まったけれど、
父にはセットしないで看護師さんは行ってしまった。
サイドテーブルの上には、計量カップに入った栄養液が置いてある。 
どうしたのだろう?? と思ったのです。

それで、ナースステーションに行っておかしい訳を聞こうとしましたが、
食事時間で、ステーションには一人もいませんでした。

それでも、忙しそうに帰ってきた看護師さんを捕まえて、
「Sの家族のものですが、今日は何かあったのですか?」(妹)

「あーあ、Sさん、きょうはすごく賑やかでしたよ。」(看護師)

窓側のベッドの手すりにつかまり、起き上がろうとしたのか、
そのままうつぶせの姿勢になってしまって、もがいていたそうです。

「それで、落ちても良いようにベッドを下げたんだー。
ほんと、どうもすみません、ちゃんと動けなくてぇ。」と言ったら
看護師さんは「ちゃんと動ける人は入院してませんよ。」 と、慰めてくれました。

一つ、謎が解決しました。
父はだんだん動けるようになっているのです。

それから、しばらくすると、ベッドに看護師さんが来ました。
食べられる人の食事を片付ける音がしている頃です。

そして、父のところに来て、何をするかと思ったら、
カップの栄養剤を注射器で吸って、
それを直接胃ろうの入り口から注入しています。

私が「パックからポタポタ点滴みたいに注入していかなくても良いのですかぁ?」 と訊くと、
「ご家族がいつも見ていられるわけではないので、
チューブで入れている間、また抜かれたら大変ですから。
Sさんの場合、こうしてまとめて入れても、嘔吐したりはないので、
この方が安全と判断しました。
栄養剤を早く入れることは、胃に入るわけですから問題ないですから。」(看護師)

これで、二つ目の疑問が解けました。

今日は手でつなぎのチャック(チューブなどをいじらないようにつなぎのパジャマを着せられている)を
ごそごそする仕草はありませんでした。

それから、父は、お通夜があるので、それにお金を持って行かなければならない、
祖父がS家の分はまとめて払ってくれるかも知れない、
いくら持って行けば良い? お通夜があって、次の日もあるのに、
明日は都合が悪いとか言って2回あるのに1回しか来ないんだ。
それで、いくら持って行く? 3万か、2万か、1万か? 
おっ、でもT子(妹のこと)は苗字が違うな、一緒に払ってもらえるのかな。
S家があって、属S家 があるんだ」(父)

看護師さんが「属S家ですか? フフフフ、へー、属ね。」 
ほんと、父の言葉は面白い。

父は祖父が全員分出してくれるか、悩み続けている。
そして、「料理の用意はできているか?」なんて訊いてくる。

看護師さんに「きょうは叱られちゃったよ。」なんて、訴えている。

栄養と薬、水の注入が終わり、トイレに行かないと、と、
また手すりにつかまって起き上がろうとするので、
私は、「手すりは弱いからつかまっちゃダメ。」と、手を外させた。 

それから、起き上がれるかどうか引っ張ってあげるからと、
両手を引っ張って上半身を起こそうとしました。 
そうすると、45度くらいまでは持ち上がるが、そこからは、動かない。 
2回ほど試した。これは、男の人が居る時に、やってもらわないと、
私はこれ以上引っ張れない。

そんなこんなで、父は今度は、自分にお金を持ってきてほしいと言う。 
「1万円、5千円、いやあ、3千円で? 
あ、2千円でも千円でもいい。千円で良い、持ってきてくれ。」
 
私が断り続ける(病院には貴重品は置けない)と、
父はだんだんと怒り出し、
「あんなに嬉しいと思ったのに、なんだ、今は涙が出てくる。
 自分であんなに稼いで、自分で使えないなんてことがあるのか? 
そうかあ、年寄りはみんなこんなしてやられちゃうんだ、
わかったよ(年寄りがやられちゃうことがわかった)。」 と、
千円を持ってこい、という話は延々と止めない。

それで、私はもう嫌になってしまって、
話の途中だけれど、「帰るね。」 と言って、帰ってきました。

父の機嫌が直らないまま、涙が出るほど悲しい思いをさせたまま、
帰ってきてしまって、悪くなっていなければ良いなって思っています・・・

今回本当に初めて、父に嫌な思いをさせて私は帰ってきたわけで、
これは初めてじゃあないかなと思います。

でも、父は、完全におかしい。
おかしくなっている人とのお付き合いは、
本当に大変だなって思った今日でした。

☆☆☆☆☆☆

私はしばし考え込んでしまった。

父はレビー小体型の認知症なので、
こうして妄想国(幻覚)に支配されていることも多い。

特に、胃ろうに変えて脳にも栄養がいきわたるようになってから、
1か月間ものも言わなくなっていた父が、
このように饒舌におしゃべりする。

そのもう大方が妄想国のお話。
それも臨場感たっぷり、というより、現実そのものの感じ。

今回も妹が行って本当に窮地を救ってくれた感じで喜んでいたが、
帰りがけにはお金を置いて行けと言ってきかない。

短い時間のこの変化に付き合った妹は本当に大変だったと思う。

でも、この妄想の内容も、父の実家関係の人々がいっぱい出てくる。
これに付き合えるのは、家族しかいない。

妹をみて、家族だとは分かるということだ。
でも話の内容がこんな感じ。

こちら側の精神の均衡を保つことが大変だ。

いくら病気と思っても、こちらの感情もどうしても動く。
だから、いつもすぐに来る妹からのメールが一晩経ってから届いた。
でも、このメールのおかげで父のことを共有できる。

体に栄養が行き届くことは嬉しいことだけれど、
認知症もしっかり戻ってきている。

本当に悩ましいなって思うこの頃なのでした。




「『ほめる』『叱る』のその前に 子どもにとどく伝え方」を読む

2015-12-05 08:20:51 | 保育・子育て

 入江礼子 著・カツヤマケイコ イラスト 
 赤ちゃんとママ社

こんな本が出た。
「ほめる」「叱る」と言えばハウツーものが主流。
でも、「ほめる」「叱る」にハウツーなんてあるんだろうか。
このほんはちょっぴり、ハウツー本に反旗を翻している。

といっても、本は読者の手にとどかなければ意味がない。
その折衷案というべき構成になっていると言えるかもしれない。


以下に「Bookデータベース」から抜粋してみる。

・・・・・・・・・

「何回言ったらわかるの!」には、理由があった!!
子どもによりそった「伝える子育て」で、より理解し合えるコミュニケーションを。

目次 : 巻頭座談会 ガミガミ言っちゃう私たちの胸のうち/
第1章 どうしてこんなに叱ってばかり?(「叱る」のは子どものためというけれど/ 「叱る」のなかにある無意識 ほか)/
第2章 どうすれば子どもに伝わるの?(伝えるためには、まず考える/ 子どもは親を見て育つ ほか)/
第3章 この口ぐせ、大丈夫?(大切なのは、子どもの立場に立つこと/ ほとんどくせになってない?「早く!」 ほか)/
第4章 子育ての最終目標は?(子どもって大変です/ 子育ては、ないないづくし ほか)

・・・・・・・・・

著者の主張はある意味子育て論にもなっている。
ちょっぴり硬派と言えなくもない。
でも、そこにツボを押さえて、
その文章に突っ込みを入れたり、分かりやすくしているのが
カツヤマケイコのイラストだ。
彼女もまた「ごんたイズム」などの子育て漫画を描いている。
これがまた面白い。

私たち団塊が子育てしていた頃よりも、
世の中は右肩あがりどころか下がり気味の今、
子世代の子育ては本当に忙しく大変って思う。

大変だけれど、そこに面白さや、
親もちょっぴり自分を振り返って
子どもも一生懸命だなって感じられる一冊かもしれない。

ほめたり、叱ったりするときっていうのは、
おとなである自分自身の価値観や生き方と
否応なく対峙するときでもあることを思う。

と言いながら、今でもてんやわんやしている私なのでした(*_*;