徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

「これちょっと違うんじゃない??」-ウルトラマンたちの夕食時からー

2018-08-25 16:06:32 | きょうだい
酷暑は台風と共には去らなかった。
まだまだ残暑が厳しい日々。

そんな中、ウルトラマンたち(小3、小1男児)の
放課後クラブ通いが復活したある日のこと。

この日も暑かった。
帰ってきた彼らは、
まずお弁当を出し、
シャツ一枚になり、
手を洗い、うがいをする。
そして、おやつ入れから
飴玉と小さなスナック菓子を出す。

そこまでは階下の彼らの家でのノルマ。
準備が終わると、二階の我が家にやってくる。
そしてゆっくりそんなおやつを食べるのが常。
それから30分の番組を一つ観るのだ。

日によってはちょっとおしゃべりをしたら、
1号はビデオに撮ってある
「帰ってきたウルトラマン」を一本、
2号は「ウルトラマンルーブ」をみたりする。

この日、彼らが親と約束してあったテレビ番組は二つ。

5時10分に始まるNHKの子ども用英語番組
「えいごであそぼ with Orton」と、
7時前から始まる「ドラえもん」。

ところがこの日は暑かったからだろう、
二人はそれぞれ3人掛けのソファと
一人掛けのソファでごろごろ。
テレビを観ようともいわなかった。

なんせ、暑かったものね、
ごろごろするのは当然当然と思った私。

こうして30分が経った。
時間は5時5分前。

そろそろ「えいごであそぼ」の始まりが近くなる。
たった10分の短い番組だけれど、
最後の発音クイズが特に楽しみなのだ。
これをきょうだいで一日おきに
順番に答え、得点を重ねていくことを楽しみにしている。
(今のテレビはこんな双方向的なことができるのだ・・)

ムクッと起き上がった1号(TP)が
2号(KJ)にこんなことを言った。

「ねえ、KJちゃん、今日は僕が
『えいごであそぼ』のクイズをするよ」(TP)

「えー、ずるいよ。TP君は昨日したじゃないか」(KJ)

{えーーー!KJちゃんだって二日続けてやったこと
あったじゃないか。だから今日は僕がやっていいでしょ!!
今日は僕の番だよ!!」(TP)

「えーーーっ!!そんなのずるいずるい!!」(KJ)
というなり、KJの足蹴りがTPの足に当たる。

「なにするんだよう。
夜のドラえもんのクイズは
kJちゃんがやるんだからいいじゃないか」(TP)

すると、また一発KJの足蹴りがTPに命中!
しばらくソファの上での戦いが続く。

ほぼ泣きながら、結局この戦いをしながら
はじめの予定通り弟のKJが
「えいごであそぼ」のクイズをすることにまとまった。

弟は強い。正論を言う。
兄は今までは弟に対してもう少し優位であったので
自分のやりたいことを通そうとする。

それをびしっとダメという弟。
なおも言い続ける兄には手足を出すことも辞さない。
ほぼ100%に近い割合で、手足を出すのは弟。

兄は弟に対しては手を出すときも手加減している。
ところが弟に手加減はない。
だから強烈にパンチが決まることもある。

そんな状況の中で、
祖母の私は何をしていたかというと・・・、

話を聞いて、今回は弟のKJの言っていることが
正しいのではないかと言ってみた。
しかしこれくらいのことで兄は引き下がらない。

じゃあ、こんなことにならないように
どちらがいつクイズをしたか分かる表を作っておいたらどうかしら
と提案してみた。

けれどくんずほぐれつの状態では
そんなことは全く二人の耳には入らない。

ここで、私が親だったら
もう一回「今のは弟の言っていることの方が正しい!」
と一声吠えて決着をつけたに違いない。

でも強烈な一発がけがにならないように気をつけながら、
様子を見るのが今の祖母役割をもった私。

結局、泣きながらかれらは提案をしあっていた。
ドラえもんにもクイズがあるらしく、
それを予定通りに兄がやるということで、
「えいごであそぼ」のクイズは弟のKJがやることに。

一件落着。

最近こんな争いが多くなった。

今までだったらたとえ理不尽であっても、
兄の言うことが通っていた。
ところがふと気がつくと
弟が「それはおかしい!!」と言い始めたのだ。
そうなると負けてはいない弟。
そして、小型犬、というよりは
中型犬の喧嘩もどきがはじまる。

なんとか「えいごであそぼ」のクイズも終了し、
2人の夕食タイムになる。
この日の献立は以下の通り。


ソーメンに天ぷらと、ささみのチーズ巻、
それに助六寿司がちょっぴりというもの。

ささみのチーズ巻は母親が作っていった。
でも、こんな暑い日はソーメンにすることに。
大人も食べるので、精進揚げも少々揚げた。

そしてもう一つ手をかけたのは、
ソーメンのつゆ。

このところちょっぴり手作りに凝っている私は
昆布、鰹節、シイタケ、しょうゆ、みりん、酒で作った。
自分的にはまあまあの味。

ところが・・・、
「おばあちゃん、このつゆ、ちょっと違うんじゃない。
なんか、変な味がするよ。
うーん、まずい!」(KJ)
と、おとうとのKJがのたまわった。
「もっと、辛くならないの?
醤油がたりないんじゃない??」(KJ)との意見。

ごもっともではござりまするが、
「おばあちゃんのうちのおつゆはこれなのよ。
これを食べてね」と私。

母親が作るソーメンつゆとは味が違うのだろう。
そんなことが分かり始めたのかと思った。

一方兄のTPは
「僕、辛いのが好きなんだよ。
ショウガ入れてもいい??」(TP)

「もちろんいいわよ!!」(私)

そしてツルツルっと食べる。
さらに続けて、
「あのね、おばあちゃん、
こんどはお寿司はワサビが入っているのにしてね。
僕、辛いの平気なんだよ」(TP)

ワサビが入っているってことは
江戸前寿司ってことね。
もう助六では物足りなくなられたようでありました。

日頃、特に兄は出てくる食事の文句を言ったことはなく
黙々と完食というのがいつものパターン。

弟の方は「僕ちょっと、チーズ苦手なんだ」と言ったりはするが
「でもたべなきゃね」というとよほどのことがない限り
これまた完食。

ソーメンのつゆの味は本当にイメージと違ったのだろうなって思う。
それに誘われてか、兄も食べたいものをちょっと言ってみた、
というところだろうか。

こんな小さなことの中に、
彼らが成長していることをひしひしと感ずる。


食事に文句を言うことはウルトラマン家では許されない。
それが彼らの家の文化だ。
だから、私たち祖父母のところでも
ほとんど今まで文句がなかった。

でも、弟は違いが分かるようになったということだし、
兄のことは「辛いのが食べられる」自分に
「大きくなった自分」を感じているように思う。

こんな日常の小さなことのように見えて
大きなことに出会えることを幸せだなって思う。

親役割を脱いで、祖父母になれる時間を与えられたことで
またひとが育っていくことを違う角度から見られるなんて
嬉しいなって。









「オレ、カエルやめるや」-絵本は総合芸術!!-

2018-08-16 09:53:35 | 絵本・児童書 今日の一冊

久々にガハガハ笑った一冊。
「オレ、カエルやめるや」

ぶん デヴ・ペティ  え マイク・ボルト  やく こばやしけんたろう マイクロマガジン社

もう、読むのが楽しくて楽しくて仕方がない。
我慢できずに、ゼミで学生に読み聞かせてしまった・・。

家で孫たちに読み聞かせようとしたら
ウルトラマン1号(小3)も2号(小1)も
自分で読むといって、私の手から持っていってしまった。
(読み聞かせ叶わず・・・)

で、最後の望み、ウルトラマン3号(3歳児)。
父親の転勤先のアフリカ圏の国から
最近帰国したばかり。
遊びに来たのをこれ幸いとばかり
これ読むわよと言って誘ってしまった。

読み始めたらじーっと見ていた。
しめしめ、よーし、
うーんと楽しく読もうっとと思っていたら、
近くで遊んでいた1号、2号の動きにつられて
3号もそちらに合流!
読み聞かせ、またもや貫徹できず・・。
残念無念四角面!

と、孫たちへの読み聞かせ願望は
あえなく立ち消えたが、
なんたって面白い!


カバーの袖の紹介文をみると
「あのさ、オレさ、
オタマジャクシからカエルになったのよ。
カエルの次はなにになろうかな。
え?カエルはカエルのまんま?
いやいや。」

オタマジャクシからカエルになったこの子、
今度は何になろうかと考える。
カエルってのはなんだかヌルヌルしてるし、
もっとかわいくてふさふさのものになりたいと願う。

それで次々にネコ、ブタ、ウサギ、
フクロウになりたいと父さんに相談。

でも父さんガエルは
カエルであることはやめられないんだの一点張り。

そこに現れたオオカミ。
その話を聞いて、あることを話す。
それを聞いた子ガエル、
ヌルヌルしているカエルでよかったと納得し、
ずっとカエルであることを受け入れる。

と、このあらすじをみると、
単に子ガエルがアイデンティティークライシスを
乗り越えるお話なのだが・・・。

この絵本はそれだけでは終わらない。

デブ・ペティのかっちりした筋立て。
ただ文章はすべて登場人物のセリフとなっている。
そのセリフがすべて吹き出しで描かれている。

さらに加えて
マイク・ボルトの伸びやかな絵。

そして最後は小林賢太郎の秀逸な訳。
伸びやかな絵とのぴったり感が並ではない。

さらに加えて、その吹き出しの中の
字体のフォントや大きさが、
会話の主人公の気持ちをそのまま表している。

そのフォントをみれば
話し手の気持ちが一発で入ってくるという感じ。


「オレ、カエルやめるや」裏表紙

絵本を絵でも、お話でも、文章の字体でも
さらに訳であっても、
いえ、そのすべてで楽しめるというのを
この暑い中、実感した小さな楽しい一冊でした。

絵本であっても、ついつい字を読んで
それで終わってしまっていた自分の読み方を
楽しく反省してしまいました。

この夏はこんな風にシュールな絵本・児童書と
ガハガハ楽しめる中に人生の「真実」がポッと入っているような
絵本探しに明け暮れています。






実家の引っ越し―海辺の町から心の中へー

2018-08-13 21:31:15 | 父とのこと
お盆の帰省シーズンが始まった。
だから、都内は閑散としている。
道路も電車も。

この人の少なさで、
お盆シーズンを実感する。

父が92歳の寿命を全うしたのが2年前の6月。
父の住み家だった実家は大正10年生まれ。
父よりほんのちょっと年上。

そして、家が朽ちるか、父が朽ちるか
という時を過ごして、
結果的には父が先にこの世を去った。

父の一周忌の時は親戚と、
この家のお別れ会をした。

今年、三周忌の時は、
私たち姉妹の家族と孫たちの家族だけで、
最後のお別れをした。

この実家を手放すことが本決まりになったからだ。
私も妹も子どもたちも住むことは難しい。

いろいろ考えたけれど、手放す決意をした。
決意はしたものの、小さな海辺の町の
不動産売買の動きは鈍かった。

手放そうか、手放すまいか、
手放そうか、手放すまいか・・・。

本当に手放す!と決めてからも、
これでよかったのかしら・・・
と、私も妹も気持ちが揺れた。

曽祖父が瓦屋を立ち上げて、
何とか手に入れた家と土地。

それを私の代で手放すのか・・、
なんていう思いもあった。
が、結局、手放す決断をした。

手放すと決めてから、およそ10か月が経った。
なかなか決まらなかった買い手も
その最後の1か月であれよあれよという間に決まった。

ちょっぴり嬉しかったこと、
それは買主さんがこの土地を気に入って
買ってくれたこと。

こうして3周忌の前には
家を手放すことが本決まりとなった。

父の三周忌の法要を済ませ
家とのお別れも心行くまで済ませて、
いよいよ家の解体となった。

私たちは解体現場の写真は
逐一もらったけれど、
見には行かなかった、
いや、行けなかったという方が正しい。

丁度、ほぼ更地になった7月下旬、
遂に土地は完全に新たな持ち主のものとなった。

あの築100年に近い家は、
この町から消滅し、
私たちの心の中に移築された。

今年の夏は帰る実家がない。
もちろん、父が倒れてからは
無人の家となっていたので、
お盆だからと帰ることはなかった。

けれど結婚して家を離れてこの方、
途中で父や母は鬼籍の人となったが
家だけは変わらずにその町にあり、
私たち姉妹を静かに待っていてくれた。

だが、今はもうない・・。

ふと気づいた。
昔は私の嫁ぎ先だった家が、
今では子どもたちの実家になっているということに。

実家で迎えられる側であり続けた自分が
これまたいつの間にか
子どもたちを迎える側になっている。

子どもたちが集った夏休みの一日、
私は子どもたちや孫たちの会話を
椅子に座って黙って聞いている自分を
見下ろしている自分に気づいた。

これはどこかで見た光景だ・・・。

そう、それは私たちが実家に帰った時の
みんなでワイワイ食事をした後の母の姿だ。

私は自分が母と重なったような錯覚に陥った。

こうした重なりをもちながら、
時は過ぎ、世代は交代していくのかもしれない。

子どもたちを迎える小さな宴の準備で
少しばかり疲れて言葉少なになっている私。

母もあの時、私たち家族と妹家族合わせて10人の
大連隊の宴の用意で、
ちょっぴり疲れて言葉少なになっていたに違いない。

と、そんなことを思った
心の中に実家を移した夏の
小さなノスタルジーなのでした。

絵本って面白難しい!ーアンソニー・ブラウン作「森のなかへ」を巡って

2018-08-03 15:46:18 | 絵本・児童書 今日の一冊
ここに1冊の絵本がある。


 アンソニー・ブラウン作・灰島かり訳 「森のなかへ」評論社


今、この絵本を前に、
絵本って何?という大難題に突き当たっている。

この本を孫二人の目につくところに置いておいた。
孫とはウルトラマン1号(3年生男児)と2号(1年生男児)。

まず、1号が気付いた。
そして手に取った。
じっと読む。
そして読み終えて、その場を去った。

それから数日後、彼はまたその「森のなか」を手にとっていた。
「面白いの?」(しまった、野暮なことをきいちゃった・・私)
「うーん、普通かな」(1号)
「でも、あの場面、
赤ずきんちゃんのお話と似た場面があったでしょ。
おばあさんの声が変だとわかった時、
次のページめくるとき、どきどきしたんじゃないの?」
(なーんて、さらに余計なことをきいてしまった私・・)
「そう」(1号)
「でも、おばあさんの笑った顔が出てきたからホッとしたわよね」
(もう言わなくてもいいのに!!自己嫌悪・・)
「・・。(ニコニコッ!)」(1号)

2号。1年生男児。
彼は、「なにこれ」と言って手に取った。
そして、1頁ずつ丹念にめくってみていった。
読み終わった瞬間、
「つまんない」と、絵本をほっぽり投げた。

二人の反応。
まあ、そうかなと思った私。
実は、この絵本、私にもにもはじめは難しかった。
何を言いたいのかよくわからなかったのだ。

ただ、場面によって彩色されている部分と、
主人公を覗いて無彩色になっている部分がある。
おまけに中扉の色は真紅。
とても象徴的。
でも何の象徴だかわからない。
意識と無意識??なんて陳腐なことを考えたり・・。

ステキな絵本は、年齢に応じて楽しめるものだろう。
でも、この絵本を小さい子どもたちは
どんなふうにわかるのだろうと思って
孫の目の触れるところに置いておいたのだ。

おっと、そんな話をする前に、
この絵本のあらすじが必要だ。

・・・・・・・・
ある夜、5,6歳と思われる主人公は
大きな音で目覚めてしまう。
(不吉な始まり)

そして朝。
食卓にはパパはいない。
ママは無表情に
パパはいつ帰ってくるかわからないと言う。
(描かれたママの無表情と、主のいない椅子が
何とも怖い)



主人公は父親の不在がさみしく、
家中に「パパかえってきて」とあちこちに張り紙する。

次の日、主人公はママから病気のおばあちゃんのお見舞いに
ケーキを届けてと頼まれる。
(あれ、この子は男の子だけれど、話の流れはあかずきんみたい)

大好きなおばあちゃんの家に行く道は2つあるけれど、
決して森のなかに入る道を通ってはいけないと
ママからいわれる。

けれど主人公はその言いつけを破り、
初めて森のなかの道を選択する。
場面は無彩色になり、色がついているのは主人公だけ。
(やっぱり、入ってはいけない方に入っていく・・)

途中、牛を連れた男の子と出会い、
その牛とケーキを取り換えてくれと頼まれるが、
主人公は「おばあちゃんのケーキだから」と断る。
(なんだかジャックと豆の木の一部分みたいとは訳者の言)

次の場面には女の子が登場。
女の子はケーキを食べたいとしつこくまとわりつくが、
それを無視しておばあちゃんの家に向かう。
(これは3匹のクマの女の子?と訳者)

次には道に迷った兄妹がしゃがんでいた。
女の子が泣いている声に
主人公は後ろ髪を引かれるが、
そのまま歩き続ける。
(あれっ、ヘンゼルとグレーテルじゃない?とこれまた訳者)

次の場面。無彩色の森のなかに、
真っ赤なコートが木にかかってる。
寒くてしようがなかった主人公は
それを着て、もうめちゃくちゃに走ったが、
なかなか道が見つからない。
(これも赤ずきんちゃんを彷彿とさせる?と訳者)

が、やっと見つけたおばあちゃんの家。
ドアをノックすると、
いつもとは違う変なおばあちゃんの声。

入っておいでと言われて怖くなったけれど、
そーっとドアを開けた。
(ここでは、私も頁をめくるのが本当に怖かった!)

そこにいたのは!!!
そう、おおかみではなく、
風邪でひどい鼻声になったおばあちゃん。
この場面からまた色のある世界になる。
(森の世界からの脱出成功!)

次のページ、ふと後ろをみると、
なんと、パパがいたのだ。

森での出来事を話した主人公は、
3人でケーキを食べ、元気になったところで
家に帰ることに。

「ただいま」というと
待っていたのはママ。
大きな手を広げて二人を迎えた。
(手を大きく広げているけれど、
私には、ママの表情がイマイチ大歓迎には見えなかった。
主人公がもろ手を上げて喜んでいるのに
なんか違和感・・・)



・・・・・・・・
という絵本。

森のなかの出来事がほとんどすべて
昔話の題材からなっている。
孫の1号はここに気付き、
次のお頁をめくるスリルを味わったが、
1年生の2号には面白さを見つけるのは
ちょっぴり難しかったのだろう。

そして68歳の私。
もしも、孫がどんな風に読むのかななんて思わずに、
自分だけで読んでいたら、1回読みで終わったかもしれない。

そして、アンソニー・ブラウンて有名だけれど、
どこがおもしろいんだろう??
私の感性じゃない!なんて
高慢ちきなことを考えたかも。

けれど何回も見返すうちに、
私にはとても怖い本のように思えてきた。
特に母親の表情だ。
あの父の不在。
そして父が家出の場所として選んだところが
おばあちゃん(たぶんこの父親の母親)の家っていうことを
どう理解したらよいのだろう。

孫との関係はとっても良いおばあちゃん。
この母親もおばあちゃんの悪口を言っているわけではない。
でもなんで、父親はそこに行ったのだろう??
母親が出ていって、自分の実家にいくのではなく、
その反対になっている。

でも、単純に考えれば単に父親は
病気になった自分の母親の面倒を
みにいっただけかもしれない。

うーん、うーんと唸りながら、
まだまだこの絵本を手放せないのでありました。

つくづく絵本は子どものためのものだけではないと
再確認した一冊となったのです。

文章が単純であればあるほど
描かれた絵を読み込むことになるんだなって
強く思った一冊なのでした。