徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

生誕110年東山魁夷展―行ってよかった!!-

2018-11-30 11:20:57 | 美術展から
久し振りに一日ぽこっと空いた。
やらなくてはいけないことを抱えてはいたが、
集中できず、悶々としていた。

そうだ、
「生誕110年東山魁夷展」に行こう!
夫は前から行きたがっていたし。

私は「東山魁夷」の絵にに偏見を持っていたので、
「うーん・・・」としぶっていた。
青一色(これも私の偏見)で、
静かすぎるというのが私の持論(これも偏見)だった。

どうして偏見かというと、
彼の絵は画集かカレンダーなどの
印刷物でしか観たことがなかったのに、
そんな判断を下していたから。

でもそんな判断をかなり早く下していたため、
彼の美術展にも行ったことがなかった。

でも、待てよ、本物をみたら違うかもしれない。
珍しくそう思った私は
時間があったら行ってみようと心に決めていた。

そしてぽっとできた時間。
これは行くしかない。

幸い国立新美術館まではそう遠くはない。
10時には入館できるように家を出た。
でも乃木坂の駅を降りるあたりから、
6-70代と思われる人が増えてきた。

あ、これは多分東山魁夷展に行く人波だ。

その予想は見事に的中。
10時には既に入り口でに入場制限があり
およそ40人くらいの人々が並んでいた。
待つことおよそ10分、
10分なら良しとしよう。

そして入館。
私は、今回はどうしても観たいものがあった、
それは唐招提寺御影堂に収められた障壁画の数々。
その中の障壁画「濤声」。
これを観たかった。

そこで夫とは別れて
私は順番に観るのをやめて、
障壁画の展示室に飛んでいった。

まだ10時を15分ほど過ぎたあたり。
何人かの方は既にいらしたが、
入口の混雑から比べれば静かなもの。
じっくりと堪能することができた。

私は海辺の町の出。
波はいつも身近だった。
静かな時も、荒々しいときも。

小学校5年生の時、
台風が少しずつ接近していて
遊泳禁止になっていた。

でも、そこは子ども、
絶対に波に負けないと海に入った。
引き潮の力が尋常ではない。
私はすぐに足をすくわれた。
そしてひっくり返り、波にさらわれ、
次の波の渦に巻き込まれ、
その波が割れるとき、
波打ちぎわに打ち付けられた。

その怖かったこと。
今でもあの引きの強さが蘇ることがある。

大波に追いかけられる夢は
何度見たかわからない。

こんな感じで、波は私にとっては
本当に小さい時から身近で、
時に温かく、時に牙を剥く存在だ。

だから東山魁夷はこの波をどう描くのかと、
「濤声」を観るのは本当に楽しみだった。

スケールは大きく、見とれた。
なのに最後に寄せる波の形をみて、
ああ、この場所は私の育った海辺の町ではないな、
とそんなことを思った。

その静かに打ち寄せる波の形が微妙に違う。
私の記憶の中の波形はもう少し丸い。
魁夷のものは少し尖っている。
きっと砂浜の起伏が違うのだろう。

そんな個人的な些細なことに気を取られながら、
それでも、画面の右から左に打ち寄せる波に身を任せた。

そしてそのあとの展示は
鑑真にちなんだ中国の風景。
何度も何度も難破して、
それでもあきらめずに日本に渡ってきた鑑真。
その時は視力を失っていたという。
もう、考えられない試練を経て
辿りついた日本で律宗を開く。

一方、東山魁夷も
この障壁画を引き受けるにあたって、
まだ日中平和友好条約締結前の中国を数回訪れ、
鑑真の足跡をたどったようだ。

水墨画(と思われるのです)で描かれた
中国の風景は柔らかかった。

こうして御影堂の障壁画をあとにした。

最後の展示室。
ここは90歳でなくなるまでの
およそ20年間の画業があった。
作品の多くが長野県信濃美術館の
東山魁夷館のもの。
今ここが改修中で、
これらの展示が可能になったようだ。

そして私はほぼ初めて、
彼の青以外の作品を堪能した。


   東山魁夷「白い朝」1980年 東京国立近代美術館蔵
この「白い朝」に描かれている鳥。
その毛並みがほわっと暖かい。
印刷で見ていた時にはわからなかった感触だ。
こんなに雪だらけなのに、
命の温かさを感じさせる。


   東山魁夷「行く秋」1990年 長野県信濃美術館 東山魁夷館
不勉強の私は、こんな色の魁夷を知らなかった。
もしかして光も主題の一つかしら。
光について魁夷はまた彼なりの境地を見出したのかもしれない。
そんなことを考えたことはなかったけれど、
そう思うと、他にも光を意識したのではないかと
思われるものにも出会った。
同じ展示室にあった「木枯らし舞う」である。
これを観た時、速水御舟の「炎舞」がふと浮かんだ。

この次は、この光のことを考えながら観てみたい。
これは楽しい宿題にしよう!


   東山魁夷「夕星」1999年 長野県信濃美術館 東山魁夷館
そして、絶筆の「夕星」。
これを描き上げたのが90歳の時。
そして、老衰で亡くなったもの90歳。
私はその事実を知って絶句した。

老衰でなくなる寸前ともいえる時期に、
こういう作品をものにするのか・・。
ふと、かこさとしさんが亡くなる前の
ドキュメンタリーを思い出した。

生き切っている。
そう思った。

そんな精神力、自分にはあるのだろうか・・、
と、ちょっと恥ずかしくもなった日となりました。

長野県信濃美術館の東山魁夷館は
2019年の秋に改築を終わり、再開される予定だそうだ。
是非もう一度、ゆっくり味わいに行きたいと
今から再開を心待ちにするようになりました。

偏見と思い込みは出会いを失するなって思った
今回の東山魁夷展ではありました。











小学校もひと皮むけた?-国際交流デー見聞記ー

2018-11-17 11:44:45 | 何気ない日常から
「おばあちゃん、明日来る?」(TP 小学3年生男児)
「どこへ?」(私)
「明日は土曜日だけど、学校あるんだ。
国際交流デーでベトナムのことやるんだよ。
見に来る?」(TP)
「そうね、おじいちゃんと相談するわね」(私)

どうやら今週は土曜日が
授業参観日になっているらしい。
この授業参観日は地域にも開かれていて、
祖父母だって行ってもよいのだ。

普段の授業参観日は私たちは遠慮するけれど、
国際交流デーならいいかなって思った。
おまけに、3年生のTPは抽選で
舞台に上がることが決定したという。

何かを紹介するらしい。

見に来るって聞いてきたっていうことは、
来てほしいっていうことかなと理解して、
私たち夫婦は見に行くことに決めた。

この小学校の学区にはベトナム大使館、
ブルガリア大使館、ブラジル大使館、
ニュージーランド大使館などがある。

でも、子どもをこの小学校に通わせているのは、
圧倒的にベトナムの人が多い。
何故だろうって呟いたら、夫が言った。

「俺が子どもの頃(今から60年くらい前でござりまする)、
当時の南ベトナムの大使館が今の大使館の場所にあって、
そこの子どもたちが通ってきていたなあ。
あの人達今はどうしているんだろう・・・」(夫)

なるほど、ベトナム大使館と小学校のつながりは、
そんな昔からあったのか・・。

でも、自分の子どもがお世話になった
今から30年近く前、
その時は、ベトナムを含めて、
外国の子どもたちがいたという記憶はない。

私は子どもを小学校に入れた時、
びっくりしたことがあった。

それは、自分が小学校に入った時と
同じ空気が流れていたからだ。
世の中はずいぶん動いているのに、
どうして学校だけは変わらないのかなって。
なんだか、そこだけ隔離されている感じがした。

それから、また30年近い時が流れ、
孫が小学校に上がった。

そうしたら、大きく変わっていたこと、
それは、学校が地域などに開かれる時間が
かなり頻繁にあることだった。
少し、風が通り始めたのかなと思った。

それに加えて、最近の地域柄、
外国籍の子どもたちも増えている。

その中で、ダントツにおおいのが
この小学校では
ベトナム人の子どもたちというわけだ。

この小学校とベトナム大使館との
繋がりもあって、
毎年国際交流デーがあり、
ベトナムのことで学んだことを
学年ごとに発表する。

1,2年生は歌を学び、それ披露。
3年生はベトナムの遊びについて調べ、
実際に自分たちも遊び、
それを壇上で披露。

TPはその遊びをする役の
抽選に当たったというわけだ。

「見えるところだけじゃなくて、
裏方の仕事もあるんだよ。
PCでパワポを動かすとかさ。
皆、役があるんだ」(TP)

なるほど・・。

4年生は、ベトナムの文化の紹介。
休日のことなども話題に出た。
そのなかに「テト」という言葉があった。

私は思わず久しぶりに聞いたその言葉に反応した。
テトとは旧正月のこと。
ベトナム戦争の頃、
「テト休戦」とか「テト攻勢」という言葉をよく聞いたっけ。

発表の中では、
ベトナム戦争に触れるものについてはなかった。
考えてみれば、
もう50年近く前のことになるのだが、
なんだか信じられない・・・、
と頭はぐるぐる回ってしまった。

そうそう、この国際交流デーでの司会は
三言語ですべて子どもたちの手で行われていた。
日本語、ベトナム語、英語である。

英語の司会をしたのはたぶん帰国生。

これにもびっくりした。
私たち家族が赴任先から帰国して、
子どもたちはこの小学校に入った。

そして当時の彼らの努力は、
英語を話せることを極力隠すこと。

息子などは「宇宙人」といわれたこともある。

それから考えると、英語を話せることもまた、
この小学校の中では一定の位置を得られたのかもしれない。

もちろん、学校生活の子どもたち同士の厳しさはあるから、
本当はどうかは計り知れないけれど、
少なくとも「宇宙人」扱いは減ってきたのではないか、
と思わず期待してしまった。

土曜日の午前中、
久々にあれこれ考えてしまったひと時でした。

学校が、子どもたちにとって
気持ちよく自分を出せる場になることを祈りつつ。












まったり日曜日の朝の幸せ

2018-11-04 09:40:48 | 団塊世代夫婦の一コマ
日曜日の朝。
6時過ぎ、休みの日にも関わらず新聞配達あり!

「おはよう!新聞持ってきたよ」(小1、別名ウルトラマン2号)
「まあ、ありがとう。今日も早いのね」(私)
「今日はね、空手の昇段試験があるんだ。
だけどね、いくつか直さないと、帯の色は新しくならないんだ」(2号)
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、頑張るしかないわね」(私)
「まあね。じゃあ、またあとで」(2号)
といって、2号は軽やかに去っていった。

私たち夫婦、高齢者というのに、早起きではない。
夫はもともと早起きではなかったが、
いつの頃からか私も寝坊に・・。

新聞のある日は毎日1号(小3)か2号(小1)が
朝の6時前後に二階まで新聞を持ってきてくれる。

階下に住むウルトラマン一家は朝が早い。
だからウルトラマンたちも早起きだ。
週日はたいてい兄の1号が持ってきてくれる。
2号はまだ寝ているという。

そして新聞を置くと祖母の私のベッドにもぐってくる。
「あったかーーい」と言いながら。
そして、1分も経たないうちに
「じゃあ、またあとで」と言って去っていく。

それから私たちはまた30分ほど深い眠りにつく。
そして、7時過ぎに起きるという日課。
新聞配達のおかげで、日曜日も平日と同じ朝の日課。
これって、子育てしていた時と同じ。
子どもには平日も日曜日もない。

起きた私たちは
分業作業で、朝食の準備、
といっても準備をするほどのご馳走ではないのだけれど。
コーヒーは夫が沸かし、
私がパンを焼き、付け合わせを添える。
その間に夫は飼い猫ムサシのトイレ掃除。

朝食をとり始めるころには
ラジオから「音楽のいずみ」のテーマ音楽が流れてくる。
今日の内容はベートーベンの「クロイツェルソナタ」だった。

それを聴きながらのんびりの朝食。
いつの間にかムサシが周りをちょろちょろ。
夫が食事を終わり、新聞を読み始めるや、
秋から冬の定位置に。



そう、夫の組んだ足の中にすっぽり身体をうずめて
うたた寝をするのだ。

こうなると夫は2-30分、この姿勢を堅持しなくてはならない。
いつもは戦うことも多い夫とムサシ。
けれど、この朝の時間は共存の時。

私は夫よりムサシと仲良しなのだけれど、
私のところには来ない。
きっとすっぽりとハマる居心地の良さは夫の方が上なのだろう。

私はそんな様子を見ながら、PCを開く。
そして、ブログ書きを始めたというお話。

実はこのところ、こんな当たり前の日曜日の朝の調子がくるっていた。
身体の中の同居人と共存するための薬、別名毒薬が
毒薬本楽の顔を出し、やれ高血圧だ、自律神経失調だと
そんないたずらを仕掛けられ、
少々当たり前の日常から遠ざかっていたのでした。

当たり前の日々って本当に幸せなことなのですね。