この春、いわゆる大家といわれる
熊谷守一、横山大観、高山辰雄の
展覧会に行った。
これは、もちろん私の選択ではない。
夫が是非行こう!と言ったもので、
私はそれならお相伴にあずかろうと、
軽い気持ちでついていった。
そして分かったこと、
それはどれも「軽い気持ち」は
許されなかったといういうもの。
この3人の展覧会を見終わった今頃になって、
うーむ、この体験は何だったのだろうとつくづく思う。
熊谷守一展(国立近代美術館)チラシより
横山大観展 (国立近代美術館)チラシより
高山辰雄展(世田谷美術館)チラシより
いずれも作品数が多く、
画家の足跡が見通せる展示になっていた。
はじめの印象を言うと、
熊谷守一については
はじめの写実的な絵から、
その生涯の後半には前掲のちらしにもある
「猫」などの平面と線から構成される
抽象画へと変化していく。
その間には息子の亡骸を描いた
「陽の死んだ日」がある。
これなど私は正視できなかった・・。
画家の一生の中で、こんなにも
画風が変化していくのかと驚いた。
けれど、驚いたにとどまっていた。
横山大観展の印象。
これまたいろいろな描き方を編み出した
画家であることに改めて驚いた。
大観と言えば「富士山」といった
ステレオタイプの知識しかなかった私。
今年のお正月の「博物館に初もうで」で出会った
「無垢」
あまり大観の作品を知らない私は
「え、これが大観!」と驚嘆した。
今回、夫がどうしても観たいといっていた「夜桜」。
私の好みではないなと思いつつ、
なんとなく絵の前を去りがたくなるのは
なんだろう・・。
不思議な感じだった。
おまけにその右隣に展示されていた「紅葉」
ここに使われている「赤」は
私の好きな「赤」ではなかったから、
これまたしっくりこない。
なのに、「夜桜」と同じようにその場を去りがたい。
今までの私だったら、
あ、これあまり私好きじゃない!ということだけで
その場を去っていただろう。
けれど今回は去れない私がそこにいた。
高山辰雄。
静謐。
具体的なものは描かれているが、
とても抽象的。
95歳で亡くなる1年前に描かれた
初めての自画像は、
まわりの空気と高山翁自身との
境目がないものだった。
一体この人は何を求めているのだろう。
特に女の人の顔の描き方が印象的。
画家としての初期に描いた顔は、
彼のその終盤までほとんど変わらない。
つまり、顔は描いていないってこと?
顔に個性を出す必要がないってこと?
色んな疑問が次から次へと浮かんできた。
彼の絵もまた私の「好きな」タイプの絵ではない。
なのに、何かが私を引っ張る。
好きではないのに去れなかったり、
引っ張られたり・・・。
それは一体何なんだろう・・・、と考え、
ふと気づいたことは
「私がこうして絵を観るのは、
自分ってどういう人間なのってことを
探している」らしいということだ。
それからもう一つ。
ちょっと気恥しいけれど、
この宇宙はいったいどうなっているんだ
ということを知りたいってこと。
そんなことが鮮明になった美術展巡り。
特に高山辰雄展でその思いを強くした。
感覚人間で、あまり「考える」ということのなかった私。
どこかで考える人でもあるらしいと気づいたこの春。
ちょっぴり楽しみが増えた。
と思っていたら、昨日のN新聞の夕刊に
「モリのいる場所」という映画の紹介が。
熊谷守一の晩年の生活を
山崎努が守一役、奥さんを樹木希林が
演じるということだ。
「モリのいる場所」
http://mori-movie.com/
ああ、これはしばらく
この3人のことからの諸々を考えろっていう
啓示かなって思った美術館巡りでした。
熊谷守一、横山大観、高山辰雄の
展覧会に行った。
これは、もちろん私の選択ではない。
夫が是非行こう!と言ったもので、
私はそれならお相伴にあずかろうと、
軽い気持ちでついていった。
そして分かったこと、
それはどれも「軽い気持ち」は
許されなかったといういうもの。
この3人の展覧会を見終わった今頃になって、
うーむ、この体験は何だったのだろうとつくづく思う。
熊谷守一展(国立近代美術館)チラシより
横山大観展 (国立近代美術館)チラシより
高山辰雄展(世田谷美術館)チラシより
いずれも作品数が多く、
画家の足跡が見通せる展示になっていた。
はじめの印象を言うと、
熊谷守一については
はじめの写実的な絵から、
その生涯の後半には前掲のちらしにもある
「猫」などの平面と線から構成される
抽象画へと変化していく。
その間には息子の亡骸を描いた
「陽の死んだ日」がある。
これなど私は正視できなかった・・。
画家の一生の中で、こんなにも
画風が変化していくのかと驚いた。
けれど、驚いたにとどまっていた。
横山大観展の印象。
これまたいろいろな描き方を編み出した
画家であることに改めて驚いた。
大観と言えば「富士山」といった
ステレオタイプの知識しかなかった私。
今年のお正月の「博物館に初もうで」で出会った
「無垢」
あまり大観の作品を知らない私は
「え、これが大観!」と驚嘆した。
今回、夫がどうしても観たいといっていた「夜桜」。
私の好みではないなと思いつつ、
なんとなく絵の前を去りがたくなるのは
なんだろう・・。
不思議な感じだった。
おまけにその右隣に展示されていた「紅葉」
ここに使われている「赤」は
私の好きな「赤」ではなかったから、
これまたしっくりこない。
なのに、「夜桜」と同じようにその場を去りがたい。
今までの私だったら、
あ、これあまり私好きじゃない!ということだけで
その場を去っていただろう。
けれど今回は去れない私がそこにいた。
高山辰雄。
静謐。
具体的なものは描かれているが、
とても抽象的。
95歳で亡くなる1年前に描かれた
初めての自画像は、
まわりの空気と高山翁自身との
境目がないものだった。
一体この人は何を求めているのだろう。
特に女の人の顔の描き方が印象的。
画家としての初期に描いた顔は、
彼のその終盤までほとんど変わらない。
つまり、顔は描いていないってこと?
顔に個性を出す必要がないってこと?
色んな疑問が次から次へと浮かんできた。
彼の絵もまた私の「好きな」タイプの絵ではない。
なのに、何かが私を引っ張る。
好きではないのに去れなかったり、
引っ張られたり・・・。
それは一体何なんだろう・・・、と考え、
ふと気づいたことは
「私がこうして絵を観るのは、
自分ってどういう人間なのってことを
探している」らしいということだ。
それからもう一つ。
ちょっと気恥しいけれど、
この宇宙はいったいどうなっているんだ
ということを知りたいってこと。
そんなことが鮮明になった美術展巡り。
特に高山辰雄展でその思いを強くした。
感覚人間で、あまり「考える」ということのなかった私。
どこかで考える人でもあるらしいと気づいたこの春。
ちょっぴり楽しみが増えた。
と思っていたら、昨日のN新聞の夕刊に
「モリのいる場所」という映画の紹介が。
熊谷守一の晩年の生活を
山崎努が守一役、奥さんを樹木希林が
演じるということだ。
「モリのいる場所」
http://mori-movie.com/
ああ、これはしばらく
この3人のことからの諸々を考えろっていう
啓示かなって思った美術館巡りでした。
これは是非観なきゃ!と思っています。
熊谷守一のリトグラフや掛軸を武相荘で見た記憶があります。懐かしいな。。。
いつもコメントありがとうございます。「モリのいる場所」は山崎努と樹木希林のコンビですので、きっといいんじゃないかと思います。
武相荘にあったのですね。私も一度訪ねましたが、気がつかなかった(*_*;。