りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

チノパン。

2011-04-08 | Weblog
プライベートでは滅多に穿かなくなったが、
仕事では、一貫としてチノパンを穿いている。

チノパンにジャケットにボタンダウンのシャツでノーネクタイ。
これが、僕の仕事の時のユニフォーム(笑)

この格好が一番動きやすいし、仕事がしやすいのだ。

写真のチノパン。

実はこれ、今から17年ほど前に購入したチノパン。
リーバイス。たしかそれなりの値段がした記憶がある。
見方を変えれば、当時、僕がお金の使い方をよく知らなかった
ことを露呈しているような代物だ(笑)

でも、そこは腐ってもリーバイス。
カタチや色は似ていても、そこらへんで売っているチノパンと
ちょっと違うのよ。
何が違うって、肌触り。
コットンが違うのかなぁ?
とにかく柔らかいのだ。
チノパンなのに、なんだかフワフワしたような肌触りがする。
やっぱり、ホンモノのブランドは違うのかもしれないねぇ。

しかしこのチノパン、これだけ良い代物なのに、実は2~3回しか
足を通していない。

なぜか?

それは、このチノパンを購入した直後から少しずつ太りはじめたのだ。
少しウエストをキツめだったこのチノパン(意識的にそれくらいの
サイズを選んだ)は、あっという間に穿けなくなってしまったのだ。

それがあまりにも悔しくて、それ以来、これが穿けるようになるまで、
また痩せるというのが、僕の減量の目安となった。

あれから17年が過ぎて、昨日、タンスの引出しから久々に引っぱり出して、
足を通してみた。

穿けた。当たり前のように、穿けた。

ただし、ウエストのボタンがまだ少しキツイ。
あと1~2kgのダウンが必要な様子。
でも、今の心身の状態なら、それくらいの減量なら1ヶ月もあれば
できるような気がする。

今年の初夏は、このチノパンを穿いて、トラッド路線に走ってやる(笑)
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日本のちから。

2011-04-07 | Weblog
昨日、仕事中、1時間ほどスッポリと時間が空いたので、タイポグラフィをデザインしてみた。



この言葉の意味するところを、今、説明する必要なんてないだろう。
僕自身、ほとんど無意識のうちに、この言葉を打ち込んでデザインしていた。

出来上がったタイポグラフィは、別にデザイン自体、斬新なものではない。
もっと時間をかければ、いいデザインに仕上げられるような気がする。

でも、この方が、僕らしい。

制作途上の方が、僕らしい。

未完成の方が、僕らしい。
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光陰矢の如し。

2011-04-06 | Weblog
今日から、子どもたちは新学期。

我が家の娘も、今日から小学6年生。
息子は、小学2年生。

え、娘が、小学6年生!?
もう、そんなになるの!!!???
だって、この前幼稚園を卒園したばかりじゃん!

・・・そんな半信半疑な自分がどこかにいる。

他人の子どもの成長は早く感じる、と世間ではよく
言うが、自分の子どもの成長もじゅうぶん早いよ(笑)

きっと時間の流れる感覚が、年を重ねるにつれて
どんどん早くなっているんだろうな。

光陰矢の如し。
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僕と彼女と週末に。

2011-04-05 | Weblog
来週の土曜日から、いよいよ浜田省吾のライブツアーがはじまる。
http://sh-otr2011.jp/

約4年ぶりのライブツアー。
初日は、16日(土)の静岡での公演だ。

その後、10月30日(日)のさいたまスーパーアリーナまで、
全国の主要都市のアリーナクラスの会場でライブを開催する予定だ。
ちなみに、僕は5月14日(土)の広島グリーンアリーナの公演チケットを
予約している。

今回のライブツアーは、昨秋発表されたセルフカバーアルバム
「The Last Weekend」にともなったライブツアーである。

浜田省吾といえば、愛や青春といった、いまや死語になりつつあるような
こんな言葉がピッタリとあてはまる数多くの佳曲を発表し続けてきた一方で、
現代の世相や世界情勢と真摯に対峙し、それを歌として発表してきた、
いわゆる「メッセージシンガー」という側面もある。
代表曲の「J.BOY」などは、その最たるものだろう。

昨秋発表された「The Last Weekend」は、そんなメッセージシンガーとして、
過去、浜田省吾が発表してきた楽曲を集め、あらためてセルフカバーした
アルバムだった。

アルバムタイトルを直訳すると、「最後の週末」となるが、これは今回の
アルバムに収録されているある曲の英題である。

その曲は「彼と彼女と週末に」という。

この曲は、1982年に発表されたアルバム「PROMISED LAND~約束の地~」の
最後に収録されていた曲で、演奏時間は8分を超える大作である。
アルバム自体は、チャートのベストテンに入るヒット作となったが、
この楽曲自体は、その壮大さに比べて、発表当時はさほど注目されなかった。
それどころか、その抽象的な歌詞のために、ほとんど黙殺のような扱いだった
記憶がある。

しかし。
年月を重ねるにつれ、時代が移るにつれ、この曲は徐々にその存在感を増しはじめた。

「歌は世につれ、世は歌につれない」

日本のポップスを築き上げてきた重要人物で、浜田省吾の盟友でもある山下達郎氏の
この言葉どおり「彼と彼女と週末に」も、気がつけば、世につれられた歌へと育って
いったのである。

以前、ある雑誌のインタビューで、浜田省吾はこの歌について、こう語っていた。
「この歌のタイトルは、ふたつの意味があるんです。ひとつは文字通り、恋人の週末。
英語で言うところのWeekendですね。もうひとつは週末ではなく、“終末”。つまり、
“Last”。このふたつの意味を内包させたタイトルなんです」

この曲の歌詞を知らない人は、いったい何が“終末”なのか、まったく分からないと思う。
しかし、この歌で歌われているのは、明らかに“終末”の物語だ。

今回のアルバムは、この歌がアルバムの“核”となっている。
必然的に、おそらくライブでのクライマックスもこの歌が“核”となることだろう・・・と、
僕をはじめファンのみんなは予想していたことだと思う。

だが。

2011年3月11日。
本当に“終末”が、この国を襲った。

震災直後、ファンの一人として、今回のツアーがどうなるのか、僕は気がかりで
ならなかった。
開催できるかどうか・・・などという低次元な話ではない。
開催されたとしても、今回のツアーのコンセプトが、あまりにも今の日本には過酷すぎる
のではないか?と思ったのだ。

予想通り、現在、様々なイベントが自粛され続けている。
マスメディアから笑顔が消えた。
ありとあらゆるところで、ちょっとした言動に対して「不謹慎」という言葉が、跋扈している。

そのような空気が覆う中で、僕は少しずつ考え方が変わってきた。

僕は、今こそ、この曲を、出来るだけ多くの人に聴いてもらうべきだと思っている。
辛い歌である。酷い歌である。
抽象的だった歌詞は、今、あまりにも具体的な事象として、僕たちの目の前に
立ちはだかっている。
つまり、発表から29年の時間をかけて、ついに、とうとう、この歌が、世と
ぴったりと重なってしまったのだ。

しかし、だからこそ、今、この歌を、浜田省吾には歌ってもらいたい。
今の僕らは、現実を直視し、それと対峙するしか、道はないのだ。

この歌は、29年の時を経て、まっすぐに、それを訴えている。

浜田省吾「僕と彼女と週末に」
コメント (2)
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う,ふ,ふ,ふ。

2011-04-04 | Weblog
今日は、ポカポカ陽気。

春ですねぇ。

EPO う,ふ,ふ,ふ
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春の休日。

2011-04-03 | Weblog
今日は、日曜日。

空は薄曇り。

午前中にクルマを洗車。

久々に娘が手伝ってくれた。



でも途中で飽きたのか、気がつけば庭で遊んでた。



ジャンプボール(というのかな?)でピョンピョン。

息子は土を掘って何かを発掘中(笑)

花壇の芝桜には、ふくらんだ蕾。

丘の方から、ウグイスとキジの鳴き声。

どこにでもあるような、春の休日。
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「苦役列車」を読んで。

2011-04-02 | Weblog
いいなぁ~、今日のこの日記のタイトル。
まるで小学生の読書感想文みたい(笑)

でも今日の日記は、この小説の読書感想文に変わりはないからなぁ。
まぁ、妥当なタイトルでしょう。

3月下旬に「文藝春秋」を購入して、仕事の合間や帰宅後に読みました。
http://blog.goo.ne.jp/riki1969/e/d3f305c515950ee4e5515da737ffbe92

いやぁ、すごい小説だった。
主人公の貫多(かんた)の、辟易を通り越して苦笑するしかないような見事なダメっぷり。
社会の最底辺の鍋底を舐めるような極貧生活。
世間や他人を徹底的に斜めからしか見られない、屈折しまくった性格。

仮に知り合いにはなれても、絶対に友達になれない。なりたくない(笑)

そんな貫多の言動や彼の周囲で起こる(正確には彼が起こすのだが)出来事に嫌気がしつつも
それでも最後まで読み終えたのは、明らかにこの小説が優れているからに他ならない。

時代設定は、おそらく1980年代半ばから後期、つまり日本がバブルで熱病のように浮かれまく
っていた頃なのだが、作者自身、戦前の無名作家・藤澤清造の没後弟子を自称しているように、
文体は時代設定に比べて、やや(というかかなり)古い。
しかし、あえてそのようないわば古文に近い文体を用いることで、主人公の赤貧ぶりや偏屈ぶりが
見事にあぶり出されているような気がした。

文体はそんな感じだが、紡がれた言葉にはしばしば唸った。
非常に秀逸な語彙が並んでいて、その言葉たちが、これまた主人公のダメっぷりを物語の中で
否応に露呈し続けるのだ。

そもそも、この西村氏の作品の言葉には琴線が触れるような作品が多い。
タイトルだけ見ても、敏感に反応せざる得ないような作品が多いのである。
「どうで死ぬ身の一踊り」、「けがれなき酒のへど」、「小銭をかぞえる」・・・etc.
購入するかどうかは別として、書店で遭遇したら、無意識のうちにその書籍に手を伸ばして
しまいそうなタイトルのオンパレードだ。

小説のタイトルは、人間でいえば、顔だ。
その顔次第で、注目されるかされないか、売れるか売れないかが決まると言っても過言ではない。
これは地方の小さな広告代理店だが、コピーライター的な仕事もしている広告業界の端くれの
人間としても興味深い。

西村氏は、自身を小説家ではなく、「私小説家」と呼んでいる。
つまり自身の身に起こった出来事を、それこそ身を削って作品にしている。
今回のこの「苦役列車」も、そんな作品のひとつだ。

そんな作品が純文学の最高峰の芥川賞を受賞したことは、選者の山田詠美氏の言葉を借りれば、
愉快でたまらない。

しかしその一方で、ふと思ったことがある。
いったい、「純文学」とはなんなんだろう?

以前から、この件に関しては活発に論議されているテーマではあるが、いまだにその明確な
定義はないようである。
この「苦役列車」も、今回は純文学として芥川賞にノミネートされ受賞に輝いたが、
文体や、あらすじの視点を少し変えて執筆されていたら、痛快で底抜けに面白いエンターテイ
メント性にあふれた青春小説になっていたような気がする。
そうなれば、おそらく芥川賞ではなく、大衆小説を対象としている直木賞にノミネートされて
いたのではないだろうか。

アマチュアながらも細々と小説を書いている人間として、今回、“もし自分がこのテーマで作品
を書くなら・・・”とシュミレーションしながら読んでいた。
もし、僕がこのテーマで作品を書くのなら、きっともっと主人公を突き放した上で、重量を極力
軽くした文体で綴っていたと思う。
それはまさしく、エンターテイメントにあふれた青春小説だ。
そうしなければ、こんな切なくみすぼらしい人物を主人公に据えて小説を書くことは、今の僕
には到底できない。書き進むにしたがって、苦痛しか残らないような気がするのだ。
それを考えれば、西村氏の文章の精神力、体力、持久力は、とんでもないレベルだと思う。
だから“自分には私小説しか書けない”と明言する同氏の腹の据わり様は、尋常ではない。

まぁ、そんな感じで二週間ほどで読了した「苦役列車」。

さて、次は何を読もうか。
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スタートライン。

2011-04-01 | Weblog
大阪の友人に、この歌を贈ります。

大丈夫。

いつか、きっと、かならず。



馬場俊英「スタートライン」

コメント (1)
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