りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

閉じた瞼の向こう側。

2014-12-31 | Weblog
子どもの頃、何か心配事や迷い事があれば、幼いなりに一丁前に考えることがあった。

ある日、いつものように拙い頭で考え事をしていたワタシは、あまりにも難題な問題に(子どもの悩み事だから、今思い返せば本当に些細なことだったのだが)、考え続ける事に嫌気が差して、ふと無意識に両眼の瞼を閉じたことがあった。
そしてその時、あることに気づいた。


瞼を閉じるだけで、世界は消えてしまう。


両眼の上の筋肉をほんの少しだけ動かし、薄皮のような瞼を上下させるだけで、自分と自分を取り囲む世界は瞬時に遮断され、その代わりに、漆黒とも暗黒とも違う、穏やかなようなで冷たいような、暖かいようで寂しいような、何とも説明できない暗闇が広がる。
そしてそれは、それまで自分を悩まし続けていた考え事も迷い事も、世界と一緒に消え去ってしまう感覚になったのだった。

ワタシにとって、それはまるで、“0”の概念を発見した古代インド人のように衝撃的な発見だった。
たった一枚の瞼で、世界は何とでもなる・・・幼いワタシはそう信じ込んでしまった。

以来、ワタシは何度も両眼を閉じた。
それだけで全ての物事が解決するわけではないことは、時間の経過とともにさすが分かってはきたのだけど、三つ子の魂然り、その行為は今のワタシの中にも“癖”となって隠然と残ってしまった。
おかげで、何かしら人生の壁にぶつかると、ワタシは無意識のうちに両眼の瞼を静かに閉じてしまうような人間になってしまい、そして年齢を重ねるに連れて、いつの頃からか、瞼を閉じると、その狭間の眉間には数本の深い溝まで刻んでしまうようになってしまった。
だが、そうやって何十年も生きてきて、最近、またひとつ、気がついたことがある。


瞼を閉じることで消えてしまうのは、世界ではなく、実は自分自身なのではないか?・・・と。


瞼を閉じれば、暗闇が広がる。
だがそれは、世界が消え去った後の暗闇ではなく、世界と真正面から対峙しなくなった自分自身が消えた後の暗闇なのではないか。
つまりあの説明不能な暗闇は、怖気づいて世界から逃げてしまった、弱々しい自分の痕跡なのではないか。

恥ずかしながら、本当につい最近になって、ワタシはそれに気づいてしまった。

だからといって、“これからは瞼を閉じず、自分からは逃げないようにしたい”・・・なんて安易なことは書かないし、書きたくもない。
これからも何か心配事や迷い事があれば、ワタシは無意識のうちに両眼の上の貧弱な筋肉を動かして瞼を閉じるだろう。
しかもこれから訪れる心配事や迷い事は、おそらく今までに経験したそれらとは、重みも大きさも比ではなくなってくるような気がしている。
時には、あまりの重量に、閉じた瞼を永久に開きたくなくなることもあるかもしれない。
いつの頃からか刻まれるようになった眉間の溝も、今よりももっと深くなってしまうかもしれない。

それでもワタシは、瞼を閉じたら、必ずもう一度開いていきたい。

そうすることで、一旦暗闇の中に消え去ってしまった自身を再生させ、そしてもう一度、眼の前に広がる世界と自分が対峙することができるような気がしている。

閉じた瞼の向こう側には、きっと新しい自分と世界が待っている。

そう思いながら、ワタシはこれからも生きてゆきたい。

今年も1年、ありがとうございました。
皆様にとって、2015年が素晴らしい年になることをお祈りしています。

ルイ・アームストロング~What a Wonderful World.
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