昨日は一日中、なぜかこの歌が頭の中を何回もリピートしていた。
このブログを読んでいる人の中で、この歌を知っている人は
たぶんマイノリティ(少数派)になってるんだろうなぁ・・・。
だって、今から26年も前の歌だもんねぇ。
伊武さん、若いなぁ。微妙に劇団ひとりに似てるし(笑)
しかし、久々に聴いて思ったけど、すんごい歌だよねぇ
今だと、絶対に発禁を喰らうこと間違いなし(笑)
それ以前にこういう歌を発売しようとする企画自体、今のご時世だと
浮かばないかも知れない。
当時、僕は14歳。中学2年生。
もう“子ども”というには、微妙な年齢だった。
いや、そういう年齢だったからこそ、この歌は衝撃的だった。
もちろん、この歌を真正面から信じるようなことはしなかった。
自分でいうのもなんだけど、そこまで“バカ”じゃなかったから。
そしてこんな歌が普通に世間に発表されたということは、当時の
社会も、この歌を許容できる寛大さがあったのだろう。
上記したとおり、今、この歌を発表したら、必ず何らかのリアクション、
・・・おそらく、あまり良いリアクションは起こらないはずだ。
それは今の社会には、この歌を許容できるだけの寛大さがないことの
証しだと思う。
僕は、こう思う。
伊武さんはもちろん、作詞をした秋元康氏も、きっと本心では子どもが
好きなのだ。
好きだからこそ、子どもを妬む歌を書けたし、歌えたのだ。
本当に嫌いなら、口にするのも嫌なはずだ。
この歌が発表された頃の社会と今の社会が決定的に違うこと・・・
それは、今の社会はこの歌の通り・・・つまり、本当に子どもが嫌われる
社会になっているということではないだろうか?
つまり、社会に“余裕”がないのだ。
もっと簡単に言えば、“シャレ”にならないのである。
昔はこの歌に限らず、様々なアンチテーゼ的な歌があった。
しかし、今では周囲を見まわしても、そんな歌が世間に流布している
様子は見られない。
仮に発表したとしても、余裕のない世間から真正面から捉えられて、
抹殺されるのがオチだろう。
今の社会は、アンチテーゼさえも規制される世の中になってしまって
いるのかも知れない。
こんな歌が公に歌える世の中に、もう一度戻れないものだろうか?
「子ども達を責めないで」伊武雅刀
このブログを読んでいる人の中で、この歌を知っている人は
たぶんマイノリティ(少数派)になってるんだろうなぁ・・・。
だって、今から26年も前の歌だもんねぇ。
伊武さん、若いなぁ。微妙に劇団ひとりに似てるし(笑)
しかし、久々に聴いて思ったけど、すんごい歌だよねぇ
今だと、絶対に発禁を喰らうこと間違いなし(笑)
それ以前にこういう歌を発売しようとする企画自体、今のご時世だと
浮かばないかも知れない。
当時、僕は14歳。中学2年生。
もう“子ども”というには、微妙な年齢だった。
いや、そういう年齢だったからこそ、この歌は衝撃的だった。
もちろん、この歌を真正面から信じるようなことはしなかった。
自分でいうのもなんだけど、そこまで“バカ”じゃなかったから。
そしてこんな歌が普通に世間に発表されたということは、当時の
社会も、この歌を許容できる寛大さがあったのだろう。
上記したとおり、今、この歌を発表したら、必ず何らかのリアクション、
・・・おそらく、あまり良いリアクションは起こらないはずだ。
それは今の社会には、この歌を許容できるだけの寛大さがないことの
証しだと思う。
僕は、こう思う。
伊武さんはもちろん、作詞をした秋元康氏も、きっと本心では子どもが
好きなのだ。
好きだからこそ、子どもを妬む歌を書けたし、歌えたのだ。
本当に嫌いなら、口にするのも嫌なはずだ。
この歌が発表された頃の社会と今の社会が決定的に違うこと・・・
それは、今の社会はこの歌の通り・・・つまり、本当に子どもが嫌われる
社会になっているということではないだろうか?
つまり、社会に“余裕”がないのだ。
もっと簡単に言えば、“シャレ”にならないのである。
昔はこの歌に限らず、様々なアンチテーゼ的な歌があった。
しかし、今では周囲を見まわしても、そんな歌が世間に流布している
様子は見られない。
仮に発表したとしても、余裕のない世間から真正面から捉えられて、
抹殺されるのがオチだろう。
今の社会は、アンチテーゼさえも規制される世の中になってしまって
いるのかも知れない。
こんな歌が公に歌える世の中に、もう一度戻れないものだろうか?
「子ども達を責めないで」伊武雅刀