ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(5)─ ヤクザをボコって熊本を逃げ出す!

2015年07月12日 | 日記
トラブルの種を持ち込んだのは、弟の継信でした。
当時、木村兄弟は夜番代わりとして、鐘淵紡績寄宿舎の舎監部屋に住み込んでいました。
柔拳興行の賞金として、50円というまとまった金を手にした又蔵は上京を思い立ちます。そのための準備も万端整ったある晩のこと、継信が手拭いで口を押え、懐に右手を入れて戻って来たのです。
「兄者、やられた。治してくれ」
そう言って差し出す継信の右手を見ると、薬指が根元から反対側に折れ曲がってしまっているではありませんか。関節がはずれてしまっているようです。
いったい、何があったのでしょう?

その日、継信は馴染みの飲み屋「おても」で、薬を商っている彼からよく化粧水を買ってくれる女給のチヨに、化粧の仕方を教えながら飲んでいました。
すると、隅で飲んでいた25、6歳くらいのヤクザと思われる男2人連れが、チヨの無愛想に怒って継信に絡んできました。女にもてない2人を、継信が見て嘲笑ったと言いがかりをつけてきたのです。

気位の高い継信が、「妙な因縁つくるな」と応じると、怒った相手が襲いかかってきました。反撃する間もなく1人の頭突きで前歯を折られ、もう1人に指を捻られてしまいました。
そこで継信は待ったをかけ、
「薬屋が薬指を折られては商売にならんから、これだけは医者に行って治してくる。それまで飲み代は俺が持つから、ここで飲みながら待っとってくれ」
と言って、とにかくその場から抜け出して来たのでした。

又蔵が継信の手首を掴み、薬指を持ち上げるように引くと、コツンといって元通りになりました。
それから又蔵は、右手を包帯で固定し、大風呂敷で吊った継信を連れて「おても」に向かいます。
弟に怪我をさせられた、仕返しをしようというのです。

 
牛島辰熊や木村政彦らの激闘を描く『実録 柔道三国志・続』。ひろむしが又蔵を知ったのはこの本です

店頭に灯った赤提灯の下からガラス戸越しに中を覗き、2人がまだ店にいるのを確かめると、又蔵は継信に「うまく呼び出せ」と言って、袴に挟んでおいた手拭いで頬被りしながら暗がりに隠れました。
暖簾を潜った継信が、
「待たせたな。仲直りに飲み直そう。俺の行きつけにオツな所のあるけん、ちょっと付き合わんか」
と誘うと、吊った片腕に気を許した2人がのこのこと出て来ました。
そこへ又蔵が、目にも止まらぬ早技を見舞います。
1人は首筋に手刀、1人は水月(人体の急所。みずおち)に強打を食らい、重なるように倒れ伏しました。
そして、又蔵に「やれ」と促された継信が、
「木村継信ば、見損なうなぁ!」
と頭突きを食わされた方の男の頭を力まかせに駒下駄で蹴りました。
すると、男の額がザックリと切れたので、慌てた又蔵は継信を引っ張って、一目散にその場を逃げ出しました。

鐘紡裏門で追っ手がないのを確かめ、舎監部屋に逃げ込むや、又蔵は継信にげんこつをかませます。
「こん馬鹿たれ! ヤクザ相手に名乗る奴があるか!」
「そぎゃん言うても、俺の名は、どうせ店には分かっとるばい」
聞けば、継信が鐘紡にいることも店に知られているというので、こうなっては早く逃げるほかないと、兄弟は急いで旅支度を整え、舎監部屋を飛び出しました。
継信は強いばかりの兄と違ってなかなか芸達者な男で、その頃流行りだった筑前琵琶の名手でした。
そこで、誘われていた福岡に本拠を持つ旅巡りの一座を頼ることにして、又蔵とは博多で別れました。

こうして予定の行動だったとはいえ、思いのほか慌ただしく郷里を離れることになった又蔵が向かった先は、柔道の総本山である東京の講道館でした。


【参考文献】
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1977年
原 康史著『実録 柔道三国志・続』東京スポーツ新聞社、1995年
笹間良彦著『図説 日本武道辞典《普及版》』柏書房、2003年