「柔術:武器を使わないさむらいの武術」は明治21(1888)年4月18日、世界的なアジア研究機関だった「日本アジア協会」(The Asiatic Society of Japan)の例会で、トマス・リンゼーによって発表されたものです。
会場は東京帝国大学工科大学(前身は工部大学校)で、その後は講堂において、嘉納治五郎が柔道の実演を披露しました。
論文はリンゼーと治五郎の連名になっていますが、山田實氏は著書『yawara 知られざる日本柔術の世界』で治五郎が草稿の全文を書き、リンゼーが英語表現上の校閲をしたのではと推測しています。
私も内容の緻密さ、正確さから考えて、これは妥当な見解だと思っています。
当時、学習院教授兼教頭の職にあった治五郎はまだ弱冠27歳、日本人が手がけた初めての外国人向けの柔術紹介論文が、世に発表された瞬間でした。
ちなみに共同執筆者のリンゼーは、英国ケンブリッジ大学所属の牧師だった人です。
それでは昭和57(1982)年、『岐阜経済大学論集』に掲載された小野勝敏氏による訳文を随時引用しながら、その内容を繙いていきましょう。
まず、「柔術」という言葉の意味ですが、本論文では「従順と柔軟により勝利を得る術」としています。そして、柔術(ほかにも柔<やわら>、体術、小具足、拳法などの名称で知られてきました)について語る場合、「武器を使わない格闘術」として述べるのが最上ですが、相手が長い武器を持って向かってくる際には、こちらも短い武器を使う場合もあるといっています。そして、ラフカディオ・ハーンと同様、レスリングと似ていると述べていますが、「本質的に異なって」おり、「その主な原理は、力をもって力に対するのではなく、力に逆らわずに勝利を得ること」と説明しています。
次いで柔術の歴史を概観していくのですが、その調査にはこの分野独特の困難がともなうといいます。
それは、「秘伝書の不確実性」です。実は、いろいろな流派の伝書はかなりたくさんあるのです。ただ、そのうちの多くは内容が矛盾していて、辻褄<つじつま>が合いません。
新しい流派の創始者たちは、自分に都合がいいように歴史を作ってしまうので、一貫した明白な柔術の起源を物語る資料は、たいへん少ないのです。
さらに、江戸時代までは国内諸藩の関係が非常に閉鎖的であり、流派間の交流がないため対立・矛盾した歴史が、疑われることなく信じられ、受け継がれてきました。また、柔術を学ぶ者たちの関心事も、起源や発展の歴史なんぞよりも、実際的な術の効果の方に集中していました。
治五郎のように、柔術に学究的な興味を抱く者など、ほとんどいなかったのです。
こうして話は、いよいよ柔術の起源に移ります。
さまざまな武術の大家たちの伝記を記した『武芸小伝』(日高繁高著『本朝武芸小伝』享保元<1716>年)には、柔術に該当する「小具足」と「拳」の項目があります。「拳」とは拳法のことで、先に述べたように、いずれも広い意味でいう柔術の異称です。それなのに、なぜ別々にされているかというと、「前者は捕縛の術であり、後者は柔軟により勝利を得る術である」という違いがあるからです。
小具足は天文元(1532)年、作州(岡山県)の人竹内中務大夫(久盛)が、突然家に現れた修験者から人を捕える5つの方法を教わったことに始まります(竹内流腰廻<こしのまわり>小具足)。
一方の拳はというと、次のような起源譚が紹介されています。
万治2(1659)年に中国からやって来た陳元贇<ちんげんぴん>が江戸麻布の国正寺(国昌寺)に寄寓していた時に、やはり同じ寺に住していた福野七郎右衛門(正勝)、磯貝次郎左衛門、三浦与次右衛門(義辰<よしとき>)と出会いました。彼らは陳から中国には人を捕縛する術があると聞き、工夫を重ねて高度な技法を編み出したと書かれています。
治五郎たちはさらに、起倒流の『印可状地巻』や『武術流祖録』、『尾張名所図会』、『先哲叢談』、『嬉遊笑覧』など多数の文献に当たって、陳の経歴や3浪士の研究から起倒流が創始されたことなど、『武芸小伝』の記事内容を発展・補強しています。
治五郎が明治15年に政治学・理財学の講師となって以来務めていた学習院は神田錦町(学習院開校の地、上)にありましたが、「柔術」発表と同じ明治21年、虎ノ門の工部大学校跡(下)に移転しました。
楊心流という流派についても述べられています。
肥前長崎の医師秋山四郎兵衛義時が、医術修行のために渡った中国で白打という武術を学び、それを基に考案したというものです。
先に挙げた陳元贇の例と共通するのは、共に柔術(流派)の起源を中国に求めている点ですが、これについて治五郎たちは否定的です。その理由を、彼らは次のように列挙しています。
なお、( )内の記述は、筆者による補足説明です。
(1)武器なしで防御する術は世界中にあり、日本でも封建社会にあって必然的に柔術が発展した。(武器の持ち込みが制限された城中などにおいて身を守るため、ということでしょうか?)
(2)中国の拳法と日本の柔術は、その方法が実質的に異なる。(中国拳法は打撃技が中心ですが、柔術は投げ技・固め技が主です)
(3)同種の術が、陳元贇の時代以前にもあった。(竹内流も、その1つでしょう)
(4)起源に関する説明が充分に納得のいくものではない。
(5)日本の武技の歴史は相当に古く、その中には柔術に似た点もある。(例えば源平争乱の時代にも、合戦において柔術を連想させる組討が行われていました)
(6)中国の芸術・文明は日本人に高く尊重されていたので、その威光を借りて箔をつけるために、柔術を中国起源とした。
(7)古くから、槍や剣などを使う武術家たちは、ある程度柔術を稽古していたようだ。(柔術が、剣や槍が折れたり、奪われたりした時に、徒手空拳で戦う方法として、わが国の武術家たちによって工夫・創造されてきたという可能性を示しているものと思われます)
治五郎たちは、陳元贇が中国の武術(中国拳法)を日本に紹介した可能性まで否定しているわけではありません。ただ、柔術がそれを発展させたものであるという説に疑問を呈しているのです。
彼らは書いています。
「柔術が中国のいかなる助けもなしで、現在の完成に至った日本の武術である、と信じる。陳元贇や他の中国の拳法書が、その発展に刺激を与えたであろうことは認めるものである」
治五郎とリンゼーは、ここまでで柔術の起源や、柔術がどのようなものであるかという一般的な概略について説明してきました。その内容は、いかにも治五郎らしく、広範な資料を網羅し、論理的に分析し、考察を重ねた学術的なものとなっています。
そしてここから話は、起倒流や扱心流、天神真楊流といった具体的な個々の流派の歴史へ、さらには高名な柔術家たちの驚きのエピソードへと言及していくのです。
【参考文献】
トマス・リンゼー、嘉納治五郎著、小野勝敏訳「柔術─武器を使わないさむらいの武術─」
『岐阜経済大学論集』9月号(16巻3号)岐阜経済大学学会、1982年
嘉納治五郎著『新装版 嘉納治五郎著作集』第3巻 五月書房、1992年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年
会場は東京帝国大学工科大学(前身は工部大学校)で、その後は講堂において、嘉納治五郎が柔道の実演を披露しました。
論文はリンゼーと治五郎の連名になっていますが、山田實氏は著書『yawara 知られざる日本柔術の世界』で治五郎が草稿の全文を書き、リンゼーが英語表現上の校閲をしたのではと推測しています。
私も内容の緻密さ、正確さから考えて、これは妥当な見解だと思っています。
当時、学習院教授兼教頭の職にあった治五郎はまだ弱冠27歳、日本人が手がけた初めての外国人向けの柔術紹介論文が、世に発表された瞬間でした。
ちなみに共同執筆者のリンゼーは、英国ケンブリッジ大学所属の牧師だった人です。
それでは昭和57(1982)年、『岐阜経済大学論集』に掲載された小野勝敏氏による訳文を随時引用しながら、その内容を繙いていきましょう。
まず、「柔術」という言葉の意味ですが、本論文では「従順と柔軟により勝利を得る術」としています。そして、柔術(ほかにも柔<やわら>、体術、小具足、拳法などの名称で知られてきました)について語る場合、「武器を使わない格闘術」として述べるのが最上ですが、相手が長い武器を持って向かってくる際には、こちらも短い武器を使う場合もあるといっています。そして、ラフカディオ・ハーンと同様、レスリングと似ていると述べていますが、「本質的に異なって」おり、「その主な原理は、力をもって力に対するのではなく、力に逆らわずに勝利を得ること」と説明しています。
次いで柔術の歴史を概観していくのですが、その調査にはこの分野独特の困難がともなうといいます。
それは、「秘伝書の不確実性」です。実は、いろいろな流派の伝書はかなりたくさんあるのです。ただ、そのうちの多くは内容が矛盾していて、辻褄<つじつま>が合いません。
新しい流派の創始者たちは、自分に都合がいいように歴史を作ってしまうので、一貫した明白な柔術の起源を物語る資料は、たいへん少ないのです。
さらに、江戸時代までは国内諸藩の関係が非常に閉鎖的であり、流派間の交流がないため対立・矛盾した歴史が、疑われることなく信じられ、受け継がれてきました。また、柔術を学ぶ者たちの関心事も、起源や発展の歴史なんぞよりも、実際的な術の効果の方に集中していました。
治五郎のように、柔術に学究的な興味を抱く者など、ほとんどいなかったのです。
こうして話は、いよいよ柔術の起源に移ります。
さまざまな武術の大家たちの伝記を記した『武芸小伝』(日高繁高著『本朝武芸小伝』享保元<1716>年)には、柔術に該当する「小具足」と「拳」の項目があります。「拳」とは拳法のことで、先に述べたように、いずれも広い意味でいう柔術の異称です。それなのに、なぜ別々にされているかというと、「前者は捕縛の術であり、後者は柔軟により勝利を得る術である」という違いがあるからです。
小具足は天文元(1532)年、作州(岡山県)の人竹内中務大夫(久盛)が、突然家に現れた修験者から人を捕える5つの方法を教わったことに始まります(竹内流腰廻<こしのまわり>小具足)。
一方の拳はというと、次のような起源譚が紹介されています。
万治2(1659)年に中国からやって来た陳元贇<ちんげんぴん>が江戸麻布の国正寺(国昌寺)に寄寓していた時に、やはり同じ寺に住していた福野七郎右衛門(正勝)、磯貝次郎左衛門、三浦与次右衛門(義辰<よしとき>)と出会いました。彼らは陳から中国には人を捕縛する術があると聞き、工夫を重ねて高度な技法を編み出したと書かれています。
治五郎たちはさらに、起倒流の『印可状地巻』や『武術流祖録』、『尾張名所図会』、『先哲叢談』、『嬉遊笑覧』など多数の文献に当たって、陳の経歴や3浪士の研究から起倒流が創始されたことなど、『武芸小伝』の記事内容を発展・補強しています。
治五郎が明治15年に政治学・理財学の講師となって以来務めていた学習院は神田錦町(学習院開校の地、上)にありましたが、「柔術」発表と同じ明治21年、虎ノ門の工部大学校跡(下)に移転しました。
楊心流という流派についても述べられています。
肥前長崎の医師秋山四郎兵衛義時が、医術修行のために渡った中国で白打という武術を学び、それを基に考案したというものです。
先に挙げた陳元贇の例と共通するのは、共に柔術(流派)の起源を中国に求めている点ですが、これについて治五郎たちは否定的です。その理由を、彼らは次のように列挙しています。
なお、( )内の記述は、筆者による補足説明です。
(1)武器なしで防御する術は世界中にあり、日本でも封建社会にあって必然的に柔術が発展した。(武器の持ち込みが制限された城中などにおいて身を守るため、ということでしょうか?)
(2)中国の拳法と日本の柔術は、その方法が実質的に異なる。(中国拳法は打撃技が中心ですが、柔術は投げ技・固め技が主です)
(3)同種の術が、陳元贇の時代以前にもあった。(竹内流も、その1つでしょう)
(4)起源に関する説明が充分に納得のいくものではない。
(5)日本の武技の歴史は相当に古く、その中には柔術に似た点もある。(例えば源平争乱の時代にも、合戦において柔術を連想させる組討が行われていました)
(6)中国の芸術・文明は日本人に高く尊重されていたので、その威光を借りて箔をつけるために、柔術を中国起源とした。
(7)古くから、槍や剣などを使う武術家たちは、ある程度柔術を稽古していたようだ。(柔術が、剣や槍が折れたり、奪われたりした時に、徒手空拳で戦う方法として、わが国の武術家たちによって工夫・創造されてきたという可能性を示しているものと思われます)
治五郎たちは、陳元贇が中国の武術(中国拳法)を日本に紹介した可能性まで否定しているわけではありません。ただ、柔術がそれを発展させたものであるという説に疑問を呈しているのです。
彼らは書いています。
「柔術が中国のいかなる助けもなしで、現在の完成に至った日本の武術である、と信じる。陳元贇や他の中国の拳法書が、その発展に刺激を与えたであろうことは認めるものである」
治五郎とリンゼーは、ここまでで柔術の起源や、柔術がどのようなものであるかという一般的な概略について説明してきました。その内容は、いかにも治五郎らしく、広範な資料を網羅し、論理的に分析し、考察を重ねた学術的なものとなっています。
そしてここから話は、起倒流や扱心流、天神真楊流といった具体的な個々の流派の歴史へ、さらには高名な柔術家たちの驚きのエピソードへと言及していくのです。
【参考文献】
トマス・リンゼー、嘉納治五郎著、小野勝敏訳「柔術─武器を使わないさむらいの武術─」
『岐阜経済大学論集』9月号(16巻3号)岐阜経済大学学会、1982年
嘉納治五郎著『新装版 嘉納治五郎著作集』第3巻 五月書房、1992年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年