GO! GO! 嵐山 2

埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

菅谷中学校舎落成記念座談会 2 1950年7月

2009年10月15日 | 報道・論壇

 司会者 最後に立派な学校ができましたのでこの学校に相応しい教育を如何にすべきかについてお話願いたい。今日は生憎この学校の先生がをりませんので簾藤先生から。
 簾藤 さうですね、中学校経営の一部を担当してゐる立場から一般的に述べてみたいと思います。以前の教育は生徒の立場からすれば学問で苦しめられ運動で苦しめられた。練成や修練で個性を制限されることがいいとされていた。これは日本人の人生観であり、社会観であつた。然しこれからの教育は生徒一人一人が学問を楽しみ、生活を楽しみ、人生を楽しむやうにしむけて行かねばならぬ。かうするためにはこれにふさわしい社会環境、教育環境が必要である。学校の施設として校舎は勿論必要であるが、生活を楽しむためにはそれに必要な最小限の施設を備へなければならない。今日一巡してみまして各教室に学級文庫などある様ですが、私の立場からすれば図書の充実は校舎の次に最も多くの費用をかけていただくのがいいのであろうと思はれる。生徒が毎日放課後図書館で自由に本を読んでゐる姿を見ると過去の自分たちの練成の時代に比して非常に真摯な姿がみられる。図書館の充実は何が何でもしてもらいたいと思う。その他雑多な施設はありますが経済界の変転で強ひて申上げることもできないが…。学校で請求する教育費は予算の何割しか獲得できない。それでPTAその他の傍系団体に三拝九拝して金をもらつている。教育費は正常なルートでもらわれねばならない。三拝九拝して金をもらつてゐる様では文化の向上とか人間の理想とする信念の教育はできないのではないか。国会に提出される標準教育費法には皆様の御協力を願いたい。指定寄附によつて教育の為には村民全部が費用を負担することを自覚してもらつて正常の道をとつて教育費を支弁してもらふ様にしたい。
 大野 具体的な問題を考えてみたい。この席上に先生がいないことは残念だが…。菅谷の学校は今まで物置に居たりして非常に悪い環境にあつた。然しよい成績をとつている。入学率(高等学校えの)もいい。小川え入学した生徒の平均点は菅谷が一番、松山でも一番であつた。かうしたいい環境ができたので勉強も張合ひがでる。運動も環境がよくなつてゐるから今後更に充実する様努力してもらいたい。先生にも骨折つていたゞいて更に名声をあげてもらいたい。松高で英語の試験をしたら小川中学が断然他を引き離してゐた。これは先生の力の入れ方が学校そのものゝ力の入れ方であろうと思われる。今年菅谷の成績がよかつたのは先生の努力をかつてやりたい。村民も協力して学校のため教育のため努力してもらいたい。PTAに三拝九拝することではいけない。村民はできるだけ環境をよくする様努力するのは当然だと思う。まだまだ特別教室もつくらなければならないことは村当局としても考えているし…。
 中島(照) こゝに先生がいなくてはなんですが…村民からの意見として「二、三年は全部新校舎え入れてくれるわけだつたんださうですが家の子は入れてもらへないで職員室に使われてしまつた」というんですが。
 高橋 環境の問題だが…。落成式の時に村長さんから話しもあつたが「モダン」ば明るい教室で歴史的な伝統もあるし運動場も広い、かういうことが生徒に優越感を持たせるに至るのだと思う。最近マンガ教育というのがあるが簾藤先生マンガはどういう効果を持つているんでせうか。
 簾藤 出版屋は営利会社ですから…然し長い目でみるとマンガの期間は長く続かない。徹底的に駆逐しろという人もいるし、読書生活の一過程として許されるという人もいるので一概に云へませんが私は後者の立場を認めたい。
 吉野(松) 本を読む習慣づけるための一つの過程ではないか。
 加藤 マンガをみると正規な本が見られなくなる。
 簾藤 戦争の末期的現象としてよくまとまったものを読む気がしなくなるのではないか。世相のあらはれがマンガにもあらわれるのではないか、そこに読書指導図書館の設催などが必要になつてくるのだと思う。受験準備は絶対にいかんという規則があるのでこれを如何にして切り抜けるかに大きな問題がある。小川中学は学級編成の際受験組とさうでないものとを純然と分けてしまつた。運動部は解消するということまでして…。
 村長 図書の充実はまことに結構ですが校長に私はかういうことをお願いしてゐる。学校で必要とする経費は恐らく各村ともひらきがある。学校で必要とする経費をやつてもどこまで有効に使へるか?うまく使うのは校長の腕でそれを予算書通りにとらわれゝば分捕主義になり焼け石に水となつてしまふ。まとめてものを買うのには特別な予算でももらふかしなければならない。これを重点的にやつてゆけばできるのではないか、二年三年という先の計画をたててやつて行くならば少い予算でもやつてゆけるのではないか、追加予算を校長は簡単に考えてゐる。
 簾藤 社会教育委員会の方で村立図書館の経費を幾らかづつでも計上してもらつて中学と合併してもらつたら図書も充実してゆくのではないかと思う。
 大野 学校は必要な経費をどんどん要求してもらいたい。村会ではこれらのものを取捨選択するから、競技場の問題でもせまいから米山さん買はうぢやないかと相談したら米山さんも何とかなるだろうという自信を持つてゐるというので村長だか校長に申入れたらあれで十分だと云つた。我々の心配はすつかり現実となつた。作り上げてしまつてからせまいとは何ごとだということになる。
 村長 校長に話したらあれぢゃせまくて駄目だと云うことを云つてゐる。
 大野 校長の云ひ方が気にいらない。菅谷は郡の中心であるから先生も生徒も自信をもつて運動できるやうにしたい。少くとも正式なテニスコート、バレー、バスケットのコートを作つてやりたいと念じてゐた。
 司会者 大分時間もたちましたので、このへんで終りたいと思います。
                     (一九五〇年七月二十四日記)

   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学校舎落成記念座談会 1  1950年7月

2009年10月14日 | 報道・論壇

   中学校舎落成記念座談会
 中学校の校舎落成式を機としてこの特筆すべき業績を記録に留めて後世に伝へまた本村に於ける教育の進展に資するために報道委員会では七月二十四日建築関係者、村民、教育者、村当局など各方面の人々にお集りを願ひ木の香のま新しい新校舎で座談会を開いた。

  出席者(五十音順)
 大野幸次郎、加藤武作、高崎達蔵、簾藤惣次郎、高橋亥一、中島照三、中島年治、山岸宗朋、吉野賢治、吉野松蔵、米山永助
  欠席者
 田幡順一、吉田熊吉
  主催者側
 小林伝治、関根茂章、関根昭二

 司会者 本日はお暑い所を又お忙がしい所を御苦労さまです。中学校の校舎も愈々竣工致しましたが、これは村の大きな出来事で村政史と云ひますか村の教育史に於て没却することのできない大きな意義を持つていると思ひます。前の小学校ができた時の記録を尋ねてみると案外残つていない。そこで今回の事業を後世に残したい考へを持つ人が沢山をりましたので我々と致しましても今日此処にお集り下さつた皆様方に今度の中学校建築に関してのいろいろな話題を一つ提供していたゞいてこれを書き留め後の世まで残したいと希望してをります。
 村民は皆校舎の落成を喜んでをりますがこれは工事がすらすらと進んで簡単にできたからでなく非常な苦心の結果できたからでこれは事業が遅延したといふ事実が物語つていると思います。これには建築委員のなみなみならぬ苦心が伺はれるのでありますが、この人々の苦心談を中心に話していたゞきたい。ざつくばらんに談笑のうちにこの会を進行させていたゞきたい。最初に江部組に請負を決定した事情に就いて村長さんから一つ…
 村長 江部組が工事をやる様になつたいきさつについてお話し致しますが不足の点はこゝに居られる常任委員の方に補足していたゞきます。学校を建築するといふことが正式に決定しましたのでこれに関する予算的処置と入札者の決定といふ二点が問題になり、まづ入札者の選定ということが常任委員会によつて協議された当時すでに入札の告知をしないのに十九社の申込がありましたが、これに対して常任委員会で情報と調査をしとりあえず七つの請負人を仮りに選定した。そしてこの七社の請負人に就いて最近新制中学を建築した経歴を基準にして乗員委員会が四班に分れて実際の建築の状況、関係方面(役場など)、施行事情、資力等入札に必要と思はれる事項を調査した。大里、比企、入間、群馬などの各地を調査しその結果を検討したが大体に於てこれならばよろしいだろうとの結論に達した。そうしてこれを常任委員会の案として建築委員会にかけたが常任委員会の調査を満場一致承認した。そこで指名入札者が決定し入札を行つた。入札の際村としての予定価格を幾らにみるかゞ問題であつた。この基準がでなければ落札の時支障があるのでいろいろの面から考究したのであるが、これを前以て決定するわけにゆかない。他に洩れた場合困る。そこで基準価格の決定は入札当日に決めることにした。これは当日別室で協議したのであり従つてこの価格が他に洩れたことはないと思ふ。入札は全建築委員会立会の下にこれを行つた。契約條件はあらかじめ入札者に配つてあつた。落札者の決定は従来最低の者に落札するのが常例であつた。小川中学の場合は最高と最低では丁度半分になつてをり大きな開きがあつた。安いのはいいが悪かつたり工事が途中で中止されたりしては村民が困る。ところで村の予定価格の七割以上であつてその最低の入札者に落札することにした。例へば三百万の場合には二百十万以上で最低の者といふことになる。開票してみると江部組が二百六十万五千九百八十一円といふとつぴょうしもない札を入れた。次は三百万で約四十万の開きがあつた。
 司会者 落札者の決定事情はよく分つたが安すぎた点について何か反省を…。
 吉野(松) 常任委員が当時として反省すべき点もあるだろうし、江部組に落したことについては話題も残つてゐるのだらうから。
 米山 請負についても当時批判があつた。
 高橋 風説は聞かない。請渡しについては疑問はないだろう。
 米山 江部組が仕様書を十分検討せずに落札したから…。
 吉野(松) あまり安すぎたということについては江部そのものが無鉄砲なやり方をしたのではないかと思われたのではないか。仕様書をよく検討したかどうか疑問である。
 吉野(賢) 設計書を二日しかみていなかつた。江部には仕事を取りさへすればいいという頭があつて宣伝的な意味で損をしてもまあ比企へ進出できるやうになればいいという考へであつたらしい。
 加藤 一般は親値より高くはないかと思われたのに開票の結果は四十万も安い価格で落札したということに不安と気がかりがあつた。
 村長 それはたしかにさうです。開札の時には江部組の札は最後に開いたのだつたが、これは予想外の安値であつた。第一回の落札で決定しようとは誰も思つていなかつた。意外に安いので果してこれでできるだろうかとその時私も心配したのであります。
そこで私もその日の席上で江部組によく申入れたのである。先方は犠牲は覚悟の上でやつたのだと云つてゐた。
 司会者 これらの不安があたつて工事が延びた。出発の時すでに工事遅延の原因があつたということになるが…。山岸さんなんかどう。
 山岸 私個人としてその当時米山君に申上げたことは安いことを希望する。高いのはよくない。仕様書を完全に履行する人をやらしてくれ、親札に一番近い人にやらせるべきだ。と私はその当時云つた。この附近で学校を作つた請負者は皆失敗している。予算は幾ら出してもいゝから予算に一番近い者にやらせろということを私は云つた。結果からみて安い者にさせることは無理をすればその人を破産させてしまう。厳重な監督を受けてもそれに堪へられる人という腹構へを作ることが必要ではなかつたか。日本でも有数の設計家に作らせたのだからこの人が原価計算できるのだしこの金額に近い者に請負はせるのが普通だと思うのである。要は学校を作る時の心構へが必要ではなかつたかと思うのである。
 高橋 委員としては村民の負担を軽くすることが念願だつたので金融状態が途中で変つてきた為に請負業者が工事を遷延させるに至つた。
 大野 仕事が延びたのは監督が厳重だつたこともある。あの値では無理であることを委員はすべて考へてをつた。江部の方でも安いから多少なりともいいかげんなことで通してもらへるのではないかと思つていたらしい。本人も云つている。このくらいでいいのではないかと思つて役場の会議室の材料をどんどん持つてきたが検査ではねられたのでこれではいかんと気がつくに至つた。高橋氏は人柄はいゝが実力はない。江部氏が途中で江部組をぬけてしまつたので財政的にも苦しくなつてきたと思う。
 中島(照) 江部組は設計を変更して金をあげて行こうとした。「どうして村長はこゝを変更しないんですか」とよく聞きに行つた。
 加藤 三等材を使うべき所へ二等材を使つたりなどして江部組も材料では大部御奉公している。
 吉野(松) 江部自体としては全力をあげてやつたと思う。(各氏同感の声あり)
 米山 私は常任委員会の場所であんまり安い価格で落すことはどうか、三割という開きは大きすぎるのではないか、親値がはつきりしてゐないのにかうしたことを強く主張することもできないのだが兎に角私は黒板へ数字を書いてそれを説明したのでしたがその時二割五分にしたらという意見を出す人が一人ありましたが後の方で安いなら結構ぢやないかという声もあつたので、親値が決まつていれば強い主張もできたのだが決まつていなかつたのでいかんともしがたかつた。
 大野 あまり安いことはいかんということがすべての委員の一致した意見であつた。
 司会者 江部組がつまづきが見えたのはいつ頃からか。
 大野 それは上棟後である。お正月にかこつけて材料は入らず職人はこなくなる。これでは金もやたらにやることはできないと考へる様になつた。
 高橋 中頃から金融面も影響してきた。
 村長 一月のカレンダーを出した時に皆気がついた。江部組の名が文教施設に変っていたのである。
 大野 名義変更ぐらいに思つた材料が予定通り入つてこない。お正月の休みが長すぎるというのでこれはあやしいぞということになつた。これは江部という人物が会社からぬけたことと金融面の圧迫があつたことが原因している。
 村長 こちらでいよいよ考へなければならないということになつたのが三月の初めである。
 司会者 工事は進めたいが金はなかなかやれないという立場に於ていかに請負者を鞭撻し操縦したかという苦心談を
 村長 兎に角上棟は年内にやることに主力をつくしてそれもまあいろいろ努力したのですが。十二月三十日に漸く棟木をそれも夕暮れに五本あげた。寒い時おそくなつて式をあげた。完成期間は二月三日なので無理とは思つたがどうしても今年卒業する人を入れたいという村民の声もあるし生徒もこれを希望した。一時は学校のあちこちに張り紙が貼られたこともあつた。ところが工事が進むにつれて金の面で四苦八苦の状態となり支払もとゞこおり、これがだんだん重つてきた。内部の仕事になると目の見えない所に相当金がかゝる。クランプの使用もまがいものを使はうとしたがたまたま設計者によつてこれが発見されたという様なこともあつた。とに角金が非常にいそがしくなつた。仕上げにかゝると金を持つて行かなければ材料が買へず、工事は材料が入らない為に大工は手をあげるやうになつた。この状態が続き我々としても進行がおくれるから何とか委員会として対策を考へねばいけないと思つたのが三月上旬である。金を先渡しすれば品物を持つてくるかどうかわからない。それかと云つて金を渡さなければ品物が入らない。いよいよ困つてしまつた。それに工事計画は一向に実行されないし委員会をごまかしてばかりゐた。そこで委員会として支払いの面との計画をたてゝこいと命じた。この計画表を常任委員会で社長と現場監督を前にして検討した。この表によると五月十九日までに完全に出来上ることになつてゐたが金の方は上旬までに支払はれるやうになつてゐた。そこで委員会ではこれを工事の進捗状況と一致させた。然し実際になると予定通りに行かない。私は何回となく督促した。金を渡してもらへばこれだけの工事をするという計画表であつたが我々としてはこれまで何回となくだまされたので安心できなかつた。そこで我々は左官屋、ガラス屋、ペンキ屋などから必ず出来る、やりますという手形をもらつて来てくれと頼んだ、承知しましたと返事はしたが何日たつても持つてこない。これでは工事が進まないのは当然である。そこで委員会としては直接ガラス屋、ペンキ屋と交渉しよう、請負者の了解を得てこちらでやろうと決めた。工事を仕上げるまでは委員も相当頭をなやましてしまつた。その他こまかいところはいろいろあるんですが、他の委員からお話願いたい。
 大野 江部組も最初ていさいを作つていたが終ひには金がないんだ役場からもらわなければできないんだと云うやうになつた。然し工事は最後までやりたいんだと云つていた。
 司会者 三十万円の報償金については村内にも疑問があるやうだが最初にやるときめたのは報償としてやる意味だつたかどうか。
 大野 これは各委員によつて多少の意見の相違があつたらと思う。請負金額が安いのは分つているが欠損してまでもやるわけには行かないが金をやることによつて工事も進捗するだろう。今工事をやめられてしまつて後村で引受けると云つて相当な努力と金が必要である。それよりか金をやつて工事を一日も早く仕上げる様にした方が村としていいのではないか…と考へられた。
 吉野(松) 大体に於てさう考へてゐたのではないか。
 加藤 請負者が金がないと云つてきたので報償金の話がでた。金を出して一日も早く竣工させた方がいいと考へた。
 山岸 報償金の美名のもとに値マシをしたのではないか。その点最初の値をはつきりさせればよかつた。
 大野 大体の意見が契約金は増すことができないが報償金は幾らでもやることができる。三十万やつて工事を進めさせるか或は五十万を出して我々がやるかという…。
 吉野(賢) 二十万ぐらいではという意見も出たのであるが、補助金をそつくりやつて早く工事を仕上げさした方がいいということが建築委員の一致した意見だった。
 山岸 大野さんの心境を一つお聞きしたい。出来上つた蔭の努力について。
 大野 一日も早く仕上げることに全力を盡くした。請負師に対しては金の面で相当強固にたたかつた。別にとりたてゝいふ程の努力はない。
 高橋 委員長と村長とは相当金の面で苦心したらしい。
 吉野(松) はたから見てもよくその点は分つている。情を入れたらこゝまでできなかつたのではないか…。
 大野 金を何とかしてくれということが現場監督からもいろいろ来たが金の面ではガンとしてきかなかつた。
 司会者 難関を突破するには信念が必要だつたと思うが今日の成果をみた原因である根本信念の様なものについて。
 村長 それは別に固い信念とか…当然のことをやつただけで…この工事を途中でしりきれとんぼにする様なことがあれば我々だけの責任ではすまされない。村民一般に及ぼすものがある。かわいさうだという人情面に引かれて、特に失敗するのは金の面なのだからこれを引き緊めて最悪の場合には我々がやらなければならないという腹を常に持つていた。何としても仕上げなければならん責任を感じて地位を去るぐらいでは解決できない。我々の責任は学校を作りあげることである。又予算を増してやるということは村民に申訳ない。請負者に対しては随分憎まれ口もきいている。先方では人情も知らない薄情なやつだと思つてゐるかも知れない。仕事の面でも仕様書の通り仕上げるのは当然で例へばドアを二分のベニヤで作つてきたがこれを全部三分のベニヤと取り変へさせた。我々としては設計書によつて仕事をやつてもらいたい。できるだけ請負者の便宜もはかるが…それ以外は。
 大野 最悪の時には村でやる、而も予算の範囲内でやるということは初中終り云つてをつた。請負がやらなければこちらでどうしてもやるという考へは常に持つていた。金の支払ひの点では人間として涙の出る様なこともあつたがあくまで厳重にし、工事の進捗状況と照らし合はせてやつた。江部も愈々困つてくると個別訪問をして個人攻撃をしてくる。村長さんの所へ行つて委員長がいいと云へば金を出すと云われたからなんとかしてもらいたいと家へ来る。然し私がガンとして聞かない。村長さんも私が承知しないということを知つてゐるから私の家へさう云つて寄越したんだろうと思う。時には可哀さうだなあと思うこともあるが金のことに関しては誠意をもつてやつたつもりである。
 司会者 中島さんなにかどうです。
 中島(年) さうどうも云われてしまふと聞くこともなくなつてしまう。
 加藤 各地の学校を視察したことは無駄ではなかつたと思う。
 吉野(賢) 視察を何回もやつたことが非常に効果があつた。どこの学校へ行つても坪幾らで渡したかを皆聞きだした。その結果大体どこの学校でも坪一万三千ぐらいかかつてゐる、物価は下る方向にあるが設計がいいから坪一万一千ぐらいだろうと思つてゐたところ入札の結果江部が九千円で入れた。建築委員もこれで仕上がるかと皆心配した。
 米山 三十万円やることにしなければ工事をなげられたかも知れない。
 吉野(賢) 全く三十万出さなかつたら村で直営しなければならなかつたろう。
 中島(照) 生きた金だつた。
 高橋 三十万円は非常に為になつた。
 米山 途中で計画表をたつたことが非常によかつた。
 中島(照) 時には一人の大工に五人の監督がいた時もあつた。
 吉野(松) 一人や二人の職人の時の監督ではこれぢやいつできるかと心配した。
 高橋 高橋という男がいいことに金の催促に来る時空手できてくれたことである。手ブラで来て要求するんだから収賄的なことをしなかつた。
 吉野(松) 高橋は監督にきても自分で吸う煙草を持つていなかつた。
 司会者 役場へ来ても吸殻を拾つてゐた。
 中島 私は二回ほど旅費を出してやりました。
 吉野(松) 江部もトコトンまでやつたんだな。
 大野 人間は悪い人ではないと思う。
 中島(照) 材木の切れつ端を十日ほど自転車で家へ運んで行つた。
 米山 何とか仕上げなければならんとは考えていたらしい。現場主任は菅谷村として非常に利益があつた。建具屋は現場主任にウソを云はれて建具を運んできた。
 村長 落成式の日取りを決めてから十八日までに持つてくるという宿直室の建具がもし持つてこなかつたらと思ふと…私はあの時おがんだですね。
 米山 建具屋の分として一万幾らだかやり前があると思つたが実際持つてくる品物は四万いくらかあつたのでこの数字をはつきり云つてしまうと建具屋の方でも持つてこないので唯やり前があるとだけ云つて建具を運んでもらつた。現場主任がよく仲介の労をとつたところにその功績を認めるべきである。大工に帰りの電車賃をかりてまえ工事を完成させようとした彼の良心はかつてやるべきだと思う。 【つづく】
   『菅谷村報道』5号 1950年(昭和25)8月20日


菅谷中学校校舎建築延引の理由等について 1950年7月

2009年10月13日 | 報道・論壇

   菅谷中学校々舎落成式を前にして
           村長    高崎達蔵
           建築委員長 大野幸次郎
 菅谷中学校々舎新築については村民各位の絶大なる御協力と御支援を頂きましたにも拘らず工事が意外に延引し御心配をかけ何とも申訳ない。幸い校舎は(附属品を除き)完成し七月三日から生徒を収容して居る実情で附属建物の方も便所は完成、目下宿直室兼小使室の方を施行中で之れが完成次第落成式も実施する運びに至つたことは御同慶に堪えない。此の機会に工事の延引した理由其他二、三の点について申述べ皆様の御了解を得たいと思ふ。

(一)工事の遅延した理由
(1) 契約による工事日数に無理があつたこと、契約日数は百二十日(自昭和二十四年十月七日至二十五年二月三日)本校舎附属建物を合せると延坪二百六十二坪然も御覧の通りの施工法で従来の建物と著しく異つて居り、当然同一坪数でも労力を多く要することは承知してゐたが、そこを無理しても本春中学を卒業する生徒をたとへ一週間でも新校舎に入れてやりたい、又生徒もそれを熱望して居つたので其の点請負者にも充分了解の上で契約したのである。
 已に完成して居る隣接町村の学校建築の実情を見ても契約期間内で竣工したものは殆ど稀である点から考へても工事期間は最短日数で契約するので施工者にとつては不可能の日数ではないが事業として採算を考へると無理な日数となるものと思はれる。
(2) 工事の施行時期も悪かつたこと。
 契約は十月七日であるが諸準備のため実際工事に着手したのは十一月からで、契約期間が年間を通じ最も寒く又最も日の短かい時であつたので能率的に考へても條件のよい時期の半分位の能率と思はれ施行時期の悪かつたことも累積して工事遅延の一因をなして居ると考へられる。其の上十一月上中旬の天候不良並びに正月が中間にあつたので暮から年始にかけ約半ヶ月職人の出働が非常に少なかつた等両方面で約一ヶ月近く実働日数が減じて居るのでそれ等も工事遅延の一因をなして居るのであらう。
(3) 資金の不円滑のため
 遅延の最大原因と認められるものは資金の不円滑にあつたと思ふ。前述の日数も時期の良否関係も資金面に於て円滑自由であれば遅延日数も或程度挽回出来るが資金が円滑でないと計画も予定通り実施出来ないので他の條件が良好であつても其の効率を充分に発揮できないためいよいよ工事は遅延せざるを得ない実情となる。現在は資金さへあれば資材の入手は殆んど心配ないので其の点施工者としては有利な立場となつたが、反面金融面が日一日と詰りそのため資金難となりこれが直接に工事に至大の影響を及ぼして居る。其の他工事の施行方法並びに建築様式が著しく異つて居るために技術面に於ても困難があつたこと等も間接に遅延の因をなしたであらう。
 請負者の指名に於ても資力、経験、技術陣容設備其他について充分調査検討し特に資力は第一條件に入れ委員会としても慎重に選定した次第である。工事施工中も最も苦心したのは請負者に対する前渡金支払の点でこれが適否は工事に直接関係があり工事の促進をするには先づ前渡金を支払はなければならないし、それかと云つて過払となれば万一の場合は村民に損失を及ぼすと云つた具合で其の間工事の進行と支払との関係については少なからず苦心した。
 以上述べた様な状況で委員会としても工事の促進についてはずいぶん苦心もし亦努力もしたが結果から観て約五ヶ月も延引したことは村民の皆様に対し深く御詫び致す次第です。只委員会として竣工の遅延したことは何としても申訳がないが竣工した校舎が工事費の極めて低廉なるに拘らず建築様式では県下に類例がなく極めて理想的で内容外観共に明るい感じの所謂「モダン」な校舎であり工事施工に於ても他に決して劣つて居らないことを確信を以て皆様に御報告申上げることの出来たことを御了察願ひ工事の遅延を始め色々御迷惑をかけたことに対し御許しを乞ふ次第です。

(二)報償金について
 請負工事に対し完成した場合には施工者の労苦に対し慣例として感謝状に金一封を添へ贈呈することは各地に於て行なはれて居ることは皆様御承知の通りである。本委員会としても請負金額があまりに安いので工事完成後は例によつて報償金も出さなければならないことは折々話題となつたが正式に委員会で検討されたのは三月十三日の建築委員会であつた。当日の委員会は工事経過報告並びに工事促進に関する対策協議会であつたが其の節促進の方途として報償金の件が審議された。当時の状況として工事が遅々として進まないのは主として資金関係にあることは委員一同承知して居つたので報償金の件が出ると各委員とも異議はなかつたが金額の点で慎重に審議が行なはれた、御承知の通り昭和二十四年度は学校建築に対し国庫補助打切のため本村の中学校建築予算でも全然国庫補助金は計上してなかつたが幸ひ着工後補助金が出ることゝなり補助申請の結果五十四坪が補助対照として承認され三十万五百円の国庫補助金を得たので結局補助金の三十万円を報償金として支出することに満場一致で決議されたのである。

(三)工事進行状況七月八日現在
(1)中学校新築校舎本校舎完成
 附属工事電気工事一部未完成近日完成の予定
 附属品教卓五下駄棚二五〇人分戸棚一個未入荷
(2)附属建築 1便所完成 2渡廊下完成 3宿直兼小便室数日後完成 4渡廊下材料全部入荷目下工事中
 工事進行の状況は大体右様の次第で漸く今一息と云ふ所迄こぎつけました。

(四)落成祝賀式典の計画
 六月三十日の建築委員会で落成祝賀の式典について協議の結果七月二十日頃行ふことに一応決定を見た。但し工事の進捗状況と関係があるので日取りの確定は常任委員会で状況を判断し決定することに一任された。
(1)当日の行事。中学校新築予算中に特別に落成式についての費用として予算はないので計上予算の範囲内で経費も支出し特別に式の費用として一般村民或は村からの支出を願はないことに議決されたので従つて当日の行事も特別の催物などなく(中学校の生徒成績品展示等は別)型通りの式典を行ひ終了後簡単に祝賀式を行ふ予定である。
(2)祝賀式の計画内容

区別   人員  経費内訳       処要金額
来賓   130名 折詰70円 赤飯35円   1万4950円
         記念品代10円 計115円
一般村民 1000  するめ1枚10円     2万円
         記念品代10円計20円
生徒   530  紅白餅1人2個宛      1000円
酒   1石2斗             4万2000円
雑費                    5000円
合計                  8万2950円

 註 来賓赤飯及生徒用餅に要する糯米は建築委員一人各一升宛御寄附を願ひ充当することゝなったので記して謝意を表する次第である。

(五)結びのことば
 以上菅谷中学校新築工事経過中工事遅延の理由或は報償金支出決定のいきさつ、工事進行の内容及落成式典に関する計画内容等の概略を申述べたが要するに工事の遅延を始めそれに関係した種々の事柄についても吾々委員としての努力の足りないため理由の如何を問はず村民の皆様に御心配と御迷惑をかけたことに対し幾重にも御詫びを申上げる次第です。只結果として皆様に御心配をかけたが委員会としては御期待に沿ふべく最善の努力は致したつもりであるから其の間に於ける委員の苦衷を御了解が願へれば幸と思ふ。報償金の件についても請負金額がけたはづれに安いので、(坪当九、九二〇円)工事の進行につれ資金面で円滑を欠き兎角工事も遅延勝となるので何等かの手を打たなければ完成期日も予測出来ない実情となつたので校舎の早期完成のため支出を決定したやうな状況にあるので此の点も御了解を願ひたいと思ふ。
参考迄に入札価格を示すと次表の通りである。

入札者 入札金額   校舎其他   会議室   備考
 A  260万5981円 245万0981円 15万5000円 落札
 B  300万円   285万円   15万円五
 C  325万円   304万8380円 20万1620円
 D  339万5000円 315万円   24万5000円
 E  342万円   320万円   22万円
 F  388万2000円 362万7000円 25万5000円
 G  399万円   369万円   30万円

 祝賀式典の計画内容についてもいろいろ御意見はあることゝ思ふが何として経費面で制約があるので不本意ながら前述の程度で御了承を願ひたい。(二五・七・九記)

   『菅谷村報道』4号 1950年(昭和25)7月20日


大正11年日記 3 尋3・栗原正敏 1922年

2009年10月12日 | 栗原正敏(日記、作文)

五月七日 日曜 曇
がらすうけを下女にすがやに行ったついでに買って来てもらいました。僕はたいさうよろこんで、すぐおきましたが、いくひきもはいりませんでした。

五月八日 月曜 晴
もりちゃんとがらすうけをおいてついていましたら、まさやんが馬をあらいにきました。そしてかへるころあげましたが、もりちゃんのは一ぴきしかはいりませんでしたが、僕のはたくさんはいって居ました。

五月九日 火曜 曇
がらすうけをもりちゃんとおきに行っておきましたが、よいふうにおこうと思ってあげますと、がらすうけはしつとけてしまったのですぐはいって足でみつけてとりました。

五月十日 水曜 晴
さはぎっこをしえつくいにぶつかって、なくやうにいたかったです。

五月十一日 木曜 晴曇
僕はマサヲさんとさわぎっこをして、おってくると僕がわざところがりますとマサヲさんもころがります。僕はたいさうおもしろかったです。

五月十二日 金曜 曇
くわを二度かついで来ました。

五月十三日 土曜 晴
よぼりにゆこうと思って居ましたが、よその人が来て、おとうさんとゆくことができませんのでなきなきねてしまいました。

五月十四日 日曜 曇
おばあさんが小川でやひ*をやいた。おみやげに僕にははりやすを二本下さいました。
  *:おきゅう。

五月十五日 月曜 曇
学校でえんぷつをかへました。

五月十六日 火曜 曇
おかあさんに買って来ていただいた、たいせつにもってゐたたから舟と、鳥かごと、たけのことすずと、なんのかのみがついてあるものをこしにつけて行きました。

五月十七日 水曜 晴
さかなつりに行って三ぴきしかつりませんでした。

五月十八日 木曜 晴
今日見たいっしゃは「なほる。」といったので、家では大よろこびです。*
僕の方がたいそうの時間にけんびきふ【顕微鏡】を二だい見ました。先生はぼうえんけふ【望遠鏡】で見ました。
くわもぎの手つだいをしました。

  *:「大正11年日記 2」の5月17日には、「うまがけがをしたのでけだものをみるおいしゃあさまにみてもらいました。すると「ふんとうのことはわからない。」とおっしゃいました。」とある

五月十九日 金曜 晴
今日池でかあちゃんに、さかなをつってもらいました。友ちゃんが、かへどりをするのを見て居ました。ぎうたの大きいのを取りました。

五月二十日 土曜 晴
よみかたの時間にさんじゅつのしけんがありました。

五月二十一日 日曜 晴
今日池でもりちゃんに、ぎんぶを四ひきつってもらいました。

五月二十二日 月曜 晴
鳥がねずみをとってたべました。めづらしかった。
今日やくばでほうそう【疱瘡】を見せました。僕のことを「つかない。」とおっしゃいました。


※この3は5月6日から5月22日の日記であるが、「大正11年日記 2」は4月16日から5月26日の日記なので重なっている日がある。2は青インクで○がついている日があるので、誰かに見せているようだ。1と3にはそのような○はついていない。


自民党支部結成に就いての批判を読んで 高橋亥一 1959年9月

2009年10月10日 | 報道・論壇
 先々月の報道で、菅谷村自民党結成に対する、船戸君の批判を読んで、かって読売闘争に参加して、地方でもこんな頑強な闘士がゐるかなあ、と中央の同志を驚かした程の豪のものだったが、矢張年は争えないなあと思った。しかしそれは老いたと云ふ意味ではなく寧ろ円熟して農民運動に対する考え方が板についてきたと云う事である。
 土地解放後の農民運動の方針も無論変ってはきたが兎も角、保守は保守、革新は革新として始めから、はっきりと踏み切って闘争を繰返してきたのであったが。解放後の地主の中には小作人より寧ろ窮状に追込まれたものも少なくない。実際には五十歩、百歩の間隔しかないと云ってもいい。けれどもそうした地主の中には昔日の夢を追って、保守であるとか、自民党であるとか云って、革新勢力を締め出そうとしているが、それは大きな誤謬であって農民の場合は地主と言われた人達も亦小作人も現在現在の様な国家権力を掌握してゐるものは云う迄もなく共同の敵だと云う事になる。例をあげるときりがないが、最も目先きの問題として、農民の生産物は自からつけた価格でうれるものは一つとしてない。いつもパリテー方式だとか何んとか云って、政府のつけた価格で売渡さなければならない。早く言えば自分達の都合の良い相場をつけて持ってゆかれるのである。
 これは誰れでも知ってゐることで、そして不平を並べてはいるがその不平不満を行動に移してゆかないで諦め主義によって引下っている。しかも、自分の生産品を自分の力で価格をつける事のできない、おさづけ価格であまんじてゐる農民が全国民の三十七パーセントも占めているのだから甚だ心細い。三十七パーセントの農民が結集して立上ったら、それは怒濤の様な大きな力となって、何物でも圧倒する事ができるのである。農民は容易に立上らないどころか、自己の生活が窮迫してくるに従って生活水準を引下げてバランスをとってきたのが今迄の農民だったのである。
 今日迄、社会党の基盤だった総評ですら、農民に比較すれば僅かに二百四十万にしか過ぎない。
 故に農民は自己の生活の安定をかちとる為には船戸君の云った様な、僅か千数百戸の村で自民党だの社会党だのといがみ合ってゐる事は余りに幼稚な考え方であり従って資本主義陣営の望むところである。去る五日の朝のラジオ放送で本年度内のドルの取前は神武景気以上だが、しかしそれは、日本商品の品質の問題ではなく、価格が低廉だからであって、その原因は農産物を安く買上る事によって労働賃金の上昇を防ぐ為の手段であり、従って生活の窮迫した農民が都市に労力を売りにゆけば、それは過激な【過剰なカ】労力であって、しかも賃金は最低である、と云ってゐた。
 こうした原因は農民に団結力がなく、バラバラで結集しないからである事は云う迄もない。だから船戸君の云うやうに政党政派によって争ってゐる時でないと云うのである。(村議・高橋亥一)
   『菅谷村報道』103号 1959年(昭和34)9月10日

※『菅谷村報道』98号に掲載された「自民党菅谷支部結成」に対する101号「自由党支部結成に疑問」(船戸敬)への投稿である。

自由党支部結成に疑問 船戸敬 1959年7月

2009年10月09日 | 報道・論壇

   自由党支部結成に疑問
 最近自由党とか云う団体が出来たのは村民の皆様も報道において御承知でせう。我々下層階級の者には理解に苦しむ処で何のてみにそうした団体を結成しなければならないのか、人口壱万そこそこの村位は一つの家庭の延長したもので大家族位にしか考えられません。村長さんは議会においても村民の集会にも明るい村造りに精進したいと申されております。
 農村地帯で大家族の中で党派争いは禁物だと思う。そこで昔から遠くの親類、近くの他人と言う事がある。私達代表者が表は地元候補を推薦し、裏は他方を応援するようでは真に村を愛するとは言い得ない。愛村とは一つの明文で其の実一部の分子の圧力により今後村に大きな溝が出来はしまいか、それが心配です。
 自由党と言う大幟を押立て何をするのだろう。
 村内に反対分子を作れと催促するのか、今年は選挙の当り年で選挙だけに使う自由等なのか、理解に苦しむものである。有識者の諸君、何とか次回の紙上に御回答を願って疑惑に迷う者に御指導を下されたい。共産党でも社会党でも自由党でも一つの和があって始めて明るい村の基礎だと存ずる次第であるが御意見を承りたいと思う。(吉田・船戸敬)
   『菅谷村報道』101号 1959年(昭和34)7月10日

※『菅谷村報道』98号に掲載された「自民党菅谷支部結成」に対する批判の投稿である。更に103号に「自民党支部結成の就いての批判を読んで」(高橋亥一)がある。


大正11年日記 2 尋3・栗原正敏 1922年

2009年10月08日 | 栗原正敏(日記、作文)

四月十六日 日曜 晴
いもうととうさぎのえをつみに行きました。

四月十七日 月曜 晴雨

四月十八日 火曜 晴
学校でしゃしんをうつしました。

四月十九日 水曜 晴
今日は家のすすはきです。
僕も学校からかへって手つだへました。ます子は「わたしもふく。」といってふきましたので、こしゃくだといはれました。

四月二十日 木曜 晴
大さふじの手つだへをして、ほうびに、まんぢうをもらいました。

四月二十一日 金曜 晴夕立
ねこがひよこを取ってたべてしまいました。僕はたいさうかはいさうでした。

四月二十二日 土曜 晴
おかあさんにおこされて、はねおきて見ますとお天気はやうございました。僕はたいさう、うれしゅうございました。遠足のしたくをして学校へ行くとちゅうで高等一年、二年にあへました。学校の門を出て南へ向へました。さうして、かはしまのきぢん様*ヘよって、れいをしてすこしやすんで出かけました。
  *:川島の鬼鎮神社

四月二十三日 日曜 晴
いもうとと、いくさのまねをしてあそびました。僕はたいさうおもしろうございました。

四月二十四日 月曜 雨
今日学校で、しょうかぼん*をかへました。
  *:唱歌本カ。

四月二十五日 火曜 晴
今日うちでやうさんえんじつ*がありました。
  *:養蚕演説カ。

四月二十六日 水曜 晴
ひよこのえにどぜうをすくひに行きましたが、たくさんすくったので、にてたべようと思ひましたが、ひよこにどぜうをやりますと、おばあさんがよろこびました。

四月二十七日 木曜 晴
僕らが先生に「うえきばをこしらへてよいですか。」といひますと「よいでせうが馬場先生にききなさい。」といひましたから、「はい。」といって、馬場先生に、「うえきばをこしらへてもよいですか。」といひますと「よい。」といひました。僕はたいさう、うれしうございました。

四月二十八日 金曜 晴
友ちゃんとかへどりをしてたくさん取りました。

四月二十九日 土曜 晴
友ちゃんとかへどりをして、たくさん取って、おとうさんへ十銭で売って五銭づつわけました。

四月三十日 日曜 晴
せきのふしんで川をかへました。そしてぎうたを五、六ぴき取りました。それを友ちゃんがもらって来ました。かへる時、僕にぎうたを一ぴきくれました。僕はよろこんですぐに池に入れました。

五月一日 月曜 晴
いもうとと、さわぎっこをして僕がくひつきますと、いもうとがおこってけんくわになってしまひましたから、僕が「かんべん、かんべん。」といってあやまりますとけんくわはすぐおいてしまいました。

五月二日 火曜 曇
学校からかへるとちゃうでよいことを見ました。それは正ちゃんとたけをさんが一年生のかばんをしょってやりましたのを見て、僕はよいことだと思ひました。

五月三日 水曜 曇
しゅうしんの時間に四をよみました。そこは金次郎さんが川ぶしんに出た所です。その時先生がだれかよそのしごとをして一銭でも取ったものはないかといって、みよちゃんを出して、「みよちゃんは二年の時に五たびくまぜ*を売るにでたさうだ。みよちゃんのことを「金次郎さんのづぎにえらい。」といひました。
  *:「くまで」カ。

五月四日 木曜 晴
今日はしんたいげんさでした。大野君と小林君と島田君とかみをくばりました。

五月五日 金曜 晴
今日は目と耳とてとむねの方とせぼねを見たのでした。

五月六日 土曜 晴
うけをおいてどぜうをとって、三ぴきのこしておきばりをおきました。

五月七日 日曜 晴
おとうさんのおつかへに手がみをもって行きました。

五月八日 月曜 晴
もりちゃんとがらすうけをおいて居ましたら、まさやんが馬をあらっていてかへるころあげました。僕のははいって居ましたが、もりちゃんのは一ぴきもはいりませんでした。

五月九日 火曜 曇
さんじゅつの時間にしやうしん*を見せていただきました。
  *:不明。「写真」?

五月十日 水曜 晴
ひるやすみに先生とおにごっこをしました。僕はしまいおににならうと思ひましたからみつけられますとどこでもかけまはりました。くたびれてやみ■になっては手をふりまはしてやういにつかまりませんでしたが、しまいおににはなれませんでした。たいさうおもしろかったです。

五月十一日 木曜 晴曇
ならぶと校長先生がなにをはなすかと思ふと「学校のやねにのぼってすずめのたまごをとるものがあります。去年もとったものがあります。これからはのぼってとってはいけません。」とおっしゃいました。

五月十二日 金曜 曇
今日学校で、けしごむをかへました。

五月十三日 土曜 晴
友ちゃんとさかなつりに行って四ひきつりました。一ぴきはあかんばやで、二ひきはきんぶです。あと一ぴきはしろんぺたでした。

五月十四日 日曜 曇
今夜こそ、おとうさんと僕と下女と三人でよぼりに出てたくさんぶちました。

五月十五日 月曜 曇
やくばでほうさうをうえました*。
  *:疱瘡。種痘。

五月十六日 火曜 曇
友ちゃんがたなでろかし*を買ひました。
  *:不明。

五月十七日 水曜 晴
うまがけがをしたのでけだものをみるおいしゃあさまにみてもらいました。すると「ふんとうのことはわからない。」とおっしゃいました。

五月十八日 木曜 晴
しゃしんを今日よこしたのです。

五月十九日 金曜 晴
つづりかたの時間によみかたにしました。つづりかただと思ってよういをしたものもありました。

五月二十日 土曜 晴
がらすうけをおいてはじめはたくさんはいりましたが、二度めおいたのは二ひきしかはいりませんでした。

五月二十一日 日曜 晴
がらすうけをおいてたくさんとりました。

五月二十二日 月曜 晴
自転車のけいこをして、おちてけがをしました。

五月二十三日 火曜 半晴
今日は僕のくみのさふじでした。

五月二十四日 水曜 晴
たいせつにもってゐたがらすうけをとうとう今日こわしてしまゐました。

五月二十五日 木曜 晴
たいさうの時間にいんしう*をしました。僕の方は二度負けました。
  *:演習カ。

五月二十六日 金曜 晴
池にさかなつりに行って一ぴきもつりませんでした。それでくやしくなったのでかへどりをしてどぜう【ここで終わっている】

※5月7日~5月22日の日記はもう一部ある。同じ内容ではないので「3」として掲載する。


大正11年日記 1 尋3・栗原正敏 1922年

2009年10月07日 | 栗原正敏(日記、作文)
四月四日 火曜 曇
けさ、ひよこをくらちゃんにおろしてもら居ました。僕はたいさううれしゅうございました。

四月五日 水曜 晴
大風が吹きました。

四月六日 木曜 晴
僕がくもを取って居ますと、友ちゃんがくもを取ってやらうといへましたから、はいといふと取ってくれました。僕はたいさううれしゅうございました。

四月七日 金曜 雨
学校に行きますと先生は女の先生でした。

四月八日 土曜 晴
おぢいさんがうさぎのエをつんできなさいといひましたから「はい」といってつみに行きましたが、さっぱりありませんが、すこしつんで来まして「おぢいさん、つんできました。」といひますと「それだけか。もうすこしつんできなさい」といひましたから「はい。」といって又つみに行きましたけれど、さきのをも入て来ましたから、すこしつんでもさきよりはたくさんになります。

四月九日 日曜 晴
もりちゃんのうちへいって、「もりちゃんこう。」とよびますと、「はい」といって出て来て、「ひるまからかいどりをしよう。」といひました。

四月十日 月曜 晴
かあちゃんがかへって、僕にくつとくつしたどめとくつしたをおみやげに下さいました。僕はたいさううれしゅうございました。

四月十一日 火曜 晴
けふはちんぢさいで学校はやすみでした。僕はゆみをいてあそびました。

四月十二日 水曜 晴
僕があそびにともちゃんのうちへ行きますと、ぎぢうさんや又ちゃんがあそびにきて居ました。僕は「おにごとをしてあそぼう。」といったら「さあ」といっておにごとをしました。一ばんはじめは友ちゃんでした。さうして又ちゃんをつかまへました。僕もしまひおにに二度なりました。僕がきの上にのぼって居ましたら、友ちゃんと永ちゃんが下を通りましたが、ゆくときは行ってしまひましたが、くる時はつかまってしまひました。僕はおもしろかったです。

四月十三日 木曜 曇
今日、鶴吉君の事を思ひだしたから手がみを出さうとしましたが、おそくなったのでねてしまひました。

四月十四日 金曜 雨
学校でさわぎっこをして、ふく神をなくしてしまいました。

四月十五日 土曜 晴
僕は小刀をなくしたと思って、さはぎっこをした所を見ましたがありません。僕はうちへきて「おばあさん、小刀をなくしてしまいました。」といひますと「どこへおいたのだ。」といひましたから「ふところに入れおきました」といひますと「さうか。」といってふところの中を見ますとあ、ありました。僕はたいさううれしうございました。

※栗原正敏:1913年(大正2)7月、七郷村(現・嵐山町)広野に生まれる。1920年(大正9)4月七郷尋常高等小学校入学、1926年(大正15)3月七郷尋常高等小学校尋常科(現・嵐山町立七郷小学校)卒業、同年4月埼玉県立松山中学校(現・埼玉県立松山高等学校)へ入学。この日記は尋常科3年、満8才の時のものである。

つはもの漫画「ほまれ」の煙を読みて 栗原正敏 1929年

2009年10月06日 | 栗原正敏(日記、作文)

   つはもの漫画「ほまれ」の煙*を読みて
                第4学年乙組14番 栗原正敏
 題からして面白さうだ。面白さうだから読んだ。何程(なるほど)面白い。一流の漫画家が書いたのであるから全く面白い。読んでゐて一人でくすくすと笑い出した。誰も居まいかと思ふてまはりを見まはした。誰も気がつかなくてよかった。
 全く一人でも笑い出す位面白かった。此の本を読んで一番感じたのは面白かったといふことだ。
 然し面白いばかりではなかった。まったくよく兵舎の様や兵隊のさまがよく書き出されてゐる。兵隊の面白味、愉快味のあほるるような又男らしい快活な而もユーモアに富んだ生活を鋭い観察と軽妙なる筆とによってよく描き上げられてゐる。何んだか読んでゐると自分が兵隊さんになってあたかも軍隊生活をやってゐるやうな気がする。
 春が来た。兵隊さんにも春が来た。銃剣をよく御覧。輝き渡る剣にも春の青空がうつって居るでせう。靴の爪先を御覧。陽炎(かげろう)が躍ってゐる。目廂**(まびさし)に近く黄白い蝶々が舞ってゐる。醜(みにく)い馬糞からもあんな美しい陽炎があがってゐる。
 兵隊さんにも春が来た。兵隊さんの生活にも詩がある、歌もある。何も兵隊さんはおそろしいものじゃない。自分は[原稿がちぎれていて一字不明]のような詩もあり、歌もあるようなのどかな練兵場に[二字不明]からあがる美しい陽炎を見つめて可憐なる草の上に寝[二字不明。「そべ」カ]ってゐるやうな気になった。赤いシャッポの兵隊さんが[二字不明]い。何だか今にも兵隊さんになりたい気がする。

*:兵隊漫画。一平・千帆・しげを他絵。織田書店。
**:目庇。帽子のひさし。


運動競技所感 栗原正敏 1929年11月

2009年10月05日 | 栗原正敏(日記、作文)

   運動競技所感  昭和4年(1929)11月20日
           第4学年乙組14番 栗原正敏
 近年各種の運動競技は非常な勢で発達した。我が国の体育上から見ても喜ぶべき現象ではあらう。然し運動競技の末は試合の結果に走りすぎはしないであらうか。体をねるべき運動競技に於て体をこはす様なことはないであらうか。こう考へるとなんとなくうたがひを起さずにはをられない。運動を過度にやったために体をこはすのならやらない方がよい。然し何も運動せずに勉強ばかりしてゐる者が果して丈夫であらうか。私はすぐに青い顔を予想する。
 して見るとやった方がよいらしい。もっともやった方がよいから運動競技が発達するのであらう。
 私は運動競技は大いにやった方がよいと思ふ。此の中学にして見ればまだまだ運動がたりないと思ふ。学校の授業が終れば皆急いで帰ってしまふ。そして勉強する。運動をしようと思ふ感心な人がゐても運動して居れば成績が下るからよす。だから自然に体の弱い人が多くなるのであらう。
 そして学校を休む。だから出席率が悪い。ほんたうに運動して体を丈夫にしようと思うなら学校では運動時間をもっと多くした方がよいと思ふ。そして選手にばかり運動させずに皆同じにやらしたがよいと思ふ。そうでないと選手ばかいる運動競技となり、運動の健全な発達は望まれないであらう。

※評点は「乙上」。「学校、特に我が校【松山中学校】の運動について論じてゐるが偏してゐると思ふ」との講評が朱書してある。


小品集 栗原正敏 1929年11月

2009年10月04日 | 栗原正敏(日記、作文)

   小品集  昭和4年(1929)11月6日
        第4学年乙組14番 栗原正敏
  秋の夕暮
 「うまいなあ」とどなる声が頭の上でした。仰向いて見ると柿の葉がちらちらと落ちて来た。「兄ちゃんにも取っておくれよ」と下から兄は言ふ。「いぢめるからいやよ」といふ声も淋しげである。と仰向いた口には柿の種が落ちた。
 「かんにんしてよ」といふ声はつづいて淋しげに寒そうにひびいた。附近の寺の入相の鐘は淋しげに夕闇をぬってひびいた。

  小春日和
 ぽかぽかといふひづめの音があたりの静けさを破って聞えた.騎兵が二、三人かけ去った。斥候らしい。
 突然、後の山からぽかぽかといふ銃声がひびいた。
 二、三の兵隊さんが鉄炮をかついで歩いてきた。ぱかぱかと煙草をすってゐる。と、どこからともなく「兵隊さん何処へ行くの、兵隊さんは知らぬ顔」といふかはいらしい声がした。


我が癖 栗原正敏 1929年10月

2009年10月03日 | 栗原正敏(日記、作文)

   我が癖  昭和4年(1929)10月23日
        第4学年乙組14番 栗原正敏*
 或日曜日であった。私は友人の家に遊びに行った。
 「今日は」帽子を取って座敷に上った。友は感心にも勉強してゐた。「やあよくきたなあ」「おい馬鹿に勉強家だなあ」のあいさつの後、私は机の本を見た。いつもににずよく勉強してゐると思ったから。
 私の考は適中した。その本は、その題目は「曽呂利新左衛門一代記」。あはははは。私のいつものあの笑はたへることは出来なかった。友も笑った。私は自分が初めに笑って他の者がそれに同意すると、後はなんでもないのに大きな声であははは、あはははと笑ふのが得意である。学校では得意になってあはははを連発するが、その時はそれはいやな悪い癖となって私の面目をつぶしたのであった。
 「おい静かにしろ」それは友の父であった。何かの要談で一生懸命に談じあってゐる最中だったのださうだ。はっと思ったら又出た。他から聞いたらいかにも馬鹿にするげに聞えたにちがいない、すると今度はすぐとなりの室で赤ん坊の泣き声が聞えた。「だめぢゃないのお前」とこういったのは友の母らしい。赤ん坊は泣く。友の父の室では「お茶をもってこい」と友人の母にいふ声が聞える。が、よけいに赤ん坊が泣く。
 此の時には、はっとして顔の赤くなるのを禁じ得なかった。

*1913年(大正2)7月、七郷村(現・嵐山町)広野に生まれる。1926年(大正15)3月七郷尋常高等小学校卒業、同年4月埼玉県立松山中学校(現・埼玉県立松山高等学校)へ入学。四年乙組在学中の作文である。


緊縮 栗原正敏 1929年9月

2009年10月02日 | 栗原正敏(日記、作文)
   緊縮  昭和4年(1929)9月18日
       第4学年乙組14番 栗原正敏
 時、現代。場所、中学校の蹴球部脱衣場。登場人物、部員数名。
 なんだかこう書くと、劇みたいになってしまふが、何んにしても数名が雑巾の切れ端みたようなものの固りを前に置いて話し合ってゐる。よくよく見るとユニホームらしい。らしいではない。歴史あるユニホームである。破れた仲にもあの〈中〉だけはさんぜんとして光り輝いてゐる。して其の論題は如何。論題は言はずとも知れたる緊縮である。
 或者曰ク。「ずいぶん破れたなあ。これでは改造の時期にあるな。」此の言も無理はない。ユニホームとは名だけ。ずゐぶんとよく破れてゐるのである。又或者曰ク。「馬鹿言ひ。今は緊縮の世の中ではないか。」「然しいくら緊縮でもこれではなあ。」亦一人言ふ。「これでは試合が出来ないや。」亦言ふ。「なあにかまふもんか。その敗れたユニホームを着て、胸に緊縮中学とでも書いた布をはれば大したもんだぞ。」こう言ふ馬鹿にえらい君子もある。
 以上は少し軌道をはづれてゐるかも知れぬ。然しだ。世の中の人、皆此の君子の如き心掛けを持ったならば、今日の「経済問題」などは早速解決出来得ると思ふ。緊縮、緊縮。私が此の語について今更説明する迄もないと思ふ。現内閣もモートウとして進んで居られる。私は真に現内閣の緊縮政策に同意する。
 私は最後に言ふ。諸氏よ緊縮せよ。

卒業生諸君を送る 栗原正敏 1930年

2009年10月01日 | 栗原正敏(日記、作文)

   卒業生諸君を送る 昭和4年(ママ)1月22日
            第4学年乙組14番 栗原正敏
 我々は茲に光栄ある第三回卒業生諸兄を送ることになりました。かへり見ますれば過去四年間我々入学以来今日まで唯一の上級生として我々をお導き下さいましたのは兄等であります。我々は中学といふと上級生は恐ろしい者とばかり思って居りました。然し入学して見ますと上級生は恐しくなんともありませんでした。かへって実の兄よりも親切に我々をみちびいてくれたのであります。
 然しながら最早諸兄とお別れせねばならぬこととなりました。今茲にて兄等とお別れするといふことは淋しく名残をしく不安でたまりません。然しながら之は私情であります。行って下さい。国家のために。
 我等は足らざるながらも兄等の後を受けつぎ兄等によってきづき上げられたる我が松中の歴史を校風をきづつけません。否より以上向上せんことに努力します。
 而して兄等をして後顧のうれひなからしめんとちかひます。
 今後兄等の進む道には険しき山そびえ怒濤さかまく海が横はって行路はすこぶる多難であると聞いてをります。そは平和なる中学生活にくらべてずいぶんと苦しいことでせう。然しながら兄等の胸にはかっこたる自信がついて居ると信じます。どうか其の精神をもって目的地に向って進んで下さい。
 荒海何者ぞ、険山何者ぞであります。
 成功の頂、目的の彼岸は双手を上げて兄等を歓迎するでせう。かくして我が松山中学の名が世に大いなる権威を持つに至る時それは確かに諸兄に対する讃辞であります。どうか諸兄よ第三回卒業生としての栄誉を十分擔うて下さい、我々は諸兄とお別することを心淋しく思ひます。
 併しそれは私情であります。行って下さい。国家のために。我々は兄等の門出を祝福します。
 兄等御自愛下さい。而して成功の彼岸に達し我が松山中学の名声を否日本国の名声を高めて下さい。
 兄等の身に幸あれと我々一同お祈りしてやみません。
 一言もってお別れの辞といたします。

※埼玉県立松山中学校の沿革:HP『埼玉県立松山高等学校』「沿革」「教育資料館案内」。