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埼玉県比企郡嵐山町の記録アーカイブ

村議会議員の改選に際して 菅谷村長・高崎達蔵 1955年

2009年04月26日 | 報道・論壇
   論壇 村議会議員の改選に際して
 町村合併後初の村議会議員の選挙も去る十月九日の日曜日に極めて平穏に行なはれ、即日開票の結果、議員二十二名の決定を見たことは村政のため、誠に喜びに堪えない次第である。
 此の誉ある当選は、決して偶然ではなく、常日頃の愛村の熱意並に人徳とが村民の支持となって現はれたもので、其の御努力に対して敬意を表すると共に、衷心から御喜び申上ぐる次第である。
 本村も本年四月十五日合併以来僅かに六ヶ月を経たに過ぎないが、合併も極めて円滑に行はれ、その後の村政運営も何等の問題もなく、着々として新村の基礎も強化しつつあることは、旧両村の議員各位が過去の行きがかりを清算し、互譲の精神を以てお互の立場を尊重し、只新村育成のため協力を吝(おし)まなかった結果であって、其の御努力に対しては村民は深く感謝致さなければならない。
 合併当時の議員各位はあらゆる障害を克服し、合併と云ふ歴史的大事業を立派に達成し、合併後も新村発足に伴ひ重要問題が山積して居ったにも拘(かかわ)らず、常に大局的見地に立って公平適切に処理した結果、兎角支障の起り易い新村の村政も極めて円滑に運営され、合併後僅かに六ヶ月を経過した今日已(すで)に新村の基礎も確立し、重要な仕事も次ぎ次ぎと実施されつつあることは、旧議員の御功績であって、其の御苦労は村政史上に永久に輝くことであらう。今回の改選に際して苦労を共にし、常々御支援御指導を賜はった過半数の議員が勇退され、議会でお会ひすることが出来なくなったことは誠に心淋しく惜別の情に堪えないものがある。何卒今後は自由な立場にあって、今迄の経験を生かし、側面的に村政のため御指導と御鞭撻を切望致すと共に、益々御多幸をお祈りして御礼にかへる次第である。
 今回選ばれた二十二名の新議員は、中十名は引続き議席を得た方で、所謂二年生或は三年生議員で他の十二名の議員は前村長或は前議員、教育委員、其他重要な役職の経験を持った村政に対してはベテラン揃いで、今後の活躍は期して待つべきものがあり、従って村民も新議員に期待する処、極めて大きなものがあると思ふ。
 前議員の御努力により、大体の基礎は確立したとは云ふものの、真に新村の育成強化は今後にあり、其の成否は新議員の双肩にあると云っても過言ではないと思ふ。
 幸い、新議員は前述の通り村政に対してはベテラン揃いであるので、必ず村民の期待に反しない立派な村づくりに成功するものと確信する。
 何れにしても新村発足早々で、村政面に於ても重要問題山積し、新議員の活躍に期待が大きいと共に、社会状勢も内政外交を通じて決して楽観を許さない重大局面に、議員として重大責任を負はれた各位に対し、深甚な敬意を表すると共に、今後の御奮闘を切望する次第である。
 吾々執行機関に席を置くものとしても、村民の心を心とし常に議会と緊密なる連絡協調につとめ、真に車の両輪の如く円滑な村政の運営に最善をつくし、以て明るく、平和で豊かな村づくりに専念する覚悟であるから、議員各位に於ても一層の御指導御鞭撻を御願して、新旧議員各位に対する御挨拶とする。(菅谷村長高崎達蔵)
     『菅谷村報道』63号 1955年(昭和30)10月20日
※参照:合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月

助役はただの事務屋でいいか 小林博治 1964年

2009年03月23日 | 報道・論壇

 五月三十一日で退職した前助役小林氏は、退職の所感を本紙に寄せて次のように述べた。氏はこれを以って村民の皆さんに対する御挨拶にも代えたいと希(ねが)っている。よって左に紹介する

   助役はただの事務やでいいか
 昭和三十一年(1956)のことである。報道に、「時の人」という欄を設けて、関根昭二君が、人物評論の筆を馳せた。その七月号に、「助役になった小林博治氏」という標題で私を論評し、その一部に「彼はお世辞の云えない性質であり、理知的に物を考える方である。だから世間的な人気はそれ程ないが、事務的手腕は認められている。……
 助役は村長のような政治家ではないので、特に自己の抱負を実現させるというようなことはしていないが云々」といっている。これは肯綮(こうけい)に中(あた)っている。それで私は、今、十七年という長い勤めを終り、関根君の批評通りでしかなかった過去の行迹(こうと)を振りかえって、果たしてこれでよかったのであるかどうかと反省した。
 そして偶々(たまたま)今繙読(はんどく)中の書物の中に、一国の大臣、宰相たるものの職分を論じて「事務は大臣に取って枝葉である。大臣の職務はもっと根本的に、それ等の事務に由って生ずる所以のものを正さねばならぬ。国民全般の生を養い、秩序を立て教養を高めねばならぬ」とあるに逢着し、正に冷汗三斗、多年の迷夢を一時に醒まされた思いで驚倒(きょうとう)した。つまり関根君のいうように「政治家ではないから自己の抱負の実現は計らない、事務的手腕は認められている。」ということで助役の責は果たせると考え、何かのはずみに地方新聞などで、名助役だなどとおだてられると、いっぱし助役気取りで生意気をいったりした。
 然し、為政者たるもの、一村の助役たるもの、単なる事務やでは、いけないのである。村民全般の生活を充実し、社会の秩序を正し、■■の教養を高める政治があってそこに始めて事務が生じ、これを処理する事務やが必要になって来るのであるから、根本は政治であり、事務は末である。
 だから古来為政者の参考書として、推重された「貞観政要」(じょうがんせいよう)の註に、昔から大臣宰相といはれる人も、とかく国の大事に暗くて、単なる「刀筆の吏」(とうひつのり)つまり事務やに堕してしまったものが多いとし、その事務やになってしまう理由として、第一、経国済民(けいこくさいみん)の略がないと事務にしても出していれば職に勤勉なように見える。
 次に、明君が上にいて、到底頭が上がらぬ時やむを得ずコツコツ事務に没頭する。又、特別の才能があるわけではないが、長年事務に慣れて、鰻上りに地位を得たものであるから、事務に専念するより外に法がない。等をあげている。
 真に痛い話である。経国済民の略がない。上に明君を戴いて手も足も出ない。格別才能はないが長年の慣れこでやっている。といづれも私にピッタリのようである。
 こんな訳で、退職の挨拶状に「尸素十七年」という言葉が出てきた。「漢書」という史書に「今朝廷ノ大臣、上ハ主ヲ匡ス能ハズ、下ハ以テ民ヲ益スル無ク、皆、尸位素餐(しいそさん)ス」という件がある。尸位(しい)は仮りにその位につくこと、素餐(そさん)は空しく食べること、実力がなく何もしないでその位にあることを尸位素餐といい、尸素(しそ)はその略である。
 飾りではない。尸位素餐は私の実感である。
 然しそれにも拘らず無事に愉快に十七年という長い年月を勤めさせて貰った。本当に有難いことと感謝している。そして実はその愉快であったということと有難いという気持ちが、今度の退職の決意の根拠となったのであった。
 ただこう書くと、稍々逆説的になるので、少し説明を要すると思うが、この説明をはじめると長くなるから、これは別の機会にゆづり、今は、ただ右の反省だけに止めることにする。  昭和三十九年(1964)七月十三日記
     『菅谷村報道』154号 1964年(昭和39)8月1日
肯綮に中る:こうけいに当(あ)たる。物事の急所をつく。要点にぴたりとあたる。
行迹(行途):こうと。通って行く道。また、この世を過ごして行く道。
繙読:はんどく。書物をひもといて読むこと。
驚倒:きょうとう。非常に驚くこと。思いがけないことに出会って驚くこと。
刀筆の吏:とうひつのり。文書の記録の仕事をする小官吏。書記。身分のひくい役人。小官吏。小役人。古代の中国で、竹簡(ちっかん)に文字をしるすために用いた筆と、その誤りを削るために用いた刀。日本でも木簡の使用で、刀の必要があった。
経国済民:けいこくさいみん。国家を経営し人民を救うこと。経世済民。
尸位素餐:しいそさん。才徳や功がなくて位にあること。職責を果たさないで、いたずらに祿を得ること。才能も人徳もないのに位についていて、むなしく俸禄を食(は)むこと。出典は『漢書』朱雲伝。


助役の決定とその政治的意義 関根昭二 1956年7月

2009年03月02日 | 報道・論壇

  助役の決定とその政治的意義 -高崎村政の一歩後退-
 助役に漸く小林博治前助役が決定したが、この助役選任の件は、はしなくも合併後の高崎村政が直面した最初の試金石となった。
 助役定数条例の改正と共にスムースに決るかに思われた助役が議会勢力を二分して争われることになり、それは助役問題として区長まで要望書を提出する程の政治的色彩をもった運動となるに至った。助役の決定は地方自治法により村長の推薦という前提において議会の同意を必要とする条件がある。従って助役を誰にするかは村長の意志によるが議会の同意が得られなければ助役を決定することはできない。一方、議会の方から助役を誰にすべきであるかということは云へない。今度の助役問題で先づ問題になったのは「同意」ということの解釈である。これは法的には議会の意志表示であり、それは議員の表決によって決することである。従って過半数の賛成を得れば同意したことになるのである。そこで二派に分れた両勢力はいづれもその表決の際のことを考へて一人でも多くの議員を自派に引き入れようと運動した。この運動に際してあまり香しくない噂さが出たことは議会人として反省しなければならぬ。
 高崎村長はこの同意の解釈を満場一致の賛成という意味に考へていたため、かなり苦慮した。政治家の立場からすればこのような考へ方をするのは当然であり、又そうすることが、円滑な解決方法でもあるからである。
 次に問題になるのは村長の推選権である。本来、村長が助役を推選すべきであるのに、議会提案以前に議員が二派に分れてそれぞれの候補者を主張して争い村長と対立するかの如き感を呈したことは村長の推選権に政治的圧力を加えたことであり、議会において論争されるべき問題が議会の外で安易に妥協されることは議会を軽視したことであり、責任ある議員の行動とは云へない。
 第三に助役の選定に代表委員制をとり、議長、副議長、それに議員四名と村長を加えた七人の所謂首脳者達によって助役の件が決定されてしまい、議員は議会の休憩中に議長の報告を聞き、本会議で「異議なし」と云っただけにすぎないのだが、ごの議長報告によれば、助役の任期は二年であり、地区による交代制となっている。このことは村長の推選権を無視したことにならないのであろうか。ある議員が「村長の推選権を侵害したことになる」と発言したが、こうした疑問が起きないのは不思議という他はない。何が故に地域的感情にとらわれるのであるか、政治が地域的立場に立って行われる限り大きな発展は到底望めない。二年交代というが、もし途中で村長が変ったり、議会が解散したらどうなるのであろうか。代表委員による助役問題の解決と地域的二年交代制の決定とは、それが今回にのみ限られたことであるにしても、好ましいことではなく。高崎村政の政治力が弱まっている証左とも云へよう。いづれにしても今度の助役の決定はその経過と結果とにおいて、高崎村政の一歩後退を示したものである。自己の信ずる助役をさへも容易に選任することができなかったことは、合併による政治状況の複雑さと議員の政治に対する不明朗性に由来するものであるにしても、高崎村政の前途が多難なることを思わせるに充分である。
     『菅谷村報道』72号 1956年(昭和31)7月20日) 論壇

※参照:「助役選任をめぐり菅谷村議会紛糾 1956年


転換期に立った高崎村政 関根昭二 1956年4月

2009年03月01日 | 報道・論壇
   強力な政治力の展開を期待 -三十一年度予算を見て-
 三十一年度予算成立直後、村議会に実力のある某議員は「高崎村政に新味なし」と批判した。事実この予算は新鮮味が感じられず特色も見当らない。
 吾々が先づ第一に問わなければならないことは本村の発展の為めに如何なる構想を有しているかということである。予算を通してみればいづこにそのような構想が盛られているのか少しもはっきりしない。
 それは何よりも予算の実行が計画的でないということである。予算を重点的に使わず総花的に使っている。これでよい政治が行はれる筈はなく発展も福祉も考へられない。高崎村政は旧菅谷村の場合すでに十年である。計画的に予算を編成してきたならば、かなりの効果が上がった筈である。それを行い得ず徒らに補助金政策をとってきたところに高崎村政の欠陥がある。
 高崎村長は本紙六十六号の「年頭の挨拶」において「合併により事業は山積して居り、このまま無計画に推移すると公平な配分も至難となり、従って村民の期待にも沿い得ない状況ともなりかねないので、本年度から計画的に(四ヶ年計画樹立)事業を実施し四年後の則ち昭和三十四年度計画完成の際には新村育成に必要な当面の事業を概ね完遂し、村民の付託に答へたい」と述べている。高崎村長は四ヶ年計画樹立の考へを述べながらその内容は少しも発表されて居らず予算にもあらはれていない。警察消防費にしても土木費にしても産業経済費にしてもどういう計画のもとに予算が組まれているのかはっきりしないのである。
 例へば土木費の中の道路改修助成費二十万、道路新設改良費約五十万はいづれもどことはっきりした目的のない予算なのである。何故かくの如く目的のない予算を組まなければならないのか、消防費の新営改築費は九十二万円【?】あるが鐘楼二基、貯水池五ヶ所、可搬動力ポンプ二台をどこに作るのか明かにしていない。これは政治が計画的でなく他人まかせ式だからである。高崎村長は速やかに四ヶ年計画の構想を樹立して発表すべきである。然してこの構想を如何に実現するかが高崎村長の政治力であり、強力にして断乎たる態度が望まれる所以なのである。
 本年度予算に見られるが如く、あちらのこちらの区域あの要望この要求を容易にとり入れることなく村長独自の計画と意図のもとに予算を編成すべきであり、その執行には勇気を持って当るべきである。徒らに人気取り的政策をとることをやめ、お人好し的存在になることを拒否して、高崎村長の政治的信念と政策的抱負が明確に具現されることを期待して止まない。
     『菅谷村報道』69号 1956年(昭和31)4月20日 論壇

選挙を顧みて 関根昭二 1955年

2009年02月28日 | 報道・論壇

 今度の選挙には考慮せらるべき二つの点があった。その一は教育委員の無投票当選であり、他の一は村議候補者の地区的推薦である。民主主義は住民の地方自治政治への参加として住民による直接選挙の方法を認めている。選挙とは投票を意味する。投票なき選挙は選挙の名に値しない。教育委員の選挙が一部の村議や区長達の話合いによって無投票になったことは、選挙民から選挙権を剥奪したものであり、民主主義に対する重大なる反逆であると共に選挙民に対する最大の侮辱である。選挙民は選挙権を行使することによってのみ政治への意志を表明することができるのである。教育委員に誰が立候補したのか分らず、況んや如何なる教育的識見を有するものであるかも知らずに教育委員が決定されることは、それが如何なる理由によるにせよ甚だ遺憾なる事実と云はざるを得ない。吾等は、選挙のもつ意義と選挙権の重大さを反省する必要があるだろう。
 次に村会議員の選挙について考へさせられたのは多くの候補者が地域的な推薦制をとったことである。二三のがまとまって候補者を出したり、一で、一組で、候補者を出すということが行はれた。従って、そのなり、組なりに居る人は必然的にその候補者を支持することを余儀なくさせられたわけである。教育委員の場合にも都幾川を挟んで川の向う側で一人こちら側で一人立候補者を出すということが決められたが、村議の場合には更に道を境にして、この地区は何候補に投票するというようなことまで決められたようである。こうしたことは本来自由な意志によって行はるべき選挙が干渉と支配とを受けることであり、好ましいこととは云へないであろう。憲法第十五条には「すべて選挙における投票の秘密はこれを侵してはならない。選挙人はその選挙に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」ことが明記されている。然し農村の如く隣近所が非常に密接な関係にあり、日常の接触も多いところではなり組なりで決定された候補者に反対するには非常な勇気のいることであり協力しなければ村八分的な目にもあいかねない結果ともなるであろう。かくては主義主張に拘泥【とらはれ】ることなく革新系の候補者を保守系の人が熱心に運動したり、保守系の候補者を革新系の人が夢中になって応援することにもなるのである。村議がの代表者たるの観を挺するのも亦故なきことではない。
 選挙が『選挙人の自由に表明する意志によって』行はれるためには選挙に対する認識をお互いに高めることが必要であろう。それぞれがそれぞれの立場に立って、候補者の人格、識見、政治的情熱を考慮して自己の判断に基いて貴重な一票を投ずるようにしたいものである。候補者を推薦する場合には、その候補者を支持する同志の人達だけが相結束して運動をすべきであろう。
 村議選挙は、村民の政治への直接的な意志表明の手段なるが故に、他の選挙には見られない異常な熱意が漲っていたのは喜ばしいことであったけれども、そこには又行き過ぎもあったのであり、これらの点は、選挙民の自覚と反省により理想的な選挙に近づけたいものである。
     『菅谷村報道』64号 1955年(昭和30)11月20日

※参照:合併後初の菅谷村村会議員、教育委員選挙が行われる 1955年10月


憂うべき村財政(菅谷・関根昭二) 1956年12月

2008年09月11日 | 報道・論壇
  -青木村長は政策を明かにせよ-
 青木村長就任以来すでに三ヶ月、高崎前村長没後の村政は漸く軌道に載ったかの感がある。然るに今日未だに青木村長は村民に対して具体的な政策を明かにしていない。吾々は新村長が如何なる具体的政策を以て村政を担当せむとするものであるかを聞かむとするものである。
 村長は就任に際して「報道」紙上に感想を寄せたがその中で政策の具体的事項に関して次の如く述べている。
 「高崎村長さんの計画を受継いで、更に村民皆様の御意見を聞き、夫々の関係機関団体と相図り、村財政と睨み合せて調整を図り、公平適切な村政が行われるよう慎重に処理いたす覚悟であります。特に積極的に冗費節約をなし最も良心的な村政運営をお約束いたします」
 青木村長は「高崎村政のよりよき後継者」として自から任じている。高崎村政を継承するというならば何をどのように継承せんとするのであるか。口を開けば冗費の節約を云うが一体何を節約しようというのであるか、鳩山内閣はその出現の当初において公邸の廃止、ゴルフの禁止など冗費の節約と綱紀の粛正を発表して国民に吉田内閣と異なった新鮮さを感じさせた。
 吾々は青木村政生まるるや直ちに新風の起ることを期待したのであったが、遺憾ながら今までのところ村民を惹きつけるべき何らの政策をも発表していないのである。
 本年度の予算には滞納整理によって二百万の収入が見込まれている。然しこれはまだ二割五分程度しか収納されていない。とするならばこれに基く事業費などの予算の支出をどうするつもりであらうか。
 村長は速やかに滞納整理の構想とこれに伴う村財政の現状を明かにして村民の協力と理解とを求めるべきである。
 又、他方七郷中学校の建築は当初予算千六百十万(借入金二百万円の予定)から千七百二十万と約百十万の予算超過となり、この資金を捻出するため三百万の借入金をすることを建築委員会で決定したが、かくすることによって本村の借入金は中学校建設のため実に千七百万となり一年間の村税(村民税、固定資産税、自転車荷車税、電気ガス税、煙草消費税、木材取引税など)千五百万を遙かに上廻る額であり、利子だけでも年々約八十万づつ十年間支払わねばならず、元利償還となる来年度からは二百七十五万、三百八十万と逐年増加し、三十四年度には実に四百万もの支出をこれに当てなければならない結果となる。このように税金が非生産的なものに消費されて行くことは財政上好ましいことではない。これを本年度予算に当てて考へてみると、例へば役場職員給三百二十六万、警察消防費百六十三万、土木費に二百万などであるから、一年間の役場職員の給料や土木費に当る額がここ三年間は元利償還に当てられる訳であり、本年度の利子は約百三十万で消防費に近い。かく考へてくると村財政の窮迫は目に見えている。
 更に菅中の校舎増築は焦眉の問題となっており、一方農高の敷地、校舎の建設などの件もあり、これら学校関係に費される金はいづれも支出を余儀なくさせられているものであるが如何にして資金を見出すつもりであるのだらうか、又もや借入金をするのであらうか、これについて村長は明白に識見を述べるべきである。今や村財政は一方において滞納整理のメドが立たず、他方において借金の利子に追われ、然かも前途に事業は山積みして憂慮すべき段階に来ている。
 村長は如何なる決意と政策とを以てこの難関を乗り切るつもりなのであらうか。又、村議はこのような村財政を認識して予算の審議に当つているのであらうか。千七百万の借金に支払う利子は総計八百六十万に上る予定である。
 村長並びに村議はこの借金財政について重大なる責任を感ずべきであり、予算の執行と審議には慎重を要すること特に要望する。
 吾々は青木村長が村財政の今日と将来について確乎たる方針を明かにすることを要求すると共に、具体的政策を以て所信を披瀝することを望むものである。
     『報道』76号(1956年12月25日)掲載

青木村長に注目する(菅谷・関根昭二) 1956年9月

2008年09月11日 | 報道・論壇
 新村長は青木義夫氏に決定された。
 今度の村長選挙は稀にみる白熱的な選挙風景を展開したが、この選挙で目立ったことは第一に婦人や青年が際立った動きを示したことである。言論で戦うことが唯一の選挙手段として認められてゐる現状の中で街頭演説が各地で連日行はれてきたが、この街頭演説に婦人が加はったことは未だ嘗てみられなかったことである。又、婦人が進んで仲間を説得して歩く選挙運動を行ったことも今までの選挙ではなかったことである。このように婦人が積極的に選挙に活躍して大きな役割を果すに至ったことは婦人の政治的関心が高まった証拠であり、喜ぶべき減少である。
 一方、青年もまた街頭演説や説得戦術に積極的な動きを示したが、特に一家の中で親の支持する候補者と別の候補者を支持して選挙を行った人たちがあることは、それが身近な選挙であるだけに注目すべきことであらう。これは青年の政治的独立を証明するものと云へよう。
 婦人や青年によるこのような政治的関心の高まりは、やがて政治を清純なものにし社会に清新の気風をもたらすことになるであらう。願はくばかかる政治的関心を更に日本の政治に向けていただきたい。
 第二に地域的感情にあまりとらわれなかったことである。合併直後の町村に通有の旧村意識による対立感情が見られず、全村的立場に立って選挙が戦はれたことは合併後僅か一年半歳の今日すでに村民融和の徴として歓迎すべきことである。今後もあらゆる面においてこのような態度を持って臨みたいものである。
 第三に過半数の議員による野党的宣言である。栗原候補が菅谷小学校における選挙演説会において明かにしたところによれば、十二名の議員は青木村長が実現すればこれに協力しないと言明したとのことである。このこと自体は鳩山政府に社会党が協力しないのと同じようにそう大騒ぎする程の問題ではないと思うが、自己の支持する候補者が選挙に敗れたる故を以てその後の村政に感情的に反対行動をとることは議員としても亦村民としても許さるべきことではない。若しそのようなことになるならば徒らに村内に混乱と対立を招くだけであり、正常な議会運営も村政の公平な執行も行はれないのみならず円満な明るい村などできよう筈はないからである。この点、議員は冷静に自己の職責を顧み正しい村政の在り方を判断して議会人として対処すべきである。青木村長も同じ場所において「議員の協力がなくても、結構である。村民の支持があればやってゆく。」と述べたが、これも行き過ぎた言葉であり危険な思想である。何故なら民主主義とは議会主義に他ならず、議会主義とは多数決制度を意味するからである。これを否定するならばそれは独裁政治に通ずる。
 このように考へてくると選挙の終った今日、両者互いに反省して、如何にしたらよりよい村ができるか、高崎村政の偉業を継承し、更にこれを発展せしむる方途は何か、ということについて真剣に考へ話し合う必要があるであらう。徒らに裏面において画策することを廃して正々堂々と明るい場所において論議すべきである。青木村長の出現によって吾々は新風の起ることを期待してゐる。その政治的手腕を問うことにより先に如何に誠心誠意確乎たる信念を以て行動するかを注目せむとするものである。
     『報道』74号(1956年9月20日)掲載

高崎村長の急逝と菅谷村の前途(菅谷・関根昭二) 1956年8月

2008年09月11日 | 報道・論壇
 菅谷村長高崎達蔵氏は不慮の事故のため急逝された。茲に衷心より哀悼の意を表して冥福をお祈りしたい。高崎村長は昭和二十二年第一回公選村長に無投票で当選以来十年間本村の村長としてその政治的手腕を遺憾なく発揮し比類ない成果を挙げてきたのであり、その名声は郡下でも一流の評があった。又、村民の信望も厚く高崎村政を揺るぎなきものにまで確乎たらしめたのであり、合併後は複雑な状勢を能く処理して新村の育成に健闘してきたのであったが不幸にも他界されたことは本村にとって一大損失と云はなければならず、誠に哀惜の念に堪えない。
 公職選挙法によれば、村長の事故のあった日から五十日以内に選挙を行はなければならないことになっている。吾々は昨年の教育委員選挙に際しても述べたのであったが、選挙と投票を意味するのであり、選挙権とは投票する権利なのである。吾々が直接政治に参加する道は吾々が自己の信ずる人に一票を投ずる以外に方法はなく、吾々の意志を政治に表明する道は選挙による他はないのである。従って来るべき村長選挙には村長たらむとする人は堂々と名乗りを上げ自らの所信を明かにして村民にその信を問うべきである。又、議員及び指導的立場にある人達は自分らだけの話合いや了解によって選挙民の意志を無視するような結果を招来すべきではない。次に新村長の決定がなされた後に先づ問題になるのは助役のことである。高崎村長に信任された小林現助役は恐らく助役決定の経過からみて辞表を提出するであろう。その場合、何人が助役に選任されるにしても、先に議会と村長との間で申し合はされた事項、則ち助役二年交代で地域的選出という協定はすべて無効になったものと解すべきである。これはたとへ小林博治氏が助役になったとしても御破産にすべきことである。議会はこの点を明瞭にすべき義務がある。
 最後に吾々は政治と酒との関係について訴へたいことがある。高崎村長をして死に至らしめた直接の原因は酒である。政治的立場にある人はどうしても酒を飲む機会が多いのであるが、それは政治と酒が密接な関係にあるからでもある。これは日本の悲しい政治の欠陥である。酒を飲み合うことに依って予算を獲得したり、補助金をもらったり、或は何かの会合や式に招待することによって何がしかのおめぐみを期待すると云ったようなことが平然と行はれている。難しい話合いや交渉が飲むことによって忽ちに解決することがある。こういうことは政治を不明朗にする原因である。又政治が理想や正義から遠ざかる結果ともなっている。政治が民衆を恐れているのはこのためである。為政者は機会あるごとに酒を以って事を行はうとする考へ方を捨てるべきである。個人の努力の結晶たる金が寄付として集められて飲み食いに使はれたり、補助金の一部が事業完成後の飲み講に使はれることは断じて許すことのできない行為である。
 吾々はこの際酒と政治について深く反省すると共に、政治を純粋明朗なものにするため特に政治的立場にある人々の断乎たる決意を求めたいのである。
     『報道』73号(1956年8月20日)掲載

助役の決定とその政治的意義(菅谷・関根昭二) 1956年7月

2008年09月11日 | 報道・論壇
  -高崎村政の一歩後退-
 助役に漸く小林博治前助役が決定したが、この助役選任の件は、はしなくも合併後の高崎村政が直面した最初の試金石となった。
 助役定数条例の改正と共にスムースに決るかに思われた助役が議会勢力を二分して争われることになり、それは助役問題として区長まで要望書を提出する程の政治的色彩をもった運動となるに至った。助役の決定は地方自治法により村長のすい選という前提において議会の同意を必要とする条件がある。従って助役を誰にするかは村長の意志によるが議会の同意が得られなければ助役を決定することはできない。一方、議会の方から助役を誰にすべきであるかということは云へない。今度の助役問題で先づ問題になったのは「同意」ということの解決である。これは法的には議会の意志表示であり、それは議員の表決によって決することである。従って過半数の賛成を得れば同意したことになるのである。そこで二派に分れた両勢力はいづれもその表決の際のことを考へて一人でも多くの議員を自派に引き入れようと運動した。この運動に際してあまり香しくない噂さが出たことは議会人として反省しなければならぬ。
 高崎村長はこの同意の解釈を満場一致の賛成という意味に考へていたため、かなり苦慮した。政治家の立場からすればこのような考へ方をするのは当然であり、又そうすることが、円滑な解決方法でもあるからである。
 次に問題になるのは村長の推選権である。本来、村長が助役を推選すべきであるのに、議会提案以前に議員が二派に分れてそれぞれの候補者を主張して争い村長と対立するかの如き感を呈したことは村長の推選権に政治的圧力を加えたことであり、議会において論争されるべき問題が議会の外で安易に妥協されることは議会を軽視したことであり、責任ある議員の行動とは云へない。
 第三に助役の選定に代表委員制をとり、議長、副議長、それに議員四名と村長を加えた七人の所謂首脳者達によって助役の件が決定されてしまい、議員は議会の休憩中に議長の報告を聞き、本会議で「異議なし」と云っただけにすぎないのだが、ごの議長報告によれば、助役の任期は二年であり、地区による交代制となっている。このことは村長の推選権を無視したことにならないのであろうか。ある議員が「村長の推選権を侵害したことになる」と発言したが、こうした疑問が起きないのは不思議という他はない。何が故に地域的感情にとらわれるのであるか、政治が地域的立場に立って行われる限り大きな発展は到底望めない。二年交代というが、もし途中で村長が変ったり、議会が解散したらどうなるのであろうか。代表委員による助役問題の解決と地域的二年交代制の決定とは、それが今回にのみ限られたことであるにしても、好ましいことではなく。高崎村政の政治力が弱まっている証左とも云へよう。いづれにしても今度の助役の決定はその経過と結果とにおいて、高崎村政の一歩後退を示したものである。自己の信ずる助役をさへも容易に選任することができなかったことは、合併による政治状況の複雑さと議員の政治に対する不明朗性に由来するものであるにしても、高崎村政の前途が多難なることを思わせるに充分である。
     『報道』72号(1956年7月20日)掲載

転換期に立った高崎村政(菅谷・関根昭二) 1956年4月

2008年09月11日 | 報道・論壇
  強力な政治力の展開を期待-三十一年(1956)度予算を見て-
 三十一年度予算成立直後、村議会に実力のある謀議員は「高崎村政に新味なし」と批判した。事実この予算は新鮮味が感じられず特色も見当らない。
 吾々が先づ第一に問わなければならないことは本村の発展の為めに如何なる構想を有しているかということである。予算を通してみればいづこにそのような構想が盛られているのか少しもはっきりしない。
 それは何よりも予算の実行が計画的でないということである。予算を重点的に使わず総花的に使っている。これでよい政治が行はれる筈はなく発展も福祉も考へられない。高崎村政は旧菅谷村の場合すでに十年である。計画的に予算を編成してきたならば、かなりの効果が上がった筈である。それを行い得ず徒らに補助金政策をとってきたところに高崎村政の欠陥がある。
 高崎村長は本紙六十六号の「年頭の挨拶」において「合併により事業は山積して居り、このまま無計画に推移すると公平な配分も至難となり、従って村民の期待にも沿い得ない状況ともなりかねないので、本年度から計画的に(四ヶ年計画樹立)事業を実施し四年後の則ち昭和三十四年度計画完成の際には新村育成に必要な当面の事業を概ね完遂し、村民の付託に答へたい」と述べている。高崎村長は四ヶ年計画樹立の考へを述べながらその内容は少しも発表されて居らず予算にもあらはれていない。警察消防費にしても土木費にしても産業経済費にしてもどういう計画のもとに予算が組まれているのかはっきりしないのである。
 例へば土木費の中の道路改修助成費二十万、道路新設改良費約五十万はいづれもどことはっきりした目的のない予算なのである。何故かくの如く目的のない予算を組まなければならないのか、消防費の新営改築費は九十二万円【?】あるが鐘楼二基、貯水池五ヶ所、可搬動力ポンプ二台をどこに作るのか明かにしていない。これは政治が計画的でなく他人まかせ式だからである。高崎村長は速やかに四ヶ年計画の構想を樹立して発表すべきである。然してこの構想を如何に実現するかが高崎村長の政治力であり、強力にして断乎たる態度が望まれる所以なのである。
 本年度予算に見られるが如く、あちらのこちらの区域あの要望この要求を容易にとり入れることなく村長独自の計画と意図のもとに予算を編成すべきであり、その執行には勇気を持って当るべきである。徒らに人気取り的政策をとることをやめ、お人好し的存在になることを拒否して、高崎村長の政治的信念と政策的抱負が明確に具現されることを期待して止まない。
     『報道』69号(1956年4月20日)掲載

選挙を顧みて(菅谷・関根昭二) 1955年11月

2008年09月11日 | 報道・論壇
 今度の選挙には考慮せらるべき二つの点があった。その一は教育委員の無投票当選であり、他の一は村議候補者の地区的推薦である。民主主義は住民の地方自治政治への参加として住民による直接選挙の方法を認めている。選挙とは投票を意味する。投票なき選挙は選挙の名に値しない。教育委員の選挙が一部の村議や区長達の話合いによって無投票になったことは、選挙民から選挙権を剥奪したものであり、民主主義に対する重大なる反逆であると共に選挙民に対する最大の侮辱である。選挙民は選挙権を行使することによってのみ政治への意志を表明することができるのである。教育委員に誰が立候補したのか分らず、況んや如何なる教育的識見を有するものであるかも知らずに教育委員が決定されることは、それが如何なる理由によるにせよ甚だ遺憾なる事実と云はざるを得ない。吾等は、選挙のもつ意義と選挙権の重大さを反省する必要があるだろう。
 次に村会議員の選挙について考へさせられたのは多くの候補者が地域的な推薦制をとったことである。二三のがまとまって候補者を出したり、一で、一組で、候補者を出すということが行はれた。従って、そのなり、組なりに居る人は必然的にその候補者を支持することを余儀なくさせられたわけである。教育委員の場合にも都幾川を挟んで川の向う側で一人こちら側で一人立候補者を出すということが決められたが、村議の場合には更に道を境にして、この地区は何候補に投票するというようなことまで決められたようである。こうしたことは本来自由な意志によって行はるべき選挙が干渉と支配とを受けることであり、好ましいこととは云へないであろう。憲法第十五条には「すべて選挙における投票の秘密はこれを侵してはならない。選挙人はその選挙に関し公的にも私的にも責任を問はれない。」ことが明記されている。然し農村の如く隣近所が非常に密接な関係にあり、日常の接触も多いところではなり組なりで決定された候補者に反対するには非常な勇気のいることであり協力しなければ村八分的な目にもあいかねない結果ともなるであろう。かくては主義主張に拘泥【とらはれ】ることなく革新系の候補者を保守系の人が熱心に運動したり、保守系の候補者を革新系の人が夢中になって応援することにもなるのである。村議がの代表者たるの観を挺するのも亦故なきことではない。
 選挙が『選挙人の自由に表明する意志によって』行はれるためには選挙に対する認識をお互いに高めることが必要であろう。それぞれがそれぞれの立場に立って、候補者の人格、識見、政治的情熱を考慮して自己の判断に基いて貴重な一票を投ずるようにしたいものである。候補者を推薦する場合には、その候補者を支持する同志の人達だけが相結束して運動をすべきであろう。
 村議選挙は、村民の政治への直接的な意志表明の手段なるが故に、他の選挙には見られない異常な熱意が漲っていたのは喜ばしいことであったけれども、そこには又行き過ぎもあったのであり、これらの点は、選挙民の自覚と反省により理想的な選挙に近づけたいものである。
     『報道』64号(1955年11月20日)掲載