新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

考証 赤穂事件 憐れなり浅野内匠頭

2019-05-07 09:27:42 | 古代から現代史まで
 
       考証赤穂事件
 
 
江戸は京の真似をし町木戸を作り番人をおき、日没から夜明けまでは鼠しか通れぬようになっていた。 本所の紀伊国屋紀文佐衛門所有の材木小屋に勢揃いした赤穂浪士たちは、吉良邸までの間は町木戸は二つしかなかった。 だから、或いは小舟にのっていったかも知れぬが、引きあげの芝高輸泉岳寺までは、元禄版江戸切絵図には町木戸は43ヶ所もある。 労働組合もなかった当時、こんな43か所の番太郎がすべてストをやっていた筈もないのに、当日に限って全て開いていた。
だから、同じ時代の安藤広重は、こんなことはありえない事なので討入りを描いた続き絵には、往復とも小舟に分乗してゆく浪士たちを画いている。
番太郎は大番屋所属で、丁つまり12月は前京奉行から栄転の南町奉行松前伊豆守だった。 12月14日には米沢へゆく吉良が、それまで匿まわれていた麻布狸穴の上杉家中屋敷から、旧近藤登之助の古い本所屋敷へ別れの茶席へ赴むくという情報を、赤穂浪士の大高源吾に教えた四方庵山田宗偏はという男は、前の京所司代から一万石加増されて老中となった小笠原備後守の親代々の家来である。
 
討入りの晩にわざわざ生卵の箱を浪士たちの処に、恭々しく持ってゆき皆に配ってから、励ますように、  「これは殿よりの下されものなるぞ。精をつけなされ」と言った細井広沢は柳沢吉保の三百石の家臣である。  「ご助力もうそうか」と紀文長屋へ駆けつけた堀内源太左工門は、松前伊豆守召抱えの捕方共への棒術指南として扶持をうけていた人物。 これみな柳沢の一味徒党である。マフィアなみの体制側の組織なのである。
 そして吉良の首をとってしまうと態度は一変して、全員みな賜死あってしかるべしと進言したと言われるのも、柳沢吉保の五百石の臣の荻生徂来。 事件後幕閣では浪士の処分を巡って随分と意見百出で揉めたという。それを「賜死」即ち死罪の一言でかたづけてしまっている。 この時代は侍に意見などはなく、みな殿の言いなりに行動するのが扶持を頂いている家臣の忠義だった。  柳沢吉保のマフィアが寄ってたかって吉良を生きたまま米沢へやりたくなかったか理由と言えば何だったかとなる。
それは、箱根以西は銀何匁の貨幣制度で、金はカネではないのを良い事に、古金の大判小判の流通を禁止して京へ送りこみ、 吉良上野介を宰領に堺の中村内蔵助に命じて銅を半分以上混ぜた元禄小判を鋳造し、当時の警察庁長官にあたる仙石伯耆ら幕閤の要所に大盤振舞いをしてのけた。
 
 
柳沢吉保は収賄などせず逆に金をばらまいたから明治になって清潔な為政家とし追贈正三位の恩恵さえ受けている。 勘定吟味方にすぎなかった萩原が勘定奉行と、それぞれ金の他に出世させて貰えたのに吉良だけは高家という立場ゆえ金は貰えたが、 望んだ大目付は「吉良殿は御高家ゆえ」と断られ、そんなことなら面白くない、辞める隠居すると口外した。 こうなると、生かしておいて贋金作りを暴露されては危険だと、京よりの勅使が帰る日になって田舎大名の浅野をよび、   
「吉良を殿中にていかようにしても抜刀させい。そちには何んの咎めもない、逆に加増してとらせるぞ」と理由も告げずに命令するなり小笠原らを伴って能の席へ行ってしまった。 ことは大老柳沢吉保みづからの命令である。小藩の浅野は忠犬のごとく吉良を探して廻り見つけると、なんとか抜刀させようと、殺すのが目的ではないから、額を突き肩を突きながら、 「抜け」「武士の情けじゃ抜いて下され」とまで叫んだ。
 
さては柳沢が殿中で抜刀さて仕置する肚とみてとった賢い吉良は、相手にならず不成功に終ってしまう。 よって、すぐ千代田城の坊主部屋へ入れられ、唐丸駕籠に入れて運び出された浅野は、囗をきかれては困ると、 田村邸に入り扉をあけ首を出したところをバサリと脊後から討首にされてしまう。 そして生きている吉良のの跡仕末は、甘言をもって浅野浪人にやらすべしとなった。 だから、せっかく上杉家より弐万両もだして作らせていた頑丈な呉服橋の吉良邸は、私邸なのに強引に没取してしまう。
代りに辺鄙な本所のボロ屋敷が柳沢吉保より与えられた。そして首尾よく殺せば再仕官させるとの巧餌で討入りの便宜も計ったのである。 ゆえ吉田忠左エ門らが泉岳寺へ行く途中で大目付仙石の役宅にわざわざ経過報告にまで行っている。
 
 
「主君の浅野も使い棄て、浪士も使い棄て」で、これではあまりにも可哀そうすぎると、当時の江戸の庶民は同情し、早速芝居にした。 当時の幕府は、芝居や音曲の興行許可権も握っていたから、本名では差しさわりがあるので、「仮名手本忠臣蔵」とした。 そして、吉良を高師直、浅野を塩屋判官と変え上演。これが大阪でも大当たりした。
こうして芝居では「判官びいき」の言葉もうまれてくるのである。 「春本壇の浦合戦」の主人公にされた九郎法眼義経のことではない。 強権で押さえつけられ、生活苦にあえいでいた江戸の庶民は、この事件の裏にはきっときな臭い権力の陰謀があると嗅ぎつけていたのだろう。
一方の上方歌舞伎や浄瑠璃では、銅をどんどんまぜて小判を作っていた中村内蔵助が、祇園の一力茶屋を連夜かりきってのダダラ遊びだし、 女房も負けじと嵐山で衣裳くらべの日本におけるフアッションショウの元祖となる見世物を開いた。 現在、この時の錦絵を見て「元禄時代は絢爛豪華な文化の爛熟期だっ」としている。 が、柳沢の超インフレ政策で、生活苦に喘ぐ庶民や、多くの庶民が野垂れ死にをしていた悲惨な実態を全く見ていない。
 
そこで当時、西では有名な斎藤内蔵助を一力の場にだし芝居は大当りをとった。 庶民たちは、まさか柳沢吉保がそこまで巧妙に筋書をたてて、吉良邸内には兵隊なみの三名一組ずつが斬りこみ、上野介を見つけると邸外へ曳きずりだしてきて処分。 それまでは大身の者や老人は外部にいて近所の旗本屋敷で手焙りを借りたり白湯を貰っていたにすぎないのでも、一緒くたに死罪にしてしまうとまでは思っていなかった。
だが、哀れ踊らされ、再就職の罠にかかった大石より、乞われて上杉家より行き、同夜いきなり不意に入口でつき殺された家老の小林平八郎が同行していたので、せめて彼の名誉だけでも回復せねばとの、幕末になって貸本のベストセラーになった式亭三馬の「女忠臣蔵」の中では、若くて良い男にさせた上で、華やかな女衣裳で泉水の石橋の処で、浪士の一人を凍る水中へ蹴落すような武勇伝に仕立てあげさせたのである。
 
 
 

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