新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

天下の豪傑藤堂高虎の虚像

2019-05-02 15:55:26 | 古代から現代史まで
天下の豪傑藤堂高虎の虚像
 
         (長編なれど面白く書いてます)
講談や大衆小説の類では、藤堂高虎は世にも稀な天下の豪傑として描かれている。 しかし、戦国時代の秀吉と家康時代を生き抜き、伊予半国十五万石の城主にまでなったこの男は豪傑などとは程遠く、その行動は、間諜としてのし上がったしたたかな男だったのである。初め秀吉の走狗となり、次に家康につきその走狗となって豊臣を裏切っている。片桐勝元もその部類で、この時代の武将は多かれ少なかれこれに類した行動は皆やっている。しかし高虎はその中でも主君殺しまでやってるしたたか者なのである。以下にその実像を記す。
イメージ
 
イメージ
 
イメージ
 
          高虎の実像
高虎は尾張阿古井の庄の藤堂源助の倅として、弘治二年(1556)に生まれている。さてその年の夏。 阿古井の豪族土田久安の娘が産んだ織田四郎信行は那古野城代林佐渡美作の兄弟に擁され、異母兄である織田三郎信長に取って代わろうと旗揚げした。だが一戦してもろくも敗退した。「からす勘十郎」とも呼ばれていた色黒の信行は、翌年清洲城へ詫びを入れに行ったが、信長は後顧の憂いが有りすぎるからこれを殺して始末してのけた。ついでに末森城の信行の倅も「成人後はうるさいから殺せ」と信長に言いつけられたのが、当時まだ柴田権六とよばれていた後の勝家。
そしてその権六の父権蔵の妻が土田御前の姉で、つまり権六は信行の従兄だった。しかし信長に命じられて信行を伴ってきて殺されてしまった後ゆえ、 「・・・・なにとぞ幼い和子様だけはお許しくだされませ」と大男が這いつくばって助命を嘆願した。 そして許されると権六は、己の姉にその養育を頼み込み、用心棒の如く警護役につけたのが、藤堂高虎の父に当たる源助だった。 さて、信長の異母兄に、三郎五郎信広というのが居た。この人も弘治三年には美濃の斉藤義竜と組んで信長に謀叛しかけたが失敗。のち、 「津田信広」と改名して信長に仕えている内、天正二年九月の長島一向門徒征伐の折に戦死した。 その家名がその儘になっているのを、柴田勝家は信長に願い出て信行の遺児に継がせた。 ついで、津田信澄を名乗るようになると勝家は、明智光秀の二女を貰いうけその室にさせた。 そして勝家は己の働きで信長から譲られた近江大溝の城を二万石の領地をつけ、信澄のものとした。これが勝家の律儀さでもある。 だから長年奉公の藤堂源助の倅高虎もこのため三十貫扶持になれて、大溝城の近習頭となった。
 
     高虎、信長の急死で巧く立ち回る
 
処がその八年後、高虎三十三歳になった六月。本能寺で織田信長が髪の毛一本残さず爆殺されるという事件が起こった。それゆえ二日当日出発予定の渡海艦隊を整えていた織田信孝を総大将とする四国攻めの本営があった大阪城でも大騒ぎとなった。 住吉浦に停泊中の出発間際の軍船から、次々と船夫ばかりでなく、武者までが裸になって海中へ飛び込み逃げ去る有様に、副将の丹羽長秀も腕をこまねいた。さて、大阪城二の丸には、近江大溝城主津田信澄も詰めていて、近習頭の藤堂高虎も当然共して来ていた。
この混乱に乗じて、高虎に近づき、大巾な扶持加増を餌に謀略を授けたのが、羽柴秀吉の弟羽柴秀長の家臣である。 勿論これは兄羽柴秀吉から出た深謀策である。それはこの後秀吉は「信長殺しは明智光秀」として、近々明智征伐を計画していたからである。 なにしろ、高虎の主君の室は明智光秀の二の姫である。さらに高虎の立場は光秀の娘婿津田信澄近習頭。 そして高虎が授かった謀略の策とは、デマを拡散することであった。
さてその夜からというもの、大阪城内には、 「本能寺の変は明智光秀の仕業じゃそうじゃ・・・・となると二の丸に居る津田信澄は仇敵の片割れ」といった噂が秘かに流れ出した。そこで血迷った信長の三男信孝は丹羽長秀を呼び、すぐさま手勢を率いて津田信澄を襲撃させた。不意を撃たれた信澄は驚き藤堂高虎を呼んだが、デマを流した高虎は、もうその頃には姿をくらましていた。このため津田信澄はここで殺され首を取られてしまい、丹羽長秀の兵たちによって留守の大溝城は荒され、奥方の明智光秀の二の姫も殺された。
 
    高虎、賤が岳の役に間諜本領発揮する
 
柴田勝家は北国の雪解けを待って天正十一年三月九日越前北の庄を出発し、秀吉と対戦するために十二日近江路の京街道へ出た。 するとその勝家の陣地へ藤堂高虎が手勢五十名を率いて馳せ参じた。勝家はそれを聞くと、「ほう藤堂源助はわしの親爺様権蔵殿の妹婿である。その倅の高虎ならわしには従弟か又従弟に当たろう。よくぞ駆けつけてくれた」と喜び面会した。 高虎は目通りを許されると「手前を先陣に加えて下され」と勝家に申し出た。人の良い勝家は「佐久間盛政が陣を敷いている行市山へいき、そこに加わるがよかろう」と命じた。 さて佐久間盛政は、昨年まで津田信澄の近習頭で三十貫扶持にすぎなかった者が、纏まった手勢を率いてきたのを怪しみ、(はてな・・・・・)と首を傾けたが盛政も勝家の甥だからして「藤堂高虎も縁に繋がる一族ゆえ、かくは無理して人集めしてきたのだろうか」と考え、本陣へ置いた。
 
 
そして十九日には、中川清秀のたてこもる秀吉方の大岩城を攻撃し大いに活躍した。そこで盛政が中川清秀の首級をあげると、これを高虎にもたせ、 「この大岩城は要地で、ここを押さえておけば北国街道の隘路口から自由に出られる。よって叔父の勝家へ速やかに本隊を繰り出し秀吉の本陣を攻めるようにしかと言上せい」と繰返し何度も行って聞かせて連絡におもむかせた。 しかし高虎は勝家の本陣へ到着すると、 「佐久間盛政様口上は・・・・大岩山並びに山崎山の敵は下しましたなれど、なにしろ左禰山には堀秀政、田上山には羽柴秀長の大軍が控えていますゆえ、軽々しく動かぬようにとのこと・・・・」 と、まるっきり反対なことを告げた。勝家はまさか従弟の藤堂高虎が嘘を言ってるとは思わず、佐久間盛政に戻ってくるよう命じた。 こうしてもたついてる時、秀吉は今の時間で言うならば午後四時に大垣を発つと、垂井から藤川をへて午後九時には十三里の道を一気に駈けけ戻った。 この知らせを聞いた佐久間盛政は「叔父の勝家が愚図ついていなさるゆえ、かかる結果になったと無念がって、ひとまず行市山へ戻った。 秀吉は賤ガ岳の砦からこの撤収を眺めるや「それッ敵は、わしが戻ってきたのを恐れ、戦わずして崩れ去っておるぞ。追え、皆の者、功名をたてるは今ぞッ」と、 まだ小姓の加藤虎之助や福島市松らに
 
まで、大きな槍を持たせて戦場に送り出した。
これが後には賤ガ岳七本槍として有名になるのである。 このため佐久間盛政の本隊も崩れかけた。すると茂山にあって佐久間勢左側面の援護に当たっていた前田利家が突如裏切った。 だから盛政の本陣が乱れかけた時、それまで味方を装っていた藤堂高虎が、いつの間に引き入れたか羽柴秀長の軍勢の先頭に立ち、挟み撃ちにせんと掛かってきた。この状態を『フロイス日本史』では、 「戦闘は激烈で槍で互いに殺戮し合い、勝敗はつかなかったが、やがて柴田方は、森へ逃げ込み、武具や剣をも棄て、命を全うせんと、折からの暑熱にうだって衣服まで取った。そこで忽然として山頂に一万五千余の半裸体の姿が浮かんで、やがてそれは雪崩をうって敗走した」 といった惨憺たる有様となって、流石の柴田勝家も、己が旗印を毛受庄助に授け、越前北の庄へ逃げさった。が、二日後には羽柴秀吉が前田利家を伴って北の庄を包囲。柴田勝家は於市御前を初め、近臣八十余名と共に、火薬を仕掛けて大爆発の中飛び散って果てた。
この時の手柄で藤堂高虎は秀吉から目通りを許され、八千三百石になった。が、それでは半端だと思われたのか、主君羽柴秀長が二年後に大和郡山へ百万石で移封された際には高虎も増えて「一万石」にまでなったと『武家事紀』には記載されている。
      
 
           高虎、秀吉の密命で殺しをなす
 
しかし、高虎でも一回位はまともに戦って名を挙げたこともある。 天正十四年四月に主君秀長の共をして九州攻めに渡海した際のことである。 島津勢が夜討ちをしてきて、宮部善祥坊の率いる四国兵の見城へ押し寄せたとき、藤堂高虎は薩摩兵が秀長の本陣へ近づかぬように、どんどん篝火を焚き、これを迎え撃って島津家久を撃退した。 この手柄で加増され、二万石になった。そして秀吉の命令で高虎は、郡山百万石羽柴秀長の筆頭家老になった。
 
そこで秀吉の許へ御礼言上のため伺候したところ、秀吉は声を潜め、 「秀長は子なしゆえ、関白秀次の末の弟を養子にさせてあるが・・・・どうも上の小吉秀勝同様に、わしを恨んでいるらしい節がある。よいかそこのところを考えて善処せいや・・・」と、耳打ちする如くに秘かに伝えた。だから天正十九年正月二十二日に、秀長が亡くなり、養子の秀保が跡目を相続し、十四位下参議右近衛権中将になり、ついで翌文禄元年正月には「従三位権中納言」に任官し、名護屋城普請に九州へ渡た。 藤堂高虎も共をして行き、また秀吉に逢った。 「いつかの事、良く用心して見張り、何か在ったら直ぐに自分で知らせに参れ・・・よいか」と言いつかった。
そこで一年おいて文禄三年二月、盛大な秀吉主催の吉野の花見の時、高虎は、 「御長兄秀次様の事は判りませぬが、知行不足を言い立て上様から、先年所領を没収されし次兄小吉秀勝殿と、このところ頻繁に逢っております。どうやら御長兄をも引きずりこまれている模様・・・・」 すると秀吉は顔色を変え「始末せい・・・・」と言いつけた。
 
 
         秀吉の策謀に高虎応える
 
信房というのは秀吉の姉の夫で、昔は清洲城で足軽の小頭をしていた一若のことである。 己に子供がないところから秀吉は、その長男の秀次を養子にして関白にさせ、次男を信長の子であった羽柴秀勝の死後、すり替えて同名を名乗らせ、丹波亀山十万石を継がせ、三男を弟秀長の養子にさせたのだが、さて淀君から生まれた秀頼が元気に育ってくると、どうしてもこの三人の兄弟が気になってならなかった。そこでかねて目をつけていた藤堂高虎を、郡山百万石の筆頭家老にさせて様子を窺がわせていたのだが、何か企てていると聞いては、最早ほおっては置けず、(三人兄弟の内、一人でも早く処分せねば)と腹を決めたのである。
この密命を受けた藤堂高虎は、四月十六日(昔は大陰暦だから五月末に当たる)秀保が暑いから水馬をしたいと言い出した。 しめたとばかり、高虎は己の家来の仲から水練の巧みな者を選抜して、川中で水中へ引っ張り込み溺死させた。
 
そして高虎は「自分が家老として付けられていたのに、申し訳ない、許されるべきことではない」と嘆き悲しみ慟哭して見せ、亡き殿の菩提を弔うため出家すると高野山へ登ろうとした。これ全てが芝居なのだが、これを聞いた秀吉は「天晴れ忠義な者である。わしが召抱えよう」とこれまた芝居で褒めちぎった。 そして伊予宇和郡で七万石の領地をすぐさま与えた。この話しは戦国確定史料の『当代紀』に明白に記載されている。 二万石から七万石へのベースアップは、つまり主君殺しの代償という事になる。
この後『武家事紀』によれば「慶長二年の朝鮮征伐の時、七月に唐島で敵の番船を捕獲、ついでスウエンで敢闘負傷帰朝せり」と勇ましくなっている。 そして『桃山分限帖』では、「慶長三年六月二十二日に、伊予喜多、浮穴二郡の内で一万石加増」とあり、伊予板島城主として八万一千石にまで昇進している。だから藤堂高虎は秀吉を有難がって、豊臣家の為に極力奉公したろうと思うのは、凡人の考えであって、
 
「慶長三年八月十八日」に、伏見城で秀吉が死ぬと高虎は「てまえの身でお役に立つ事はござりませぬかな」と、 直ちに徳川家康の許を訪れた。そこで家康は、 「誰が見ても藤堂高虎は豊臣恩顧の大名として代表的な存在。それがこの家康に加担して大阪城の事を何かと通知してくれるとは、これは十五万石の価値は楽に在るな」といった。ここで話しが決まって、それからというもの高虎は、大阪城内に在って五奉行の動性を見張り、次々と家康の元へ、報告をしだした。 そのくせ、しきりに悲憤慷慨して、 「今にしてあの狸親爺を打ち倒さんことには・・・・・豊臣家の運命は危ぶまれる。かくなる上は只もう断あるのみで御座ろう」等と言って回った。 これには実直な石田三成などは、すっかり感激してしまい、
 
藤堂高虎、福島正則をたきつけ、まんまと東軍勝利に貢献した
 
「豊臣秀保様の菩提を弔うと出家しかけた・・・お人だけの事はある・・・・ああいう誠忠無比な士が揃っている内に旗揚げを致さん」 といった決意をするようになった。そこで東西が風雲急を告げだした。すると変わり身の早い高虎はさっさと本性を現して東軍につき、直ぐ尾張の清洲城へ赴き、 城主の福島正則をつかまえて、「石田三成らは、貴公のことを桶屋上がりの馬鹿者というとるのを、大阪城で散々聞かされてきた」と、 真面目くさって告げたから、単純な福島正則はかっして、 「大阪城内にずっと居た藤堂殿が言われるのは嘘ではあるまい、おのれ憎っくき石田三成め」と、激怒した。 こうして、福島正則は、豊臣恩顧の大名達を清洲城へ集めた。 (加藤嘉明、浅野長政、池田輝政、細川忠興、黒田長政、田中吉政、一柳直盛、桑山元靖らである) そして家康からの使者の村越七十郎を迎えると、藤堂高虎は、 「我らは西軍東軍のいずれにも味方せぬ腹で、この清洲へ集まったのであるが、家康公の思し召しでは、もし御味方すれば所得倍増を約束してくださる」と、一同に図った。福島正則は秀吉の母方の縁者ゆえ、大阪方へたてつく気など初めは毛頭なかった。
何しろ十数余の大名が清洲に集まってきて、豪気な正則はそれらの兵の糧食を一手に引き受けていて、その出費は膨大だった。 手持ちの米も使い果たし、すっかり弱りきっていたので、そこで岐阜攻めの話が出ると、渡りに船と、皆が清洲から出て行ってくれるだろうと賛成した。
八月二十二日。清洲城にいて中立を標榜していた三万五千の兵が、突如行動を開始して木曽川を渡り、西軍側の岐阜城を攻めたから、ここに東軍の形勢が有利になり、翌九月十五日の関が原合戦でも、東軍は大勝利を得た。この結果家康は喜び、 「・・・・局外中立の福島正則ら荒大名をまんまと計って味方とせしは、さすが藤堂高虎だけのことはある」と、 約束通りに伊予半国十五万石に取り立てた。が、その代わり「続けて励めよ」ともいいつかった。 そこで高虎は何食わぬ顔でその後も大阪城へ出入りして、しらばっくれて、「手前一人だに世にあらば、豊家の土台は磐石とご安心あれ」と秀頼や淀君に高言していた。 しかし、また大阪の戦役になるとさっさと徳川方についてしまい、夏の陣には河内八尾で、大阪方の長曾我部盛親と戦って勝った。 しかし家康は、 「間諜には高禄を与えるものではない」と、もう昇禄はさせず、代わりに大阪城焼跡の夥しい竿金や分銅金を褒美に与えた。 しかしこの当時は未だ銀が貨幣であって、金はおかねではなかったら高虎はむくれて、その腹いせに、 「あの狸親爺め・・・・・」と、その金で置物や茶湯台子一式、茶釜を作ってのけた。
 
 文福茶釜に狸が化ける話しは、もうその頃から有ったらしい。
なお、これらの品の一部が、昭和二十年の敗戦前まで藤堂家に在った。これは前日本歴史学会会長の故高柳光寿博士が実際に見ているという。 この後、高虎は家康の下では譜代大名並に扱われ、従四位下左少将の官名だったと「高山公実録」に記されている。
藤堂高虎、寛永七年十月五日死す。享年七十五歳だった。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿