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もっこうさんです。

岩手県一関市藤沢町で工務店を営業している「菅原木工」が、住まいや地域の情報と、個人的趣味の情報をお届けします。

【奥州市】 妙見山 黒石寺を散策してきました。

2013年05月07日 | 名所・旧跡

蘇民祭の舞台

黒石寺 薬師堂 【奥州市】

黒石寺(天台宗)は1773(安永2)年に記された「黒石寺書出」によると、729(天平元)年に行基が当地を訪れて薬師像を造り、地元の民がこれを薬師堂に祀ったことに始まるとされています。
翌年、その堂のかたわらに伽藍を設け、東光山薬師寺と号したといわれています。
延暦年間(782~806)に戦火のため焼失し、衰退しましたが、807(大同2)年に慈覚大師が寺の北の岩屋に一夜座禅をし、この寺を中興したと云われています。

そして、寺の東に妙見宮があり、岩屋が黒い石よりできていたことから、妙見山黒石寺と改めました。また同年に坂上田村麻呂が薬師堂を再建したことも記されています。

東光山薬師寺の頃は三論宗(南都六宗の一つ)系であったとされていますが、奥州藤原氏二代基衡の頃に天台宗系となり、1665(寛文5)年からは正式に天台宗になりました。
延暦年間(782~806)の戦火による焼失以降、1881(明治14)年までに5度の火災に遭い、現在の本堂と庫裡は1884年に再建したものです。

 


 

黒石寺 薬師堂 【奥州市】

黒石寺の本尊「木造薬師如来坐像」(国重文)は、胎内墨書銘に「貞観四(862)年十二月」と記され、胆沢城築城から60年後に造られたことが解りました。
桂材を使用した一木造のこの像は、両肩が張り、耳が大きく、耳たぶが外に張り出しているなど、平安時代初期の特徴をあらわしています。
また、「木造四天王立像」(国重文)もあります。

薬師如来坐像 収蔵庫  黒石寺 【奥州市】

 

本尊に当初より付属していたと考えられ、作風・象容にばらつきがありますが、本尊と同時期の作と考えられています。
寺伝では、慈覚大師坐像とされる「木造僧形坐像」(国重文)にも「永承二(1047)年」の墨書銘があり、造形的にすぐれ、彫りの深い衣紋は鮮やかです。

他にも、木造十二神将造、木造日光・月光菩薩立像(いずれも県文化財)もあります。

黒石寺 釈迦観音堂 【奥州市】

かつては多数の堂宇を数えた境内ですが、今は数えるほどの堂宇しかありません。
【奥州市水沢区】 黒石寺 鐘楼

黒石寺では、旧正月7日の夜から翌8日の明け方にかけて、薬師信仰をもとにした「裸の男と炎の祭り」とされる「蘇民祭」が行われています。

蘇民袋(護符が入った麻袋)を奪い合い、袋の首を奪った者の地が、五穀豊穣を約束されるとされています。


(出典 岩手県の歴史散歩


【妙見山黒石寺MAP】

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【北上市】 立花毘沙門堂を見てきました。

2013年04月30日 | 名所・旧跡

桜の名所「展勝地」にほど近い北上市立花にこのお堂が建てられています。

立花毘沙門堂 鳥居 【北上市】


立花毘沙門堂 【北上市】

三間四方のお堂です。

ここには、毘沙門天立像、彗光童子立像が祀られています。

毘沙門天立像は、高さ70㎝ほどで、十一世紀に製作とされています。

彗光童子立像は高さ71㎝ほど、十三世紀に製作とされています。

毘沙門天立像・彗光童子立像の他に、牛王板と呼ばれる、護符の一種が入っています。

この三点は北上市の文化財に指定されています。

立花毘沙門堂 側面 【北上市】

立花毘沙門堂 向拝 【北上市】

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毘沙門堂の脇の一段高いところにコンクリートで造られたお堂があります。

この中にも毘沙門天立像をはじめとする三体の象が祀られています。

天安元年(857)に丈徳天皇は胆沢城の真北にある極楽寺を準官寺の定額寺と指定し、岩手県地方の文化発展の中心地としました。

当時の極楽寺の周辺には、東谷・西谷・北谷など三十六坊があったといわれ、北谷にあった毘沙門堂が平安時代の仏像を残しています。


慈覚大師の作と伝えられる本尊の毘沙門天立像は、高さ102㎝、一木造りのナタ彫りで十世紀の作とされています。

 


【立花毘沙門堂MAP】

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【登米市石越町】 昌學寺のシダレザクラが咲きました。

2013年04月23日 | 名所・旧跡

登米市石越町の名刹「昌學寺」の境内に植えられている樹齢400年のシダレザクラが見頃を迎えています。

昌學寺 シダレザクラ 【登米市石越町】

今年もシダレザクラが花を咲かせました。

近年、このシダレザクラは枝の腐朽が進み、今年の冬にワイヤで支えていた大きな枝を切り落としましたが、なんとが残った枝で花を咲かせてくれました。

昌學寺 本堂 シダレザクラ 


【石越山昌學寺MAP】

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【黒川郡利府町】 勿来の関跡を見てきました。

2013年02月21日 | 名所・旧跡

国府多賀城、北の玄関口

 

勿来の関跡 勿来神社の碑 【利府町】

仙台と石巻を結ぶ県道8号線「石巻街道」利府中心部を松島方面へ向かう途中の山あいにひっそりと石碑が建てられています。

 

勿来の関跡 勿来神社の碑 【利府町】

「ふくかぜを なこそのせきと おもえども みちもせにちる 山桜かな」

源 義家

利府町に古くから勿来川(名古曽川)惣の関(名古曽の関)と呼び親しんだ地が、近世以来「勿来の関」と考えられています。

古来、大野東人の進言により出羽柵へ通じる道の関門や、前九年・後三年の役など兵乱の際多くの兵士氏が、この関を往来したとされています。


【勿来の関MAP】

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【多賀城市】 多賀城跡を散策してきました。

2013年02月18日 | 名所・旧跡

特別史跡 多賀城跡を訪ねて

 

多賀城 政庁跡 【多賀城市】

仙台駅から東北本線下り普通列車に乗って十数分ほど陸前山王駅を過ぎた左側の小高い丘陵が見てきます。これが多賀城跡です。


多賀城跡は江戸時代から注目され、大正年間に調査・研究がされていましたが、本格的には昭和三十八年の調査が最初でした。それ以来現在も発掘調査は行われています。



多賀城 石敷広場跡 【多賀城市】

 

多賀城は、仙台平野の東北部に位置し、丘陵の高さは52メートルでこの丘陵から沖積地にわたっています。
丘陵は二本の谷によって東・西・中央の三つに分けられ丘陵上の平坦部に諸施設が設けられていました。

多賀城政庁-外郭南門道路跡 【多賀城市】

多賀城の全体の平面形は、丘陵に立地するため不整な四角形となっています。
規模は東辺1000メートル、南辺860メートル、西辺670メートル、北辺770メートルで、総面積が72ヘクタールとなっています。
これは、東北の古代城柵のなかでは、志和城(岩手県紫波町)と並ぶ規模となっています。

多賀城跡政庁 推定復元模型 

発掘調査と文献史料によれば、創建以降、多賀城は四期の変遷をたどっていることが明らかになっています。

第Ⅰ期(724年前後~762年) 創建期
第Ⅱ期(762年~780年) 多賀城碑にみられる天平宝字六年(762)藤原恵美朝臣朝猟による修造から、宝亀十一年(780)伊治公呰麻呂の乱によって焼亡するまで。
第Ⅲ期(780年~869年) 伊治公呰麻呂の乱の焼亡後の復興から、貞観十一年(869)の大地震により被害をうけるまで。
第Ⅳ期(869年~10世紀後半)地震後の復興から廃絶まで。

現在、復元整備されているのは第Ⅱ期を基にしています。

外郭の大部分が高さ5メートルの築地塀(土をつき固め、屋根をかけた土塀)で、東辺や西辺の低湿地では、材木を密接して立て並べた材木列の塀の部分もありました。
現在でも築地塀の跡が残っている部分もあります。

多賀城政庁東殿跡  【多賀城市】

 

外郭の東辺築地塀は、当初のものが第Ⅲ期以降、内側(西側)へ40メートル移動して築き直されていることが明らかになりました。また、平安時代になると外郭築地塀の各所に櫓を設けるようになっていきます。
外郭には南門・東門・西門があり、いずれも正面三間、奥行き二間のいわゆる八脚門でした。
東門と西門は時期によって位置を変えて建造されています。

多賀城南門跡 【多賀城市】


政庁に対する儀礼的な意味をもつ城の正面である外郭の南門を入ると、南北道路があり、300メートルほど北進すると政庁南門につきあたります。
外郭南門は丘陵上にあり南北道路はこの丘陵をいったん下ると、政庁南門まで上り坂になっています。


国内の郡司や蝦夷は政庁で行われる儀式に参列することがあったので、丘陵を利用して外郭南門から政庁への参上する人々へ威圧するように設計されていたのです。

多賀城南門跡から政庁を望む

【多賀城碑(壺の碑)】



多賀城碑は、碑文によれば天平宝字六年(762)に建てられ、他の文献史料によっては知ることのできない多賀城の創建と修造の年代を記しています。
この碑は多賀城の外郭南門跡のある丘陵上にあります。


多賀城跡 多賀城碑【壺の碑】


県道根白石塩竈線の南側で、南門跡の内側にあり江戸時代に建てられた覆屋に収められています。
碑の高さは196センチメートル、幅92センチメートル、厚さ70センチメートルの大きさで砂岩の自然石の一面を平滑に加工して文字を刻み、刻文面を西にむけてほぼ垂直に立っています。

碑文の内容は、前半部分に、多賀城の位置を、京、蝦夷国界、常陸国界、下野国界、靺鞨(中国東北部松花江流域に居住した種族)国界からの距離で示し、後半部分に神亀元年(724)大野東人が建置し、天平宝字六年、藤原恵美朝獦が修造したことを記し、末尾に建碑した天平宝字六年十二月一日の日付を刻んでいます。

多賀城碑は、
藤原恵美朝獦が多賀城を修造したことを記念し、かつ彼の造営事業を顕彰するために建てられた碑ということになります。



【多賀城廃寺跡】

多賀城廃寺 講堂跡 【多賀城市】

多賀城廃寺跡は多賀城跡の東南約1キロメートルの多賀城市高崎の丘陵上にあります。

多賀城廃寺 三重塔跡 【多賀城市】
八世紀初頭に建立されたとされる寺院ですが確かな記録がなく古くは地名をとって高崎廃寺、現在では多賀城廃寺と呼んでいます。


多賀城廃寺 中門跡 【多賀城市】
昭和36年から41年まで5年にわたって発掘調査を行い、全貌が明らかになっています。
この寺は多賀城付属の官寺です。
多賀城創建時の瓦が廃寺跡から出土することから多賀城と同じ八世紀前半に創建され、十世紀中ごろまで存続し、多賀城と盛衰をともにしたとされています。

多賀城廃寺 講堂跡 【多賀城市】

伽藍の配置は、三重塔と金堂を東西に配置する点に特徴が見られますが、この配置は筑前大宰府の観音寺と基本的に同じとなっています。
蝦夷に対する東の守りである多賀城の付属寺院の伽藍配置として、大陸・半島に対する西の守りである大宰府に付属する観音寺のそれを意識的に模倣したと云われています。
多賀城廃寺跡 【多賀城市】

地形から見ると、規則正しい方形の寺域を占めることはなく、中門の南の南門と寺域を区画する施設もなかったとされています。

多賀城廃寺 金堂跡 【多賀城市】


平安時代になると講堂が廃絶し、その基壇の上に小規模な堂、築地塀の西外側に二棟の堂が建造されてきます。


現在は松林のなか史跡公園として基壇・礎石等が復元整備されています。

(出典 宮城県の歴史 (県史)


【多賀城跡MAP】

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