らむ茶の独り言

ロックとノンアルコールビールと田舎暮らしを愛するガーディニング野郎の勝手な独り言。

勇気とか希望とか

2013年11月18日 06時37分40秒 | 日記・エッセイ・コラム
庭の冬の準備というか秋の片付けが出来ないままだんだん冬が近づいて来る。今月に入ってからほとんど晴れる事がない。数日は晴れてもらわないと作業に入れないのだが、草木が濡れたままだと作業が上手く出来ないからね。数日晴れてくれたら、というかここまで毎日どんより曇って雨ばっかりでやたらに寒かったのかなあ、11月って。

先日、You tube で両腕が無いのにドラムを叩いてベースを弾くという人の動画を観た。最初はどうやるのかまったく想像がつかなかったのだが、動画を観るとナルホドこういうことかと目からウロコ。というか、こうやって出来るもんなんだな。スティックは手に持つものだと思い込んでいた。工夫すれば同じ事が出来るのだな。

随分昔だが、TVでやはり両腕が無いのに電器修理をやる人を観た事がある。その人はドライバーを足の指で器用に扱ってくるくる回したりしていた。これは衝撃的だった。人の足の指ッて言うのはここまで器用に動くものなのかと。まるで手の指と同じ様に動かしていたからね。もう足の指じゃない。誰もが同じ事が出来るかどうか判らないが、人は足の指をほとんど使う事がないからね。実は我々は足の指の持つ本来の機能をまったく使っていないのかもしれない。

さて、今回観たドラムを叩く人の動きはその足でドライバーを回すのに比べると衝撃的とまでは行かないが、充分に驚嘆させられるものだった。人って工夫すればこういう事が出来るのだな、と。両腕が無い時点でドラムを叩くとかベースを弾くなんて事は出来るわけが無いと思うだろう。五体満足な人ですらドラムを叩ける人などホンの一握り。

まあ、五体満足だからドラムを叩けないといけないという事は無いわけで、興味が無い人にはどうでもいい話かもしれない。そう言えば片手しかなくてビッチャーやってる人もいたね。大リーグだったかな?器用にグローブを扱って片手でボールを受けてグラブを外して球を投げる。片手のバッターは見た事がないがいるだろうね、これも。取り上げられていないだけでいるんじゃないかな。

何が言いたいかというと、オレはこういう人から勇気やヤル気をもらう、という事だ。150キロ以上の球を投げる姿をみて勇気やヤル気をもらう事はない。出来そうも無い凄い事を見せられて、オレも頑張ろうと、とは思えない。ヤル気を失うのが関の山だ。こんなコト出来るわけがないだろうと。

スポーツ選手が大活躍してる姿を見て勇気や希望を感じるか?とオレはいつも考える。被災地の皆さんに勇気を届けたい。よくスポーツ選手が口にするセリフだ。オレはこれを聞かされる度にアスリートってヤツはうぬぼれ屋のナルシストばっかりだなとウンザリする。まあ連中が本気でそう思ってるかどうかはわからんけどね。多分に言わされてる感があるからね。だとすると今度は言わせてるヤツがとんでもないうぬぼれ屋のナルシストだという事だな。スポーツの試合なんぞ娯楽の1つでしかない。人生を感じる様なものなどあるワケがないだろう。

甲子園で選手がエラそうな事をぬかしやがるのを聞くとムカムカする。オマエら野球以外の事を何かして来たのか、と。被災地に行ってガレキの処理の手伝いでもやったコトがあるのか?ボランティアで雪かきしたコトがあるのか?朝から晩まで親が用意してくれたユニフォームとバットとグローブを使って何不自由無く野球をやってるだけの高校生の姿を見て何が勇気を与え隊、だよ。まったく。

まあオレは野球にさしたる興味も思い入れもないからそう思うだけで、甲子園を観て生きる希望をもらえる人がいるのかもしれんなあ。それはそれでケチをつける事ではないけど、そういうひとはシアワセだ。そもそも、スポーツの試合を観たぐらいで生きる希望を持てる人は元からさして人生に絶望していないんじゃないか?人生に楽しみは必要だから、そういう意味では希望かもしれないな。希望というにはチト大袈裟な感じがするが。

話はズレたが、オレはくじけそうな人が勇気や希望を感じるのは優れた身体能力を持ったスポーツ選手の姿や人並みはずれた匠の技ではないと思っている。ナデシコサッカー選手が監督から、「オマエら被災地の人に比べたらどれだけ恵まれてると思うんだ、死ぬ気でやれ」と叱咤されてメダルを取った。監督はよく判っている。勇気をもらうのは選手の方なのだ。被災地に勇気を与える事が出来るのは被災地よりも更に逆境に置かれてる人の姿でしかない。

人は自分よりもハンディの大きい人の必死で生きる姿にこそ感動して生きる勇気をもらうのだとオレは思っている。彼や友人達は両腕が無いのにドラムを叩けるように色々工夫して相当練習したんだろう。それにひきかえ五体満足のオレが出来ない言い訳していてどうする、と。残念ながら人は自分より不幸な人の姿を見てしかシアワセを感じる事が出来ない。感じるシアワセは相対的なものだ。自分の身には絶対に起きない幸運を心から祝福出来る事はないだろう。宝くじを当てた人を祝福なんて出来ないだろ。当たった人もよく判っていて必死で隠そうとするらしいしね。

もちろん、他人の幸運やシアワセを心から祝福出来る人もいるだろう。そういう希有な人は確かに存在する。本当に良い人ってのはいるからね。だが極少数だ。人生で数人しか会った事がない。そしてそういう人に限って薄幸だったりするんだよなあ。世の中ってヤツはまったく。

とにかく、オレはナマケモノだから出来ない言い訳ばっかり考えてる。そして出来ないのは能力が無いからだと思ってる。人並みはずれた事が出来るのは努力じゃなく才能だと思ってる。誰でも出来る凄い事なんてものは無いと思っている。でも何かをしなくちゃいけないとも思っている。そして、こういう動画を観ると考えさせられる。大きなハンディが無いのに出来ない言い訳ばかりしていていいのか、と。

もっともこの彼はかなり優秀な学生らしく将来は弁護士になりたいのだとか。両腕が無い人がみんな同じ事が出来るわけでもないだろうし、あまり深く考えるとよろしくないね。深く考えるともう何を出来なくなる。自分の経験では、人は特殊な事以外はだいたいある程度までは誰でも出来る様になる。ただ、それにはそれなりの時間と手間がかかる。それを続けられるかどうかが才能と呼ばれるものなのかなと。めげずにやり続けられる事、それが才能かと。

古人が良い事を言っている。好きこそ物の上手なれ。好きな事は続けられる。だから上達するのだと。そういう好きな事を見つけられるかどうかも問題だ。興味の無い事を好きになれと言っても無理だしね。人は続けることで上達出来ると思う。と言うか思いたい。そう思わないと何も出来なくなってしまう。才能などというものは通常はあまり関係が無いと思う。というか思いたい。

とまれ、この歳になると何事も継続してやる事が難しい。若い頃はそれこそ夢中で一日中出来たものだが、今では一時間がとてつもなく長く感じられる。情けないやら不甲斐無いやら。やりたい事は色々あるんだが体がついてイカン。まあそれも言い訳なんだけどね。一時間もギター弾いてたら肩こりが激しくてねえ。もう期待する様な事は出来ないのかな、と思う自分とやればまだ出来るハズだと思いたい自分。

いずれにしろ五体満足でも年齢的に出来る事はだんだんと限られて来る。無理しない範囲で一体何が出来るのだろうねえ。両腕があっても彼の様なドラムは叩けないしね、もう。むう。だんだんとネガティブな思考に傾いて来たか。どんよりと曇った寒い北国の空ばっかり観てるからだな。気分が沈みがちなのは。冬はほとんど晴れないからね東北の日本海側。だから自殺率が高いんじゃないか?気候とか病気や行動に大きく影響してると思うね。住んでる地域で大きく違う事と言ったらまず気候だからね。温暖化と言われても寒いし雪ガンガン降るしねえ。





コメント
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