「パリ左岸のピアノ工房」、T.E.カーハート著、村松 潔 訳、新潮クレスト・ブックス。
「わたし」は、毎日の子どもの学校の送り迎えで「デフォルジュ・ピアノ-工具とピアノ」の前を通っていた。ある日、中古のアップライトピアノを探すめに、この工房の扉をノックする。謎めいたギャラリーの奥のアトリエには、ありとあらゆるメーカーとモデルの、解体の様々な段階にあるピアノがならんでいた。「わたし」は、たちまちピアノの深い世界へ、贅沢な世界へと誘われ、静かに探求が始まったのだった。その春、ついにシュティングル社製のベビー・グランド・ピアノに出会い、所有することになる。それから翌年の春までの一年間、ピアノを軸として様々な人々と出会い交流し、音楽の世界を再発見していくのだった。
スタインウェイ、プレイエル、ファツィオーリ、べーゼンドルファー、ベヒシュタイン、エラール・・・、古今東西の名器がこのアトリエに集まり、再生されていきます。たくさんの脚のないグランド・ピアノが平らな面を下にしてならべられた光景は、沖に引いていく幾重もの波のようだといいます。黄ばんだ象牙の鍵盤、精巧な象嵌細工を施したケース、ピアノの内側に記された製作者のサインや街の名前、彫刻飾りつきの脚、レモンウッドのガヴォー、ローウッドのスタインウェイ、ベートーヴェンのピアノ、ファツィオーリのピアノ。ピアノをまるで大切なゲストのように扱う職人のリュック、アル中の凄腕調律師ジョス、巨漢のピアノ配達人。こだわりを持った一癖も二癖もある職人たちの仕事振りが、いかにもパリらしくて魅力的です。何よりも、ピアノの音に関する表現がすばらしい。それぞれの登場人物たちがピアノについて語る豊かな語彙と表現に、美しいピアノの姿が優雅に浮かび上がってきます。そしてピアノの背後にある物語。楽器でありながら調度のような存在でもあるピアノは、音楽という思い出とともに特別な存在であることを感じるのです。