集合写真
11月6日(水)
今日は、「開校10周年記念式典」の記念品として配布される「記念ファイル」に使用されることになる、全校児童の集合写真を撮りました。
こんな感じです。
3枚撮ったので、できるだけ多くの子どもたちの笑顔が見られる写真を使用することになります。
この開校10周年記念式典に関して、大志小学校の歴史をひもといてみました。
唐津藩時代、唐津の教育は、藩校、私塾、寺子屋の3つに分かれて行われてきました。
辰野金吾や大島小太郎が通った「耐恒寮」も、唐津藩最後の藩校のひとつでした。
そして、志道小学校の名前の由来になった「志道館」も、文政6(1823)年にできた、小笠原時代の藩校でした。
この時代の話も、そのうち紹介したいと思っています。
明治3(1870)年、廃藩置県により、唐津藩がなくなり、唐津県となりました。
そして、明治5(1872)年、学制頒布。
「小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ズ学バズンバ・・・」と、国民皆学校を謳い、明治7(1874)年、志道小学校が大石町にできました。この学校は、その後、大石小学校、舞鶴小学校分校、市開小学校と名前を変え、のちの外町小学校になります。
大志小学校の直接のご先祖様は、明治8(1875)年に旧志道館跡に開校した松原小学校。
翌年、東城内(旧唐津東高跡)に舞鶴小学校が開校。
明治14(1881)年、松原、舞鶴の両小学校が統合されて、唐津小学校となりました。
昭和50(1985)年に唐津小学校創立百周年記念式典が開催されていますので、松原小学校開校の1875年をもって、唐津小学校の始まりとされていることがわかります。
初代校長は、現在玄関前に銅像として鎮座されている、大川謙治校長です。
児童数の変遷を見てみると、今から120年前の明治26(1893)年度の卒業生(現小学4年生)が、ちょうど100名だったと記録に残っています。
昭和16(1941)年、戦時体制下に唐津国民学校と名称変更。
終戦後、昭和22(1947)年に、再び唐津小学校に戻りました。
今からちょうど60年前の昭和28(1953)年度には、卒業生は唐津小学校史上最多の373名、全校児童も2082名になりました。
そして、昭和33(1958)年、志道小学校と大成小学校が分離独立して開校しました。
しかし、児童数が最大だったのは、開校の年。(志道小1157名、大成小1223名)
以後、徐々に児童数は減少し、平成16(2004)年3月に閉校。4月に統合して、大志小学校が開校したのです。
現在、児童数412名。
志道・大成小開校当時からすると、児童数は55年で5分の1になってしまいました。
けれども、139年の歴史と伝統を受け継いだ大志小学校が、子どもたちにとってよりよい学校であるように、そして、集合写真のような子どもたちの笑顔いっぱいの学校になるように、これからも職員みんなで頑張っていきたい。そうした思いの伝わる記念式典になればと思っています。