私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』 トーマス・マン

2007-11-10 21:58:12 | 小説(海外作家)

同級生のハンスに憧れを抱き、美しいインゲに恋をするトニオだが、芸術を愛する彼は、自分がハンスとインゲとは違う世界に属していることを悟り、苦悩する。芸術家となった青年の苦悩を描いた「トニオ・クレーゲル」と、ヴェニスに訪れた老作家が美しい少年と出会い、破滅していく姿を描いた「ヴェニスに死す」の二編を収録。
ドイツのノーベル賞作家、トーマス・マンの代表中篇。
高橋義孝 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)


『トニオ・クレエゲル』は学生のころに読んで感銘を受けた作品のひとつだ。
僕はこれまで岩波文庫の実吉捷郎訳でしか、この作品を読んだことはないのだが、今回の高橋義孝訳は、実吉訳ほど『トニオ・クレーゲル』という作品世界に心を惹かれることができなかった。
その理由は、この作品を何度も読んだためということもあるし、もうトニオのように感じやすい年齢ではなくなったこともある。あるいは読んでいるときの環境が違っているのもあるのだろう。
だが、それと同時に訳者が違うということも大きいような気がした。使う言葉の微妙な違い、それが作品全体の印象に影響を与えているように感じられるのだ。

たとえばラスト、インゲがトニオの前で踊るあたりの文章を比べてみよう。

実吉訳では

「眠るのだ……動くとか踊るとかいう義務なしに、甘くものうくそれ自身の中に安らっている感情――全くその感情にのみ生きられるようになりたい、とあこがれるのだ。――しかもそれでいて、踊らずにいられないのだ。敏活に自若として、芸術という難儀な難儀な、そして危険な白刃踊りを演ぜずにはいられないのだ――恋をしながら踊らずにいられぬという、その屈辱的な矛盾を、一度もすっかり忘れきることなしに……」

となっているのに対し、高橋訳は

「ねむり……行為したり踊ったりするという義務を負うことなく、心地よく気だるくそれ自身のうちに休らっている感情、そういう感情に従って素朴に完全に生きて行きたいと願う心が一方にありながら――しかも他方では手抜かりなく気を張りつめて芸術というじつに困難な危険このうえもない白刃の舞を舞いおおせねばならぬ――恋をしながら踊らねばならぬということのうちに含まれている屈辱的な矛盾をすっかり忘れてしまうことは絶対になく。……」

となっており微妙に違っている。

これは感覚的な印象なのだが、実吉訳は全体的に情緒的というか、文章に青春期らしい情感が漂っているような気がする。それに対し、高橋訳は情感というよりも理知的な文章という感じを受ける。

『トニオ・クレエゲル』は青春期の懊悩を描いた作品だ。
そういう作品の性質上、理知的な文体よりも、情緒に訴える文体の方が強い印象を残すのは確かだろう。
そういった微妙なさじ加減が作品全体に対する印象を変えたような気がする。

訳者の文章でこんなにも印象が違ってくるのか、と素直に驚くばかりだ。外国文学を購入するときは注意しなければならないらしい。

作品全体の感想は実吉訳の『トニオ・クレエゲル』に記したので、ここでは割愛する。


『ヴェニスに死す』は岩波文庫で一度読んだことがあるが、やはり今回も前回ほどは楽しむことはできなかった。訳者の影響かは判断を保留しよう。

主人公のアシェンバハは、初めの方で若者と戯れる老人を醜悪だと感じている。そんな彼が美少年に魅入られ、陶酔し、徐々に壊れていく過程がおもしろい(おもしろいという言い方もどうかとも思うが)。
理性的に振舞ってきた男が、ストーカー行為を働く姿は醜悪そのもの。その自分の醜悪さに対してエロスの神を引き合いにして、もったいぶった自己弁護を行なう姿は見ていて悲哀すら感じられる。

しかしそこまで少年に耽溺するアシェンバハの視線は、少年そのものというよりも、少年がまとっている美的な雰囲気しか見ていないように感じた。
アシェンバハは少年を形容するとき、ローマの彫刻を引き合いに出しているが、それはある意味、偶像化した少年という存在をあがめていからだろう。そしてそれこそ、皮肉なことだが、アシェンバハが一流の芸術家であることを示しているのかもしれない。

そうして良心の側と、陶酔に溺れたいという側の境目をふらふらしていたアシェンバハはやがて破滅に至る。
だが、芸術を奉じてきた彼は心のどこかでそのように美に溺れたいという願望を持っていたのではないか、という気がした。ラストのパイドロスに語りかける口調には、その願望がにじみ出ているように僕には見える。
そういう風に考えるならば、すべての流れは必然だったと言えるだろう。
そうした自滅に至る心理を綿密で、これはこれでおもしろい。「トニオ」ほどではないが、この作品もなかなかの良作だと改めて思った。

評価:★★★★(満点は★★★★★)


そのほかのトーマス・マン作品感想
 『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫)
 『トーニオ・クレーガー 他一篇』(河出文庫)


そのほかノーベル文学賞受賞作家の作品感想
・1929年 トーマス・マン
 『トニオ・クレエゲル』
・1947年 アンドレ・ジッド
 『田園交響楽』
・1982年 ガブリエル・ガルシア=マルケス
 『百年の孤独』
・1999年 ギュンター・グラス
 『ブリキの太鼓』
・2003年 J・M・クッツェー
 『マイケル・K』
・2006年 オルハン・パムク
 『わたしの名は紅』


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1 コメント

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ヴェニスに死す (庶民)
2009-04-04 23:14:49
ああ、「ヴェニスに死す」がある。これは僥倖です。美しいものを眺めながら(たとえ幻覚でも)死ぬことができたら、何と幸せでしょう。新潮文庫の160頁と161頁に、弥勒菩薩の栞を挟んでいます。美の創作の静隠が書かれていると思うのです。美は死の懐に抱かれていると思うのです。死んでいる事と生きている事は同じに思うのです。下へ下へ流れる水のように暮らしたいと思います。何もない、ただ、冷たい水が流れているのです。

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