私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

永井荷風『つゆのあとさき』

2013-10-29 20:51:35 | 小説(国内男性作家)

銀座のカフェーの女給君江は,容貌は十人並だが物言う時,「瓢の種のような歯の間から,舌の先を動かすのが一際愛くるしい」女性である.この,淫蕩だが逞しい生活力のある主人公に,パトロンの通俗作家清岡をはじめ彼女を取巻く男性の浅薄な生き方を対比させて,荷風独得の文明批評をのぞかせている.
出版社:岩波書店(岩波文庫)




永井荷風はこれまで積極的には読んでこなかった。
読んだのは『濹東綺譚』だけで、ピンと来なかったために、そのまま遠ざかっていたのだ。

それだけにこれまで、もったいないことをしてきたな、とつくづく思うほかない。
『つゆのあとさき』は、そう思わせるほど文学的にも物語的にも非常に高いレベルの作品であった。


カッフェーで働く主人公の君江は性的にだらしない女、いわゆるヤリマンだ。

当時のカッフェーがどういうものか知らないが、キャバクラみたいなものかなと想像する。
君江は店が終わった後、アフターに客たちと落ちあい、待合で関係を持っている。
それは別にいいのだが、その人数は一人や二人でなく複数なのである。やはりヤリマンと言うほかない。

当然人数が多いと上手くさばけるわけもなく、店に男たちが一斉に訪れ鉢合わせするなんてこともある。
それをうまくかわすのに、てんやわんやする場面などは少しおかしい。
仕様もない尻軽女だな、と読んでいると思うのだけど、あっけらかんとしているので、どこか憎めない。


君江のセックスに対するハードルは当然ながら低い。
初めて関係を持つ男の場合は、「思うさま男を悩殺して見なければ、気がすまなくなる」なんて思ったりしているし、純粋にセックスを楽しんでいるのだろう。

そういう人だからか、男との関係もどこか淡白だ。

実際彼女は、「嫉妬という感情をまだ経験した事がな」く、「その場かぎりの気ままな戯れを恣にした方が後くされがなくて好い」と思っていたりする。

加えて彼女は、相手に自分のことを知ってもらいたいという思いが希薄だ。

たとえば、自分が好きな男に対して、向こうが自分のことを何か知ろうとするならば、「堅く口を閉じて何事も語らない」でいたりする。
基本的に、相手に関心はなく、他者からの承認欲求も低い。
普通は相手が好きなら、相手をもっと知りたくなるし、知ってほしくなるものだけど、そういう感興は湧かないらしい。


言うなれば彼女は快楽主義者なのだろう。
「君江は新に好きな男ができると忽ち熱くなって忽ち冷めてしまうという、生まれついての浮気者」と述べられている部分があるが、まさにそうだと思う。

その淡白さは、首尾一貫、徹底しており、それがかえってすがすがしいくらいだった。

そういう淡白さもあってか、嫉妬でストーカー行為に走る清岡よりも、したたかに世渡りをしているように見えて、にやにやしてしまう。
君江という女の強さが感じられてそれだけでもおもしろい。


一方の清岡はどこか愚かしく、読んでいると苦笑してしまう。
君江にいいようにあしらわれ、性欲と嫉妬に翻弄される彼の行動はさながらコメディのようでおかしくも物悲しい。

清岡は淡白な君江が自分のことを大事にしてくれないと感じ、腹立たしく思っている。それに淫蕩にふけっている彼女をどこか苦々しく思っているらしい。
それがゆえに、どんどん君江への憎悪を募らせていく。

彼には鶴子という立派な嫁としっかりした父がいるのに、彼はその大事さも気づかずに結果的には奥さんにも逃げられてしまう。
自業自得と言えばそうだけど、そこには人間の業のようなものもにじみ出ていて悲しい。

だから清岡からすれば、君江はファム・ファタールでしかないのだろう。
しかも彼女が無自覚なだけに、清岡からすれば性質が悪いにちがいない。


だが君江は、あくまで自分のやりたいようにして日々を生きている。

とは言え、その性的なだらしなさのために、清岡から恨みをかけられているし、円タクの運転手からひどい仕打ちを受けてもいる。
田舎に帰ろうかと本気で思うほどに追い詰められてもいる。

しかしそう思いながらも、川島と出会った後で関係を持つあたり、君江らしいとと言えば、君江らしい。


そしてその性的奔放さが、最後の場面で、思いもよらぬ転換劇を与えているように僕には見えるのだ。

最後の川島の手紙を読み終えたとき、僕はキム・ギドクの「サマリア」を思い出した。
その映画の中で、一人の少女が、一緒に寝た者は仏教徒になるというバスミルダという娼婦の話をする場面がある。

僕が『つゆのあとさき』を読んで感じたのは、君江はまさにそのバスミルダではないだろうか、という仮説なのだ。

少なくとも川島は死ぬ前に幸福を得ることができた。
すなわちセックスを通して、君江は悪女から聖女へと転換したのである。僕にはそう見えてならない。

それはもちろん誤読の可能性は高い。
しかし性的奔放さが、人間の悪ばかりではなく、聖性さえ呼び起こす、とも見える内容は、僕の胸に深く響いてならなかった。


それでなくても、キャラクターや物語のおもしろさなど、高いレベルにある作品ということはまちがいない。
永井荷風が文豪と見なされる理由を、この作品によって、初めて知らされた思いだ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

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1 コメント

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つゆのあとさき (牧子嘉丸)
2022-03-19 22:39:10
面白い感想、ありがとうございます。
いわゆる研究者のこれでもかという精緻で難解な論考より、ずっと心にも頭にもしみいりました。
軽薄文士清岡進は人妻鶴子との純粋な愛情も結べず、君江という女給を性的にもてあそぶだけで、精神的満足は得られない。
鶴子は蔵書整理をきっかけに渡仏し、君江は自身の性的なものが聖性にまで昇華することを暗示して小説は終わる。
まさに性的奔放さが人間の真心を呼び覚ますこともあるのですね。
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