
長春は戦前、日本の関東軍の侵略によって1932年に満州国の首都として名称を『新京』と改定させられ、その後終戦までの期間に日本人による都市建設が行なわれたと各種ガイドブックには記載されてます
中国東北部の各都市は大なり小なり戦前の満州国関係で日本の影響を受けた街造りが行なわれ、今でもその名残を体験する事が出来ますが、この長春は何しろその首都としての位置付けからして市内中心部には未だに現役として使用されている建築物が大変数多く残っております
10月10日に長春に足を踏み入れ、その面影が一番感じられる旧大和ホテルに宿泊しましたが、部屋はお粗末な造りの上、水シャワーの洗礼をいきなり受けたものです
水シャワーの後、街の中心地に観光に出掛けましたが時間的に午後の4時前に出発
駅前付近は戦前の日本人街とのことで当時の面影を捜しながらの散策です
駅前から真南の方向に人民大街通りを2キロ程歩くとそこに円形の人民広場(満州国当時は大同公園と呼ばれていたそうです)と呼ばれている公園があり、その人民広場はローターリーとなって各大通りに繋がっています
この付近が満州国当時の首都新京としての官庁街になり、周りには現在の中国長春市としての各官庁ビルが集中しております
各建物を撮影しましたが時間的には現地時間夕方の5時。長春の街の緯度は北海道旭川と同程度ですから10月のこの時期としては間もなく日没の関係があり殆んど上手く撮れませんでした
更に問題なのが単なる官庁であれば問題ないのでしょうが軍関係の建物や公安関係の建物は厳しく撮影が規制されており、今回も長春市公安局の建物をうっかりして撮影しようとしていたところ衛視に大声で注意され、慌てて立ち去る。
と言った状態でした
画像はなんとか西日を上手く利用して撮影出来た『吉林省賓館』
満州国当時は『国都建設局』つまり建設省として利用されていたのでしょう
中国東北部の各都市は大なり小なり戦前の満州国関係で日本の影響を受けた街造りが行なわれ、今でもその名残を体験する事が出来ますが、この長春は何しろその首都としての位置付けからして市内中心部には未だに現役として使用されている建築物が大変数多く残っております
10月10日に長春に足を踏み入れ、その面影が一番感じられる旧大和ホテルに宿泊しましたが、部屋はお粗末な造りの上、水シャワーの洗礼をいきなり受けたものです
水シャワーの後、街の中心地に観光に出掛けましたが時間的に午後の4時前に出発
駅前付近は戦前の日本人街とのことで当時の面影を捜しながらの散策です
駅前から真南の方向に人民大街通りを2キロ程歩くとそこに円形の人民広場(満州国当時は大同公園と呼ばれていたそうです)と呼ばれている公園があり、その人民広場はローターリーとなって各大通りに繋がっています
この付近が満州国当時の首都新京としての官庁街になり、周りには現在の中国長春市としての各官庁ビルが集中しております
各建物を撮影しましたが時間的には現地時間夕方の5時。長春の街の緯度は北海道旭川と同程度ですから10月のこの時期としては間もなく日没の関係があり殆んど上手く撮れませんでした

更に問題なのが単なる官庁であれば問題ないのでしょうが軍関係の建物や公安関係の建物は厳しく撮影が規制されており、今回も長春市公安局の建物をうっかりして撮影しようとしていたところ衛視に大声で注意され、慌てて立ち去る。

画像はなんとか西日を上手く利用して撮影出来た『吉林省賓館』
満州国当時は『国都建設局』つまり建設省として利用されていたのでしょう